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ドイツ人でこの容姿の男性と付き合っていたら、「まるで王子様みたいな彼氏ね。うらやましい」と日本では言われるのだろうか。…まぁ、実際に、このハインリヒ・クリストフ・フォン・グリューネヴァルトは王子様なのだろう。私はこの国で、彼以外に苗字にフォンが付いた人間を知らない。そしてハインリヒという、今の時代にしては少し古めかしい感じのする名前は、『家の後継者』であることを意味していた。
「うん、爪が乾いた! クリスマスマーケットに行きましょう」
二人で5階建てのアパートの最上階の部屋から出ると、折れ曲がった階段を下に向かう。1階に降りたところで、ふと私は共有地下室の乾燥機の中の、洗濯物の様子が気懸かりになった。でも、地下室の鍵を持っていない。あぁ、この国では、扉を外から開くにはどこでも鍵が必要なのだ。本当に嫌…。
「どうしたの、宝物ウサギ? 心配ごとでも?」
「あっ…地下の洗濯物が、ちょっとだけ気になったの。でも鍵を持ってくるのを、忘れていて…」
「まったく、俺の心配ウサギったら。 そんなのは、後で構わないさ。 さあ、レーマー広場へ行こう。 クリスマスマーケットが待っている」
また『心配ウサギ』かと、チリリと神経が音を立てた。
アパートの一階の共有玄関の扉は、一度開けて閉めれば、もう中へは入れない。部屋の玄関と同様に、自動ロックが掛かるのだ。私は鍵をちゃんと持って出たのだろうかと、不安でバッグの中を無意識に探りそうになる。
そういえばハインリヒと初めて出会ったのも、鍵を忘れたことがきっかけだった。日本の家の鍵は、自分で掛け忘れることはあっても、閉めると自動ロックをされてしまうことは決してない。一階の共有玄関がオートロックだった場合でも、暗証番号を覚えてさえおけば、自分自身が締め出されることはないのだ。だが、ドイツの場合は違っていた。ゴミを捨てに行くつもりでうっかり鍵を忘れて玄関から出ると、もう入れない、自動ロックが掛かって完全に部屋から締め出されるのだ。自分のスマートフォンから管理会社に連絡しなくてはならない羽目になる。3年前のあの日、締め出された私は慌てて管理会社に電話をして、その場に駆けつけてくれたハウスマイスターが、ハインリヒだったのだ。
「あの時はクリスマス休暇で、同僚たちが誰もいなかったので、連絡を貰って僕が行ったんだ。そうしたら、君が家に入れずに外で泣き出しそうな瞳をして、しゃがんで震えていた。一目見るなり、『あっ、心配ウサギがいる』と思ったよ」と後に彼は笑いながら、そう言った。
彼の実家はこの地域一帯の不動産物件を所有しており、彼はその管理会社の運営をまかされている。彼の部屋は、建物の最上の屋根裏階にあった。驚くほどのだだっ広い居間と二つの洗面所、家の中に寝室に繋がった階段を持つ、191㎡の3SDKの部屋だ。もともと21㎡のワンルームに住んでいた私は、やがて彼の部屋で同棲するようになった。
だが、彼は知らない。今日、私が彼に別れを告げようと考えていることを…。
おととい実家の父親から、1通のメールが届いた。『いい加減に日本へ帰ってこい。今ならばドイツでの留学の経験を手土産に、それなりの教授の下に就かせてやる』と、そう書いてあった。まぁ、この国での生活も、もう4年目になった。親の立場からしたら、当然のことだろう…。
私は今日、私が1年で一度だけ一つ年を取るこの記念の日に、ハインリヒに別れを告げようと思う。今の自分自身にケジメを付けるために。この2日間、考えて考え抜いた末に出した私の結論だ。 彼に別れを告げ、淡々と準備をして日本へ帰るのだ。…彼は寂しいだろうか? いや、もう私はいい加減に疲れた。何もかもがもう、嫌になったのだ。
それに彼には、背の高いドイツ人女性の方がお似合いなのではないだろうか?
きっと私たちは、始まった時と全く同様に、別れる時もあっさりとしたものなのだろう…。 だが、女という生き物は厄介だ。完全に割り切った関係のはずが、一緒に過ごした時間の量だけ黒いネバネバとした「情」という名の汚物がフツフツと湧いてきて、知らず知らずのうちに心の片隅に腐臭を撒き散らしながら積み上がっている。『ほぅ…』と溜息を一つ吐いて、冷静に考えることにした。『日本へ帰った方が楽なのかも知れない』と…。『研究を続けるにしても、最近ならばネットもある。国境を越えた研究者同士の遣り取りも、今はほとんどズームミーティングだ。ずいぶんと楽な時代になったのだから…』と無理矢理に自分を納得させようとする。
地下鉄の駅に向かって、二人で並んで歩いた。もっとも「地下鉄」といっても、この辺りは線路も駅も地上に出ていて、道路の真ん中にある。考え事をしながら信号を渡り、遮断機のない線路へ入ろうとすると、急にハインリヒに肩をつかまれて大きな声で怒鳴られた。
「だめだ、宝物ウサギ! よく見ろ! ほら、向こうから電車が来る! ひかれたいのか? まったく、この俺の心配ウサギめ!」
「アッ…ごめんなさい。 考え事をしていて…」
「考え事? 君の誕生日の事か? これから行くクリスマスマーケットに着いてから、それは考えろ! 何が欲しい? でも、今は電車にひかれないことだ!」
またか。『結局、貴方様はペットに餌を与えるように、私に誕生日のプレゼントを与えて下さるつもりなのね…』と皮肉に思いながら、曖昧に笑って「はい」と答える。私の視線の先には、地下鉄の無機質な青い車両と、黄とオレンジの色彩の内装と、自転車を押して乗り込む人々がいた。みんな、とても楽しそうな顔をしている。そう、今は輝かしいキリストの降誕を待つアドヴェント(待誕節)なのだ。
どす黒く暗い気持ちを抱いてクリスマスマーケットに向かうのは、この中でただ一人、私ぐらいのものだろう。
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