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人を愛する才能には残念ながら恵まれていない。
それは、いつも私が日本で思っては喉元で反芻させていた言葉。
ここドイツでは、整然と植えられた街路樹のプラタナスが、黄金の葉を全て石畳の上に落とした後の時季には、午後の3時頃になると外が自然と暗くなった。そしてその後は、赤や緑のイルミネーションの時間になる。故人をしのんで墓に参る、日本の盆にあたる11月の終わりの『死者の日曜日』。そして、その次の週のクリスマスから数えて4週間前の日曜日には、子供達が『アドヴェントの歌』を歌いながら、アドヴェンツクランツの4本の蝋燭のうち、最初の1本に火を灯すのだ。するとそれを合図に、町のあちこちがまるで魔法のように輝きだし、最後には市庁舎前広場の大きなクリスマスツリーが生き生きと点灯し始める。まるで『殯の時は開けた。さあ、楽しむがいい』と街全体が誘惑するように美しく幻想的に光りだし、それまでの暗い雰囲気と打って変わり、夜の闇を昼間のようにイルミネーションで鮮やかに染め上げるのだ。
私は藤原恵美。ドイツ、フランクフルト・アン・マインのヨハン・フリードリヒ・フォン・シラー大学でグリム童話の研究をしている。…が、大した論文も書けず、研究成果もほとんど上げられないまま、異国の生活で親の脛を齧り続けていた。
「んっ…」
その現実は、爪の上を流れて行く一筋の赤いマニュキュアのように私をとらえては溜まり、厄介にもはみ出すと、肌の上を這って取りとめもなく落ちて行く。
「宝物ウサギ! クリスマスマーケットへ行く時間だ。支度はいいかい?」
「いいえ、ハインリヒ。 塗ったばかりのマニュキュアが、まだ完全に乾いてないの。 もう少し待って。 まったく、このマニュキュアったら。 …ああ、ごめんね。昨日のうちに、爪に塗っておけばよかった! もしかして、もう時間がないの?」
リムーバーではみ出たマニュキュアを、申し訳程度にコットンに拭き取ってから、私はそう返事をする。
「いや、時間ならたっぷりあるから、気にしなくていい。 俺の心配ウサギ!」
言うなりハインリヒは、毎年ドイツの製菓会社が出しているお菓子型のアドヴェントカレンダーの箱に手を伸ばし、今日12月4日の日付の入っている部分のミシン目を上手に破ると、中のお菓子をヒョイと摘まみ、プレゼントを大事そうに抱えた金色の熊の包装を剥いて中のチョコレートをモグモグと食べ始めた。
『また、心配ウサギか…』。そう思うと、感情の先がピンと尖った。『宝物ウサギ』という呼び方が、彼の『またか、仕方ないなぁ』といった表情と共に『俺の心配ウサギ』に変わる。いつものことだが、まだ慣れてはいなかった。もともと私は、あまり『ウサギ』だの『宝物』だのと言った、名前代わりの愛称で呼ばれるのは好きではない。…人間を動物や物に例えて呼ぶ愛称は、この国では普通のことなのかもしれないが、どうも日本人の私には今一つ、しっくりとこないのだ。
それにハインリヒの場合は、私が何かいうといつも『宝物ウサギ』から『俺の心配ウサギ』に愛称自体がかわる。私は、それがとても嫌だった。…だいたい、『俺の心配ウサギ』という言葉自体が嫌いなのだ。元々『心配ウサギ』というのは、「心配性」とか「弱虫」とかいった微妙に否定的な意味で使われる、決して彼女に使うような甘い言葉ではない。
ちらりと目の端で恋人を見ると、悠々と冷蔵庫からラズベリージュースを取り出して飲んでいるところだった。
ハインリヒが出掛ける時の何時もの私服は、黒のタートルネックセーター、黒いズボンに黒いコートと、まるでカラスのような恰好だ。「喪服か!」と突っ込みを入れたくなるほどに黒い。そして彼は198㎝の身長に筋肉質な身体で、根本だけが心持ち濃い茶色になった緩いカールの鮮やかな金髪、金色の眉毛に、黒い瞳孔がクッキリと映える碧い瞳と、色素の薄い整った顔立ちをしている。一方、158㎝の東洋人である私にとっては、40㎝の身長差がある彼と並んで歩くと、妙にチグハグに思えてくるのだ。
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