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第五章『ウェルカムマザー』
アパートに戻った僕は、まず朱里にシャワーを浴びるように命じた。彼女の身体に染み付いた血液が腐った生魚のような異臭を発して、鼻が曲がりそうだった。
最初、朱里は渋っていた。
「あの、ガス代は…」
「そのくらい大丈夫だよ。ほら、浴びて来いよ。臭いんだから」
「誰のせいだと思っているんですか?」
「なんか、ごめん…」
意味も無い押し問答の末、朱里はしぶしぶシャワーを浴びに行った。
その間、僕は朱里の血みどろのブレザーを洗濯機に放り込み、近くのスーパーに着替えを買いに行った。一番安く、血も目立たないレディースのジャージを買ったのだが、店員には怪訝な顔をされた。さすがに、下着は買えなかった。
買い物に出たついでに、キャベツとベーコン。あとお茶っ葉だけを買って、走って部屋に戻った。朱里はまだシャワーを浴びていて、シャワールームのすりガラスから彼女の小柄なシルエットが見えた。
「おい、着替え、ここに置いているからな」
声だけを掛けて、入り口の前にバスタオルと買ってきたジャージを置く。
ベランダの方を向いてスマホを弄っていると、背後に、シャワーから上がった朱里が立った。
「終わりましたよ」
「ああ、終わったか」
振り返る。
朱里は、紺のブレザーを身に纏っていた。脇に、僕が買ったジャージを抱えている。
「あれ? お前、ストックがあったのか? どこから出してきた?」
「本部に問い合わせれば、代わりのものはいくらでも用意できます。それに、あのブレザーは、悪魔の制服なので、勤務の時は必ず身に着けなければなりません。洗濯も結構です。あれは捨ててください」
せっかく買ったのに。ちょっと残念。
僕があからさまに暗い顔をすると、朱里は何を思ったのか、僕にジャージを返してきた。
「私の身には合わない代物ですから、ぜひ柏木さんが使ってください」
「いや、レディースなんだけど」
「え…」
朱里も気まずそうな顔をする。
「仕方がありません。せっかくの厚意なので、この部屋にいるときだけは着ましょう」
「うん、そうしてくれ」
僕がベランダの方を向いている間に、朱里はブレザーとスカートを脱いで、ジャージに着替えた。
「どうですか?」
「うん、似合っているよ」
正直、似合っていなかった。不釣り合いって感じ。朱里の艶やかな黒髪や、おぼろげな瞳。おっとりとした雰囲気は、あのブレザーがあってこそ引き出されるのだと改めて思った。でも、それを直接言う必要は無い。
自分もシャワーを浴びて、さっぱりとしてから、夕食の準備に取り掛かった。
さっき買ってきたキャベツとベーコンを細かく切り刻み、油を引いたフライパンの上にどさどさと入れる。換気扇が回っているのを確認してから、菜箸で炒めていく。ベーコンの塩気では物足りない気がしたので、少し伯方の塩を振ってやった。
野菜炒めだ。
キャベツがしんなりとして、ベーコンはパチパチと心地のいい音を立てる。香ばしい香りが漂い、長旅で疲れた僕の胃袋を刺激した。
僕が調理している様子を、朱里は横から覗き込んでいた。
そして、恐る恐る言った。
「あの…、少し変なことを言ってもいいですか?」
「なんだよ」
皿を二枚取って、さっとフライパンの野菜炒めを盛り付けていく。
「もしかして、柏木さんって、『よくできる人間』なんじゃないですか?」
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