プロローグ

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プロローグ

自分とは何か。 追い求めているようでも、それを是と定義する事は、 どこか自由を失うようにも感じる。 時に信念と呼ばれるそれが、自由を代償とする程に必要な物かと聞かれると、 いまいち自分にはうなづき難い。 自分という者を知りたいが、 自分という者が分かった先で、 雁字搦めになりたくはないのだ。 いよいよ、幸せとやらすら、 追い求めるのが億劫になりそうな思考だった。 雨が降っている。 それはある夏の日のことで、正確に何日だったかは忘れてしまったが、蒸し暑さで溶けてしまいそうなほどの日差しが印象に残っている。 大型モール内の休憩用に作られたキッズフロアの一角。 備えられた椅子に腰かけていた男性はそっと正面に立ち、声をかけてきた女性に、最初は意識を向ける事さえしなかった。 「仲の良い家族ですね」 「!・・・はぁ」 男性は訝し気な顔をした。 腕の中で眠っている幼女は男性の動きに身じろぎをして目を開く。 果たしてその幼女の瞳に自身はどう映るのか、女性はそう思案している様子で、にこやかな嬉しそうな笑顔を向けて、「やぁ」と幼女にも挨拶をする。 男性は不審ではあるが、物怖じせず堂々と返答した。 「ありがとうございます。」 「貴方は良い父親なんでしょうね。」 「・・・そうだといいんですがね。」 「自信がないのですか?」 「さぁどうでしょう。二人目になりますが、慣れることは無いですね。」 男性は苦笑して見せた。 しかし、その弱気な発言とは裏腹に腕の中の幼女は三度夢の世界へと飛んでいる。 ゆっくりと小さく揺らされている腕の中はさぞ寝心地が良かったのだろう。 女性は少しかがんでその顔を見つめる。 平和そのものを感じさせるその寝顔は、まさに天使と表現するにふさわしいほど、愛らしいものだった。 女性は顔をあげ、男性に視線を向けると「答えてくれてありがとう。」と名刺を渡す。 男性は幼子を片腕に抱き留めたまま、反対の手で名刺を取る。 その腕には手首に重そうな荷物がぶら下がっているが、全く苦ではない様子で、その腕は思っていたよりもずっと筋肉質だった。 きっと力仕事か体を鍛える必要のある仕事なのだろう。 私の推測はよく当たる。これでもそれを生業にしているのだから。と、女性はその腕をまじまじと眺めた。 「占い師。・・・珍しいですね」 「この街に来たのは初めてで、許可をもらって駅前で店を構えています。夏祭りの出店と一緒ですよ。」 「へぇ、‥‥‥それで、俺の腕は珍しかったですか?」 「!・・・よく見てらっしゃる。力強い腕ですね。お仕事は力仕事?それとも、、そうだな、自衛官とか?」 「俺も人の動きはよく見ている方でして、それこそ、仕事柄。」 一瞬同業者かと疑う気持ちを隠して女性は推測を口にする。 それを聞いた男性は、女性の質問に答えるように鞄から折り畳み式の手帳を見せた。 それは警察手帳だった。 男性はいたずらが成功した子供のような、屈託ない笑顔で女性に言った。 「せっかくだから占ってもらってもいいですか?娘のことを」 「・・・いいでしょう。特別に初回無料ということで。」 そっと女性は二人に手をかざす。 男性は少しだけ腕の中の子をそっと見せてくれる。 起きる様子のない幼女が、静かな吐息を溢し安心しきっている様子が見て取れる。 女性が目を閉じれば、その思考の中には、通常沸き上がるはずのない感情の波とイメージ化された色が見えた。 それは彼女の仕事柄得た直感、いわゆる第六感に近かった。 蝶々の印に、色味に反して暖かな紫。 それに交じる濃い赤色。 いつでも安心に抱かれ、愛される。 そんなどこかつながりに欠けるが、暖かな者たちの空気感は、現状の吐息からは想像できないほどの泣き声にまみれていた。 女性はそっと手を下した。 「幸せって何だと思いますか?」 「・・・俺は、そうだな。 家族がいてくれれば、それだけで幸せだな。」 「ふふっいいですね。 ならば心配はないでしょう。 壁も後悔も、時に彼女の前に立ちはだかるでしょう。 それでも、彼女の傍には、紫と赤が傍にいる。」 女性は幼女から視線を外し、男性を見つめる。男性は心底嬉しそうに笑った。 その瞳は薄い紫色だった。 2016年。 春の陽気が気持ちを高くしていく。 何事も鮮やかに写るのは今が幸せだからなのだろうと、昔のことを思い出して大きく伸びをする。 あの占い師は元気にしているだろうか。 思い出す彼女は、不思議な雰囲気の人だった。 平和な思考はいつでも淡々としている。 ふと踏み込んだ足からギシッと音がする。 視線を落とせば、そこにはベランダの比較的簡素な床がある。 古くもなければ新しくもないアパートの一室が彼の自宅だった。 家族四人、妻と子供二人と住むには十分な広さのある、2LDKの間取りは人生のなかですでに一番長く暮らしている場所と言っても過言ではない。 ベランダからは街が一望できる。 この街で長く暮らしているが、都会とも言えない田舎とも言えない多少中途半端な街並みは、山に抜ける道と海に抜ける道のあり少し閉鎖的な盆地だった。 風に揺れる洗濯物の間からは日差しが照り付けていて、そういえば、あの不思議な占い師と出会ったのも、これくらい日差しの強い日だったなどと、思い出に浸っていたのだ。 男性はふともっと深く過去を振り返る。 軋むベランダ。 身を焦がす太陽。 乾いた喉。 その全てが幸せを感じた後に思い出すには多少酷な記憶だった。 頭を振って現実に思考を戻す。 思い起こした中で幸せを聞かれたことは何度かあったが、あの日ほど素直に返答できた事はない様に思う。 「智治!」 「ああ、洗濯終わったぞ。」 男性が名前を呼ばれて後ろを振り返れば、キッチンの脇で長髪の女性がフライパン片手に立っている。 彼女は「ご飯できたよ」と付け足すと食卓に丁寧に並べられた皿に鼻を高くした。 12時を回った短針を見て、男性もベランダから室内へと入り後ろ手に鍵を閉める。 どこか後ろ髪をひかれる思いがするのは、きっと過去をそこへ置いてきたからだろう。 男性の名前は松川智治。 女性は松川千明。 二人は夫婦である。 智治は、黒髪の短髪。 多少風に揺れてセットが崩れたところで気にもならない程度には天然のパーマだ。 少し垂れた瞳は、ブロータイプの眼鏡越しに紫色に光っている。 千明はくすくす笑うと智治の見てわからない程度に乱れたらしい髪を撫でる。 反して撫で甲斐がありそうなのは、千明の方の髪なのだか、その長髪は後ろに一つにくくられており、隠れるように紫の一束が揺れている。 真ん中で分けられた前髪がふわふわと風に揺れている。その瞳は愛おしそうに智治を見つめていた。 照れ臭そうにしつつも素直に撫でられている智治は、突然困ったように笑うと千明の首筋を撫でた。 「それくらいにしてくれ、子供の前で恥ずかしい。」 その一言ではっとしたらしい千明が子供部屋のあるリビング横の和室を見ると、こっそりと二人分の眼光がこちらを見つめている。 それはまだ、5歳と3歳の姉妹の瞳だった。 「パパ頭なでる?」 「まま、ぱぱ」 それぞれに母と父が自分達に気づいたと分かると、ばたばたと歩いてきて抱き着いてくる。 まだまだ幼い二人は、半ば迎えに行く形で二人はそれぞれの腕に抱き寄せられた。 智治は5歳になる智音を、千明は3歳になる明音を、抱き上げた途端さっきのことなど忘れたように、今度は視界に入ったご飯をみて腹を鳴らす。 それは本当に、あの占い師に答えた通り、幸せな人生だった。 途中駄々を捏ねる姉妹を宥めながら、食事を摂る。 それは両親にとっては一苦労なもので、そんな苦労を知る由もない姉妹はそれぞれに食べ終わると子供部屋に戻っていく。 二人の愛情を受けて育つ姉妹はとても仲良しだった。 「去年だったかな。明音を抱っこしてキッズフロアにいた時にさ。俺が女性に話かけられて、お前がふてたことがあったろう?」 「ふててないよ!ちょっと、心配しただけだもん!」 「そう言って、しばらく不機嫌だったろうが。」 「そんな事ない!・・それでそれがどうしたの?」 智治はおもむろに思い出話を始めた。 千明も興味ありげにその話に耳を傾けている。 他愛無い話が続くなか、束の間の穏やかな休日が突然終わりを告げた。 Prrrr・・・Prrrrr・・・ 「はぁ」 携帯の着信音と共に、智治のため息が響く。 それを聞いてくすくすと笑う千明は「でたら?」と勧めているが、智治は嫌々と言った様子で、止まらないため息をしつつ着信に出た。 鳴り響くそれは、この家族にとってはあまり良いものではないが、千明はこっそりその音が好きだった。 智治がその着信に出ると、さっきまでの柔らかな声色から一転して、凛として引き締めた声がいつもよりも低く空気を揺らした。 「はい、第五係松川。・・・・・了解。向かう。」 それは仕事用の携帯の着信だった。 着信の内容を聞きながら、すでに智治は上着と荷物を片手に握りしめている。 千明はその出勤前の夫の一連の動作が好きだったのだ。 というのも、彼女は相当、彼のことが好きなのだ。 「わりぃ、事件だわ。」 「うん、いいよ。駅前のケーキで手を打ってあげよう!」 「へいへい。なんの種類がいいか、あとでLINEしてくれ。」 「はーい!了解。」 智治は千明の頭をおもむろに撫でる。 きちんとまとめていた髪少し乱れてしまったが、それを撫でつけるようにして手を放していく。 隣の部屋に顔を出すと、「とおさん行ってくるわ。」と子供たちの頭も撫でていく。 玄関まで駄々を捏ねながらついて行く子供たちを抱きかかえてえ、千明も玄関の内側で手を振る。 智治はすでに仕事モードに切り替わっているのか、三人に笑顔を向けると足早に駐車場へと階段を駆け下りていった。
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