第一章『苦痛無き死を求めて』

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「大丈夫ですか?」  女性の声で目を覚ます。  僕はぱちりと目を開けると、ゆっくりと顔を起こした。口元を伝う涎を拭う。 「あの、今、何をしたんですか?」 「一度魂を抜かせてもらって、天秤にかけました」 「ああ、そう」  魂を抜かれると意識を失うのか。 「大丈夫です。ちゃんともとに戻しておきましたから」 「で、僕の魂の価値は、どうだったんですか?」  聞くまでも無いな。  女性は、さも申し訳なさそうな顔をして、空中に浮かんだ文字をなぞるように言った。 「残念ですが…、柏木様の魂の価値は…、『下級悪魔』に相当するものですね…」 「そうですか」  案の定。って感じ。別に驚かなかった。 「じゃあ、それでお願いします」 「よろしいのですか?」 「なにがです?」 「魂の価値は、これからの行いで上げることができるんですよ? 道端のゴミを拾ったり、真面目に働いたり、友人とお出かけになったり、通りすがりの老人の荷物を運んだりしているだけで、中級悪魔ほどの価値にはなります。さすがに、上級悪魔となると、事業で大成したりとか、社会に貢献したりとかしないと無理ですが…」 「もしかして、僕に『魂の価値を上げてから来い』って言っています?」 「契約は平等ですが…、『割に合わない』という話をしているのです」 「ちなみに、下級悪魔の力って、どのくらいなんですか?」 「人間と大して変わりません」 女性は口ごもりながら言った。 「姿を少し消せるくらいです。上級悪魔や中級悪魔のように、人を呪い殺したり、時空を歪めることも、空を飛ぶこともできません。もちろん、『○○になりたい』なんて願いを叶えることもできません」 「雑用はできますよね」 「まあ、そうですが…」 あまりお勧めじゃない。って感じの顔をしていた。 「雑用なんて、自分でもできるでしょう。私個人の意見として、『自分の力ではできない』ことを悪魔にさせるべきです。下級悪魔の能力の殆どが、お客様にもできる力なのですよ」  僕は女性を鼻で笑った。それから、身体の力を抜いて、椅子の背もたれにどかっと体重を預ける。 「あのね。僕は別に、『願いを叶えてほしい』から悪魔と契約を交わすわけじゃないんだ」 「じゃあ、どうして?」 「楽に死にたいから。だよ」 「楽に…、死にたいから?」  今までにこやかで、いかにも「商業用スマイル」って感じの表情を浮かべていた女性の顔が困惑した。めんどくさい客に当たってしまってって感じの顔だ。 「確かに…、悪魔に魂を渡すということは…、死を意味しますが…」 「僕はそうしたいんだ。願い事なんてどうでもいい」 「あの…、失礼ながら、おっしゃる意味がわからないんですが…」 「そのままの意味ですよ。僕は『苦痛の無い死』を求めている。身体から魂が抜けるということは、どんな自殺よりも楽に死ねますよね?」 「その通りなのですが…」 女性は顔を顰め、恐る恐る言った。 「ですが…、願い事を叶えることよりも、その後…、『悪魔に魂を捧げて死ぬ』ということを望むのなら、あなたの魂は悪魔に食われることになるので、天国に行くことも地獄に行くことも、そして、転生することも叶いませんよ? それに、魂を食われた人間は…」 「それでいいんですよ」 彼女の言葉を遮って、僕は語気を強めた。 「僕みたいな人間が転生したって仕方ないでしょう? くどいようですが、僕は『苦痛の無い死』を求めているだけです。天国に行けなくても、地獄に行けなくても、転生できなくても構いません。ただ、悪魔に魂を食われて、苦痛なく、眠るように死んで良ければいいだけです」 「そうですか…」 女性は腑に落ちないように頷いた。 「では、それでお話を進めていきましょう」  僕の前に、契約書が差し出された。 「改めて契約内容の確認です。『人間は悪魔に魂を捧げる』代わりに『悪魔は人間の願いをかなえる』」 「はい」 「猶予は半年です。半年以内に、三つの願いを考えて、悪魔に願ってください。半年が過ぎれば、例え二つしか願いを叶えていなくても、問答無用で魂を喰らわれます」 「はい」 「よろしいですね?」 「はい」 「では、サインをお願いします」  僕はボールペンを受け取ると、契約書の一番下の欄に、サラサラと名前を書いた。 「これでいいですか?」 「はい。ありがとうございます」 女性はまた、営業スマイルになると、僕から契約書を受け取り、ぺこりと頭を下げた。 「では、後日、柏木様のお自宅に悪魔が向かいますので、今日の所はお引き取りください」 「ああ、はい」  てっきり今すぐ悪魔と契約できると思っていた僕は少し落胆した。 「それと、こちらのマニュアルブックをお読みください」  小冊子を渡される。黒い表紙に、血のような赤い文字で「悪魔解説書」と書かれている。 「これは?」 「悪魔の取扱説明書のようなものです。大切なことは先ほどご説明したので、軽く目を通しただけで構いません」 「わかりました」  小冊子を丸めて、ジーパンの後ろのポケットに入れる。 「またご不明な点があれば、いつでもいらしてください」 「はい」  僕は椅子から立ち上がり、踵を返した。  入ってきた扉に手を掛ける。 「また今度…」 「ありがとうございました」  女性は腰を直角に折り、深々と頭を下げた。  僕には身分不相応の扱いのような気がして、少し気恥ずかしかった。
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