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第二章『グッバイファーザー』
アパートの押入れからリュックを引っ張り出し、着替えと財布、食料を詰め込んだ僕は、ウインドブレーカーをはおり、八時を回るころにバイクに跨って出発した。
こんな夜に外に出るとは思っておらず、手袋も洗濯に出したままだったので、仕方がなく素手でハンドルを握ることになった。その日は特に寒い日で、出発してから一時間ほど走り、県境の田舎道に差し掛かると、山から吹き下ろした風が、身を裂くような勢いで吹き付けた。指先の血の巡りが悪くなり、いつの間にか感覚が無くなっていた。ここで事故を起こして、腕が吹き飛んだとしても、痛みを感じない自信があった。唇の先がピリッと痛む。鏡が無いからわからないが、おそらく裂けて血が出ているのだろう。
そこで、ようやく、僕は文句を悪魔に宣った。
「なんで実家に戻らなきゃいけないんだよ」
もう半分以上進んだ。今から引き返しても、無駄に身体を冷やしただけになるので、意地でも親父の住んでいる街に向かう。
僕の後ろに跨った少女は、僕の腰に手を回した状態で言った。
「あなたは悪魔に偏見を持ちすぎです。悪魔と言え万能ではありませんから、遠距離から対象を殺すことはできません。特に、下級悪魔の私は」
「つまり、直接行かないといけないってことか? こんなことするくらいなら、願い事するんじゃなかったよ」
「その言葉、あまり言わない方がいいですよ。『契約違反』とみなされます」
「はいはい」
一時間休まずに走っている。夜の運転には慣れていないので、冷や汗をかきっぱなしだった。九時を回って車通りが少なくなったのが幸いだが、時々、道路に落ちている大きめの葉っぱに驚いて、危うく転倒しそうになった。
おぼつかない運転をしている僕に、悪魔の少女は念を押すように言った。
「事故で死なないでくださいよ? 願いを叶えることができなくなるので」
「そればっかりだな」
「当然です。それが悪魔の仕事ですからね」
その無機質な言い方が妙に癪に触り、僕はわざと車体を大きく揺らした。
その瞬間、悪魔の少女はびくっと肩を竦めて、必死に僕の背中にしがみついた。貸したヘルメットを強く押し付けてくる。弱みを見つけた気分で、僕は挑発するように聞いた。
「もしかして、怖いのか?」
「まさか」
強がり。
言及されたくないのか、少女は話を逸らした。
「あと、私は悪魔なので、基本的に人の目には認識されません」
「基本的に?」
「はい。正確に言えば、『認識されにくい』です。私のことは、道端の石ころ。のように思ってください。普通の人間は、私のことを『見よう』と強く思って見ないと、視認することができません」
「つまり、今僕があんたと話しているのも、周りからしたら、『僕が空気に向かって話しかけている』って思われるってことか?」
「はい。そう言うことになります。きっと、周りの人間は、あなたのことを『頭のおかしい奴』って思うでしょうね。まあ、私は初対面の時から柏木さんのことを頭のおかしな方だと認識しています」
「何もそこまで言わなくても…」
僕は前に向き直る。
風は相変わらず強くて、昔、ガラス片で切った額の傷に染みるようだった。口を空けたら、肺の中まで一瞬で凍り付かされそうな寒さ。
帰って、部屋の隅に蹲って眠りたい。その気持ちを抑えて、僕は前を向いた。
こんなつもりじゃなかった。もっと楽に死ねるものだと思っていた。
そんな後悔を、冷え切ったアスファルトの上に残して、僕と悪魔を乗せたバイクは、僕の地元へと近づいた。
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