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どのくらい眠っていただろうか?
目を覚ました時、部屋の中は真っ暗だった。冷蔵庫のように冷えた大気が充満して、息を吸うたびに喉元に鉄のような味が広がった。手足の感覚が無くなっている。ジャージにウインドブレーカーと厚着をしていても、手足はむき出しになっているからな。
僕はおもむろに身体を起こして、手をこすり合わせた。摩擦熱だけでどうにかなる寒さではない。ふと振り返ると、悪魔の少女がまだそこに正座をしていた。
「…、願い事、決まりましたか?」
少女の声は、心なしか震えていた。
「あんた、寒いの?」
「…この程度、平気です」
「いや、寒いんだろ」
僕は氷のように冷たくなった足を着いて立ち上がると、天井からぶら下がった蛍光灯の紐を引いて明かりを点けた。金は無いが、家賃に電気代は欠かさずに払っている。少々もったいない気もするが、暖房を付けて、設定温度を二十五度まで上げた。
蛍光灯から放たれる焦げた白い光が、正座をした少女の青白い顔を照らしている。
少女は、黒いスカートから出た太ももの間に指を挟んで、指先の暖を確保していた。肩をきゅっと竦めて、小刻みに震えている。
「悪魔って、凍えるんだな」
「あなたが思っているような、霊的なものではありませんからね」
「今までに抱いてきた悪魔のイメージが崩れるよ」
部屋を出て台所に立つと、水道水を入れた鍋を火にかけた。
鍋の銀色の底を眺めながら、悪魔の少女に聞く。
「悪魔って、何か食べるの?」
「ご安心ください。本部の方から、固形食糧は頂いています」
「なんだ、味気の無い…」
僕はガスコンロの下の棚を開けると、インスタントのワンタンスープの袋を取り出し、二人前、鍋の中に放り込んだ。五分ほど煮込んで、完成。出来上がったそれをお碗に分けて、少女の方に持っていった。
「ほら、食べろよ」
少女の膝の前に、ワンタンスープのお碗を置く。ミニレンゲを添えた。
また「契約」だのなんだのと言って断るのかと思っていたが、少女は「いただきます」と言って、お碗を持った。レンゲでワンタンを掬って、息を吹きかけてから口に運ぶ。
僕も、自分の分のスープを飲んだ。
二人で向かい合ってワンタンスープを食べながら、僕は少女に「願い事」についてのことを言っていた。
「眠りながら、考えてみたんだ」
「願い事ですか?」
「ああ。一から、僕の願い事を考えてみた。まず、どうして僕は願い事が無いのか。考えてみたんだ」
「なんですか。回りくどい」
「まあ、聞きなよ。願い事が無いのは、『死にたい』からだ。死にたいのに、もう人生を諦めていると言うのに、願い事なんてあるはずがない。そうだろう?」
同意を求めると、悪魔の少女はワンタンをちゅるんと啜り、「そうですね」と頷いた。
「ですが、普通、悪魔と契約を交わす人間なんて、『願い事がある』こと前提なんですよ?柏木さん。あなたくらいなものです。三つの願い事ではなくて、『悪魔に魂を売る』という方を重点に置いて私と契約をした人間なんて」
「だから、考えたんだ。僕は『どうして死にたい』のか」
「どうしてですか?」
「単純に、『生きていたくない』から。具体的に言うと、この先、生きていたっていいことが無いことがわかっているからだ」
「どうして、そんなことが言えるのですか? 下級悪魔は、人の人生のこれからを予測する能力など持っていないので、その妙な自信には興味があります」
「単純だ。『今までにいいことが無かった』から。それが根拠だよ」
僕は得意げにそう言って、空になった碗を畳の上に置いた。
熱を取り戻した指で、右の袖を捲る。そして、白い腕を彼女に見せた。
「ほら」
「これは…、何ですか?」
少女は怪訝な顔をして、僕の腕に残る赤黒い斑点を見つめた。
「見たこと無いか? 根性焼きだよ」
「根性焼き?」
「煙草の火を押し付けた痕だ」
「ああ」
少女はピンと来ていない様子だ。ワンタンを食べる手を止めて、首を傾げた。
「どうしてですか? 理解ができませんね。なぜ、そのような傷があるのですか?」
「いじめられたんだよ」
口に出して言うのは憚れた。
僕はさっと手を引いて、再び傷をウインドブレーカーの袖で隠した。
「小学校、中学校といじめられたんだ。あの根性焼きの痕は、中学の時だな」
「それが、あなたが『死にたい理由』とどう関係あるんですか?」
「あんたは悪魔だからよくわからないと思うけど、人間てのは、過去の失敗やトラウマで簡単に生きる気力を失くしてしまうものなんだ。挙げだしたらキリがないけど…、僕の過去はあまりいいものではないからな。おかげで、この現状だ」
大学には行かず、適当にアルバイトをして日銭を稼ぐ日々。趣味と言えば小説を読みふけるようなもの。
「だから、死のうと思っている」
「はい」
「だから、僕は考えた」
指をぴんっと立てる。
「本来なら、何もせず、唯一の願いである『楽に死ぬ』ために、半年の猶予が尽きるのを待つ必要がある。だけど、それだと不公平な感覚は否めない」
「よくわかっているじゃないですか。あなたがしようとしていることは、レストランで料理を頼んで、口を着けずに、お金だけ払って帰ることと同じですからね。料理を作っても食べてもらえなかったシェフの気持ちを考えてください」
「わかっているよ。だから、無理に願いを考えたじゃないか」
すると、悪魔の少女は目をきょとんとさせて、オレの方に数ミリ身を乗り出した。
「願い事、決まったんですか?」
「無理やり決めたよ」
僕は気怠く頷くと、一つ目の願いを悪魔に伝えた。
「僕が恨んでいるやつら全員に復讐をする」
せっかく願い事を言ってやったのに、悪魔はふしぎそうに首を傾げた。
「復讐ですか?」
「ああ。復讐だ」
「どういう復讐なのですか?」
その質問に、僕は何の考えもなしに答えていた。
「殺すんだよ」
「はあ…」
少女は、何を考えているのかわからない、能面のような顔で頷いた。
「殺す。あなたの一つ目の願い事は、『あなたが恨んでいる人間を殺す』でいいのですね?」
「いけるか? 結構悪魔っぽいことだと思うんだけど…」
「承りました」
悪魔の少女は、こくっと頷いた。
その瞬間、僕の左胸の奥に、焼けた火箸でも突っ込まれたかのような激痛が走った。僕は小さく呻き声をあげて、胸のあたりを抑える。一秒にも満たない痛みだった。
「なにを?」
「一つ目の願いを私が了承したことにより、契約が成立しました。簡単に言えば、あなたの魂が、三分の一、差し押さえられた状況です」
「へえ…」
僕は期待を込めた目を彼女に向けた。
「じゃあ、もう、殺したのか? 僕が恨んでいる人間を」
「まさか」
少女ははっきりとそう言った。
「あくまで契約を成立したまでです。まだ殺していません」
「じゃあ、今から殺すのか?」
「はい」
こくっと頷く少女。
「では、あなたが恨んでいる人間を教えてください。教えてもらわないことには、私もあなたの願いをかなえることが出来ません」
「ああ、そうか…」
僕の頭の中の、「恨んでいる人間」を、超能力的な何かで勝手に読んで、勝手に殺してくれるものだと思っていたが、アナログ的に、一人一人言わないといけないようだ。
僕は一瞬天井を仰いで考えた。恨みたい人間って言っても…、沢山いすぎてわからないな…。
「じゃあ、とりあえず…、父親」
まるで居酒屋でビールを頼むかのように言った。
「御父様を殺すのですか?」
「ああ。あんなの父親じゃない。さっさと殺してくれ」
「申し訳ありませんが、居場所がわからないことには殺せません」
「居場所も言えってか?」
「はい」
こいつ、結構めんどうくさいな。
僕は吐き捨てるように、僕の父親が暮らしている実家の住所を悪魔に教えた。
「これで殺せるのか?」
「殺せます」
力強く頷く少女。
「では、私を、その御父様の元へと連れていってください」
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