タブロイド

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8、  きみは鉛を呑み込んだように、胸がつかえてムカムカしていた。それがアルベールの態度のせいだとは分かっていた。  自分が清廉潔白(レクティチュードゥ)などとは思わないし、テレサ・クラーセンに全く瑕疵(かし)がないとも言わない。が、それにしても腹が立つのは止められなかった。寂しげなジェーンを見たからかもしれない。  勢いに委せて危うくヴィコ刑事に連絡しそうになった。すんでのところで思い止まる。いま聞き込んだ証言だけで、果たして警察は動くだろうか。望み薄だ、ときみは判断する。  ヴィコに話すとしても、もう少し情報を集めてからがよいだろうか。想像を巡らせながら歩いていると、携帯電話にキャルからメッセージが入った。大事な用事があるから、リンクを貼った場所に来て欲しいと書いてある。きみは少しだけ胸が高鳴るのを覚えたが、慌てて打ち消した。彼女とどうこうなるなんて、ありえない。  それでも、携帯電話で会社のサーバーに簡易報告を入れて、キャルに指定された第八区の食堂(ブション)に向かった。  陽はすっかり落ち、身に迫る寒さは昨晩と変わらないはずだ。けれどもきみは、身の内に少しだけ暖かいモノが点っている気がしている。そしてそのことにまだ自覚が及んでいないのだった。   * 「あ、来た来た」  キャルが手を振っていた。デニムパンツ姿で、洗いざらしのシャツに焦げ茶色のニットベストを被っているだけのラフな格好だが、やはりとても美しかった。  きみは店の奥の、キャルのいる四人席に腰かける。店内は額縁だらけの黄色い壁に、赤と白のチェック柄のテーブルクロスのかかった席が並んでいる。活気のある店で、あちこちでおしゃべりとワイングラスを鳴らす音がしていた。 「遅かったわね。何してたのよ」 「仕事だよ。仕事」 「へえ」  キャルが思わせぶりに、視線を送る。くっ、何か腹が立つ。  ウェイターを呼んで、本日の定食(ムニュ)をオーダーする。いつもならメニューを読んで熟考するところだが、気になることがあった。キャルの隣に、もうひとり女性が座っていたからだ。  少しきつい顔立ちだが、人目を惹く美女に入るのは間違いない。カジュアルなネイビーのパンツスーツ姿で、インナーは落ち着いた感じの白いブラウスだった。その女性は、無礼にならない程度の視線で、しかし明らかにきみを観察していた。  歳のころは、キャルと同じくらいだろうか。若さに似合わない貫禄のようなものがそなわっている。きみはファッションにまったく詳しくないが、身に着けているものに相当、金がかかっているように見える。  軽くウェーブした髪は、無造作なようでいて、インチ単位まで計算しつくされているに違いない。まるで女優のようだ。自分の力で人生を切り開いてきた人間特有の、自信のようなものが、無意識に表情に出ている。  但し、心なしかいま薄いヴェールのようなものが彼女の顔から足先まで全身を覆っていて、せっかくの魅力を曇らせているようにも見える。その女性が、きみの方を見てから、不安そうにキャルの服を引っ張った。 「ねえ、キャルが言ってた探偵さんってこの人?」 「そうよ」  キャルが屈託なく答える。女性はあからさまに失望の色を浮かべた。きみは内心ムッとした。何なんだ一体。きみはキャルを軽くにらみつけた。キャルがようやく紹介する。 「この子はわたしの友達のシュゼット・マルシャン。エリオの〈ノウェム〉って店で、副店長をしてるの」  第三区エリオ通りといったら、上客のみが相手の高級店が軒を連ねる通りだ。一回利用しただけで、きみの給料ひと月分は下らないだろう。  キャルによれば、二人は以前、エリオの同じ店で働いていたのだという。そのうちキャルが店を辞めたため、顔を合わせる機会は減ったが、連絡は取り合っていた。シュゼットはその後も着実に客を付け、今では別の店の副店長に納まったということだった。  話を聞きながらきみは、運ばれてきた食事を平らげ始めた。カリカリにソテーした豚の背脂の塩漬けとクルトンが乗ったグリーンサラダに、焼きリンゴを添えた血のソーセージ(ブーダンノワール)だ。女性二人は、アラカルトで鶏と白身魚をシェアしている。 「この子ったら、ほんとに変わってて。前のお店で人気No.1だったのに、あっさり辞めちゃったんですよ」  食事をしているうちに、場の雰囲気に馴染んできたのだろう。シュゼットの態度が柔らかくなっていた。キャルを見て、愉快そうに思出話に花を咲かせる。 「だって、うち、あんな堅苦しいところあわへんもん」  なんでもないことのように、キャルが手を振り、手洗いに立った。親友というのも本当なのだろう。キャルはリラックスしてくると、お国言葉が混じるのだ。  ふと思いついて、訊いてみた。 「ひょっとして君も元は……?」  シュゼットはかすかに微笑んだ。 「いいえ。私は生まれてからずっとXXです」  なぜだか知らないが、ほっとする。 「ね、バズ君。昨日の話、覚えてる?」  戻ってきたキャルが、ウェイターにコーヒーをオーダーした。そういえば二人ともワインを嗜んでいない。しっかり話をするつもりなのだろう。 「昨日の話?」 「忘れちゃったの」  ドクリツよ、ドクリツ、と囁く。 「今日はね、彼女の話を聞いてもらおうと思って来て貰ったのよ」  そう言ってシュゼットに視線を走らせる。彼女には、寂しそうに目を伏せても隠しきれない華があるが、やはりどこかくすんでいる風情だった。 「調べて欲しいことがあるんです。私のーー恋人のことで」  彼女はハンドバッグから携帯電話を取り出すと操作し、きみに差し出した。そこにはひと月前のニュースチャンネルのテキストが表示されている。十一月八日の〈ル・プログレ〉紙の記事だ。 【飲酒運転でトラック横転】  昨夜七日の午後十時三十分頃、東部郊外ミンスターのサン=ジャック通りの交差点上で、大型トラックが横転、大破して炎上しているとの通報があった。ミンスター署の調べで、トラックを運転していたのはドレー地区の運送会社勤務ダヴィド・ローランさんと判った。ローランさんは事故の三十分ほど前、酒販売店でワインを購入したことが確認されており、事故当時、酒気を帯びていたと考えられる。現場は夜間で人通りがなく、トラック以外では火災等の被害もなかった。  埋め草的な記事だったのだろう。記述はそれだけだった。七日と言えば、バロー事件と同じ日だ。翌八日は例の、司祭殺害事件で新聞も一杯だったことだろう。 「このダヴィドさんが、あなたの恋人ですか?」  シュゼットは頷く。 「だった、ということです。彼は炎上したトラックに乗っていて……亡骸(なきがら)はひどく傷んでいました……」  彼女の大きな眸が、うっすらと濡れた。 「私、どうしても納得できなくて」  さりげなく出したハンカチで目元を拭いながら、シュゼットは訴える。 「確かにあの人ーーダヴィドは、以前はお酒ばかりに頼ってました。一度飲みだすと歯止めが利かなくなって……殴られたこともあります。でも彼は変わりました。少なくとも私と暮らし始めてから、飲んでる様子はありませんでした。仕事がたて込んでないときは、自分でアルコール依存症者の自助グループにも顔を出したりして……」 「同棲されていたということですね。二人で暮らし始めて、どのくらい経つのですか?」 「一年前からです」  一年間の禁酒。それが長いのか短いのか、きみには判断がつかなかった。 「失礼ですが、ダヴィドさんのご遺体からアルコールは?」  シュゼットは唇を噛んだ。 「検出されたーーと警察には言われました」  つまり、飲んだのだ。  でも、と彼女が続ける。 「前の晩ーー食事のあとで、話し合ったばかりだったの。子どもが欲しいねって。『今まで以上に気を引き締める』って、彼、言ったんです」 「それで、私に何を調べろと仰るんですか?」 「彼がーーどうしてワインを買ったのか、それが知りたいの」  シュゼットは躊躇いなく言った。なんとまあ。きみは内心で叫ぶ。 「それはつまり……ええと、生前の彼の行動を調査すれば良い、ということでしょうか?」  言葉を選びながら話を続ける。 「実際問題として、事故当時のダヴィドさんの内心にどのような変化があったのか、外形的に確認できるかは分かりませんよ」  それでかまいません、とシュゼットは答えた。 「とにかく、彼の亡くなる前の状況が知りたいんです。ーー意味のないことだとは承知しています。そうしたところで彼が還ってくるわけではありませんから。でも、あの人は、ダヴィドは私に言ったんです。『もう決して酒は飲まない。君と幸せになるんだ』って」  世界中でどれだけ「男の約束」が守られているのか、きみは我が身と引き比べて考えたが、口に出すのは憚られた。 「シュゼットはね、彼の愛情の(あかし)が欲しいのよ。何か理由があって、シュゼットとの約束を守れなくなってしまったんじゃないかって思っているの」  キャルの注釈は、いささかロマンチックすぎて、きみにはピンとこなかった。 「でも、一応、まだ仕事も残ってますし……」  言外にやる意思のない事を匂わせたつもりだったのだが。 「お仕事に差し支えない範囲で構いません」 「うちの頼みや」  キャルも拝む仕草をする。 「費用は、ある程度なら融通がきくと思います」  ハンドバッグからシュゼットは分厚い封筒を取り出した。  とても断れる雰囲気ではなかった。   ‡  コウ王子は成長するにつれ、その類稀なる美質を開花させていく。幼年ながら、かの王子には人を惹きつけずにはおれない魅力が備わっていた。  薔薇色に上気した頬、艶やかな黒髪と言った外見上の特質のみならず、一を聞いて十を知る聡明さを持ち合わせ、性格は明朗にして快活、いつも好奇心に満ちた目を輝かせ、コロコロとよく笑う。加えて、美しいものに涙する繊細な感性と、貴賎の分け隔てなく人をいたわる優しい心根があった。  コウは兄であるシン王子をとても慕っていて、シン王子の行くところはどこにでも付いて回った。犬コロのように自分にまとわりつく弟を、シン王子はうっとおしそうに扱ってはいたものの、内心、可愛くて仕方がなかった。初めて庇護者を持った者の感じる強烈な保護欲。初めて自分に無条件の愛情を傾けてくれる者に恵まれた喜び。  コウ王子は、王宮の散歩の途中で必ず母の居室に寄りたがった。コウの母は国王の寵姫とはいえ身分も低く、病弱だった(実際、数年後にはコウの手を握りつつ、他界することになる)。いつもたおやかな、優しげな微笑の人だった。部屋に入るなり、コウが母親に跳びつく様を、微笑ましさとともに一抹の羨ましさを持ってシンは眺めた。そこには彼の求めてやまないものがあったから。  とはいえ、蜜月はいまだ続いていた。
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