第五章『ウェルカムマザー』

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 少し昔の話をしようと思う。  今までの話から、僕の二十年間は、誰からも愛されず、あらゆる者に憎まれ、太平洋の中央で、水面に口を出し、必死に酸素を取りこむようにして生きてきたと思われるかもしれない。実際そうなのだが、少し語弊がある。  僕にも、僕を愛している人がいた。  僕の母親だ。  前にも説明した通り、僕の父親は母さんと離婚する際、親権争いで裁判を起こしていた。もちろん、勝ったのは父親だ。離婚の発端となったそもそもの理由が、母さんの育児ノイローゼによる虐待だった。僕と姐さんの育児で気が狂った母さんは、当時小さかった僕たちを殴ったり、蹴ったり、泣いていても放っておく等した。一度、父親に包丁を振り上げて警察沙汰も起こしたことがある。  母さんは孤児院を出ているので、親族はいないようなもの。そんな母さんが裁判で親権を争ったところで、父親に勝てるはずもなかったのだ。  裁判の結果、親権は父親に。当時はまだ「イクメン」なんて言葉への理解が無かったころなので、裁判所は父親に、「病弱な母親へ、毎月生活費を送ること」と命じて、裁判は終わった。  父親は借金を抱えることになった。  大学の奨学金。  山奥に買った家のローン。  裁判に使った金。  母さんへの生活費。  僕たちの養育費。  父親は時々、僕や姉さんに、母さんの恨みつらみをぼやいていた。 「今の苦しい現状は、全部お前たちの母親のせいだ。母親がもっとしっかりしていれば、こんなふうにはならなかった…、あいつが『家が欲しい』なんて言わなかったら、オレも買わなかったんだ」  父親は、よく腕まくりをして、わざとらしく、自分の貧相な腕を撫でていた。  父親の、黒い毛が生えた腕には、うっすらとナイフの痕があった。 「この傷、お前の母親にやられたんだ。あいつの気が狂って、包丁で刺されたんだ。結婚している身、被害届は出さなかったが、赤の他人なら刑務所にぶち込んでやるところだったのに…」  父親の言葉をいつも聞いていたおかげで、僕は中学の頃まで、母さんのことを、「僕をこんな目に遭わせた悪」と考えていた。もし、母さんが本当に悪だったら、僕は悪魔と契約したその日の内に、母さんのもとへと走って、彼女を虐殺した事だろう。  その考えが改められたのは、中学二年生の秋のことだった。  その日、僕ははらわたが煮えくり返るような怒りを抱えて家路についていた。
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