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七枚目のクッキーを齧ろうとしたとき、全身真っ赤に染まった朱里が公園に入ってきた。
「おかえり」
「クッキーを食べながら言われるのはなかなか癪に障りますね」
「ほら」
僕はクッキーを箱ごと朱里に放り投げた。朱里は一度は受け取ったものの、眉間に皺を寄せてから突き返してきた。
「今は要りません」
「ああ、そう」
僕は駐輪場に移動すると、バイクのエンジンを掛けた。
「ほら、帰るぞ」
ハンドルに引っ掛けていた朱里の分のヘルメットを掴むと、これも彼女に放り投げる。
受け取った朱里は、ふっとため息をついた。
「私、疲れているんですよ。さっきの人、なかなか身体が大きくて…、いたぶって殺す余裕が無いほどに暴れてくれたんですから…」
「どんな殺し方をしたんだ?」
「四肢の腱を切りました。身動きを封じてから、少しずつ切り刻もうとしたんですが…、暴れられて…、心臓部を刺したんですけど、胸筋がなかなかに厚く…」
「いや、殺してくれたのならいいよ」
「なまじ屈強だったので、すぐには死にませんでした。結果的に、苦しみながら死んだでしょうね?」
「奥さんには手を出していないだろうな?」
念を押すように聞くと、朱里は目をぱちくりとさせた。
僕は不安になって聞いた。
「もしかして、奥さんも殺したのか?」
「いえ。殺していません。卒倒してましたから」
「そうか…」
そりゃそうだよな。目の前で、愛する夫が体中から血を噴出しながら倒れるのだから。
ほっと息を吐く。
朱里の髪の毛は、高坂の血がこびりつき、既に赤黒く固まり始めていた。彼女は顔を顰めながらその上にヘルメットを被る。僕がバイクに跨ると、血まみれの身体で寄ってきて、後ろに跨った。
「でも、意外です」
「何が?」
「柏木さんに、そういう分別があるとは思いませんでした。悪魔と契約した人間って、段々と自分に酔っていくんですよ。願いがかなえられるのは悪魔の力なのに、さも自分の力だと思い込んで、傲慢になっていきます。その分、あなたは契約したルールの中で私に銘じてくれますから、随分と楽な相手ですよ」
「光栄だな」
僕は帰路に着くために、ゆっくりとバイクを発進させた。
「分別は、元からあるさ。『自分に危害を加える人間は許さない』『危害を加えない人間とは関わらない』。それを信条にしているだけさ」
「関わらないのですか?」
「関わらない」
「どうして?」
「僕と一緒にいたって、不快な気分になるだけさ…」
「不快…」
「お前だって嫌な気持ちだろ。こんな価値の無い魂を持つ男と契約をさせられて…、私怨だけで人を殺させられるんだ」
「まあ、そうですね。ですが、契約なので」
契約。この一言で私情を切り捨ててしまう彼女の図太さに、僕が契約するまでに漠然と抱いていた、悪魔の「冷たさ」を感じた。こいつ、女の皮を被っているけど、やっぱり悪魔なんだな…。
僕は「そうか」と頷くと、前を向き直った。住宅街は閑散として、サイレンの一つも聞こえない。山から吹き下ろす風は容赦なく僕の身体に降りかかった。下唇に電気が駆けるような痛みが走ったので、ぺろりと舐めた。舌先に、ほのかに鉄の味。
水銀でも注射されたみたいに、頭がぐらぐらと痛んだ。
早く帰って寝よう。
僕はバイクのスピードを上げる。朱里が何か言ったが、風とエンジンの音にかき消された。
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