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店の外に出ると、ちらちらと雪が舞っていた。バイト以外は、ずっとアパートの部屋の中に籠っていいたおかげか、雪を見るのは久しぶりだった。僕は物珍しさから、路地裏で舞い散るそれに手を伸ばしていた。綿のような雪は、僕の指先に触れると、一瞬で水に変わった。
通りかかったカップルらしき男女が、僕を見て鼻で笑った。
僕は手を引っ込めて、ウインドブレーカーのポケットの中に入れた。
悪魔と契約した。という実感がわかないまま、僕は家賃四万のおんぼろアパートに戻った。
階段を上って自分の部屋の前に立つと、扉に張り紙がされているのに気が付く。黒いペンで、「帰ったらおいで」とだけ書かれていた。名前は書かれていない。だけど、この蚯蚓が這ったような癖のある字が誰のものか、すぐに予想できた。
「天野さんか…」
そう呟いて、振り返った瞬間、そこには女性がいた。
影を切り取ったような黒いスーツを着て、癖のある長髪を頭の後ろで束ねている。タイトスカートからは、上品に引き締まった脚が伸び、ハイヒールがその長身をさらに際立たせている。メイクも自然に施されており、いかにも「仕事ができる女性」って感じの姿だった。
「うわ…」
僕はボソッと驚いて、二、三歩後ずさった。部屋の扉が背中にぶつかる。
「何の用ですか? 天野さん」
「よお、久しぶり、少年!」
見た目に似合わず、お隣に住む天野さんは男のような張りのある声で言った。
「元気にしてたか? 会えなくて心配してたよ」
頭をワシワシと撫でられた。
僕は鬱陶しくなって、その手を払いのけた。
「二日ぶりですね。天野さん。あと、僕はもう二十歳なんで、いつまでも餓鬼扱いしないでください」
「冷たいね。そういう子はモテないよ?」
その言葉を無視して、僕は要件を聞いた。
「で、何の用ですか?」
「いや、だから、ほら」
天野さんは右手に持っていたレジ袋の中を僕に見せた。
よく冷えたビールが四本。
「これがどうしたんですか?」
「だから、少年、もう二十歳だろ? 一緒に呑まないか?」
「結構です」
僕はビールを彼女に突き返した。
「酒はだめです。飲めません」
「そう言わず、一口飲めばわかるって! 絶対飛ぶぜ?」
「勝手に飛んでてください」
僕は「もういいでしょ?」と吐き捨てると、天野さんに背を向けて、自分の部屋にさっさと入った。僕の冷たい態度に怒った天野さんは、扉を何度も蹴った。
「こら! 年上のお姉さんがお酒に誘ってくれているんだぞ! ありがたく受け取れや! こら! 開けろ!」
あー、うるさいうるさい。
僕はウインドブレーカーを脱いで身軽になると、畳みの上に横になった。
相変わらず、扉は激しく蹴られ、叩かれている。僕がこの部屋に越してきて、知り合った時からあの人とはこんな関係だ。このくらいであの人が僕に愛想をつかすようなことはない。個人的には、愛想つかれた方が都合いいのだが。
天野さんは十分に渡って扉を叩き続けた。
そして、最後には諦めて自分の部屋に戻っていった。
やっと静かになったか…。
そう思って身体を起こした瞬間、隣の壁が力強く蹴られた。
ドン! と鈍い音がして、天井辺りの埃がパラパラと落ちる。それを見た瞬間、僕は壁を勢いよく蹴り返していた。
「天野さん、鬱陶しいんで! もう僕に構わないでください!」
壁の向こうからは、フィルターを掛けたような曇った声で、「ばーか!」という小学生のような罵倒が返ってきた。
「君のような根暗! こっちから願い下げなんでね!」
あんたのようなダメ人間、こっちから願い下げだよ。ひとの領域に、土足で勝手に上がり込んできやがって…。
僕は部屋の隅に常温で保存していたミネラルウォーターを手に取ると、キャップを開けて一気に飲んだ。気道を冷たい液体が滑り落ちて、胃の奥底の熱が一気に冷めるようだった。
空になったボトルを軽く握りつぶし、ゴミ箱へと放り投げる。だが、ゴミ箱の中はすでにいっぱいで、溢れそうなゴミに弾かれ、ペットボトルは僕の脚元まで転がって戻ってきた。
燃えるゴミの日は、いつだっけ?
キッチンのタイルに張っているカレンダーを見ればわかることだった。だが、それが億劫に思えて、僕は空のペットボトルをそのままに、横になった。
すがすがしい気分だった。
僕はさっき、悪魔と契約を結んだのだ。
悪魔に魂を食われば、僕は死ぬことができる。何の苦痛の無い死に方だ。最高の自殺方法だった。
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