繰り返し

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繰り返し

ふと、意識が急浮上する。 黒川衽は開いた目で天井を見つめていた。 「ゆ、、、め??」 掛けていた布団を剥ぐと、朝の涼しい空気が肌に染みる。 しっとりと濡れた肌に、汗をかいていたのだと気づく。 それは寝汗というよりも冷や汗に近いような、そんな錯覚もさっきの夢のせいだと思えば、納得がいった。 起き上がって背中を摩る。 伸ばして指先に触れた肌に違和感はない。痛みもない。 珍しく見た悪夢に、何も彼らまで引っ張り出さなくてもと頭をかきながらベットを降りた。 ボサボサの髪は何度も寝返りを打ったのか、いつもよりも強い癖がついている。 柔らかい髪質のそれを慣れた手つきで整えながら、身支度と共に今日の予定を振り返る。 特に何ら変化のない日常は、夢の中と相違なく、署に出勤する所から始まる。 水色のクロスバイクは今日も調子良く坂を下り、葉の目立つ桜も変わらず通勤路を彩る。 警察署の石看板を曲がって目的の場所へ着けば、 署へ入る前に、車から降りてきた松川が大きな欠伸を零しているのが目に入った。 「おはよっ〜」 「まっちゃんおはよっ!また寝不足?」 「いや、寝はした。」 そう話をしながら署内へ入る。 忙しなく事案と足音の溢れかえる空間は肌に馴染んだもので、手早く着替えを済ませて次の目的の場所へと廊下を進む。 「そういえば、あの事件は進展あったのか?」 「あ〜捜査協力の依頼があって情報提供したやつ? あったよ、あったよ。まっちゃんと姫ちゃんがとってきてくれた証言。デカかったみたい。」 「あの家に俺らを向かわせたのはお前だろ。後輩育成は結構だが、お前はもうちょい自分の事も立てろよ。」 「姫ちゃんには、まっちゃんのやり方も俺のやり方も、ちゃーんと覚えてもらわないといけないからさ。 それに、俺はいつだって昇格できるからね〜。」 「へぇへぇ、ほんとお前、そーゆーとこだぞ。」 そこまで話をして、どこかデジャブを感じる。 あぁ、そういえば夢の中でも同じような話をしたなと気付くものの、その同じような話を思い出す事は出来ず、どこか悶々としたものがストンと思考の隅に居座った。 「待ちました。」 ふと、声がして顔を上げれば、駐車場で賤川が待っていた。 またデジャブだ。 そう思う事は簡単だが何がどうデジャブなのかははっきりしない。 夢が薄れている。ならば無理に思い出す必要もないかと、黒川は思い出すことをやめた。 「・・・まずは、おはようございますだよ。姫ちゃん。」 「その呼び方やめてくださいって言いましたよね?衽さん」 淡々と会話を続ければ、隣で松川も話に入る。 「伊吹姫、今日は運転俺がするわ。鍵貸せ。」 「!・・いいんですか?珍しい。」 「たまにはこっちの運転もしねーと鈍る。」 黒川は二人の言葉を聞いて助手席へ移動した。 松川が鍵を受け取ったのを見て、何故か募った不安は頭を振って考えないようにした。 決して運転に問題があるわけではないのに、どこか危なっかしい彼の運転を、自分は知っているから不安になるんだと理由をつけてやれば、幾分か気持ちは落ち着く。 「んじゃ、まっちゃん運転よろしく。 安全運転頼むよ。」 軽口を叩くように、そう言って乗った助手席は、乗り慣れているはずなのに酷く落ち着かなかった。 「衽さん。前回の捜査協力のあった案件どうなりましたか?」 「伊吹姫。出発前に一ついいか?」 「はい?なんですか?」 「挨拶」 「・・・・おはようございます。」 「んっ、おはよ。」 二人の会話が鼓膜を揺らす。 「・・・うんうん!姫ちゃんおはよう。」 口をついて出る自分の言葉がどこか浮わついているようで、思考の隅のグズついた『何か』が、大きな爪を立てたような気がした。 「どうした?」 ふと鼓膜を揺らした音は運転席の松川からだった。 一瞬、心が揺れた。それでも何もない笑顔で首を横に振った。 「なんでもないよ。」 貼り付けたそれをどうか気づいてくれるな。そう思う反面できっともうバレている事にも気づいていて、何もない笑顔は苦笑へと変わって言った。 「なんだよ。なんでもない顔じゃないだろ。」 ほら、バレた。 長年の付き合いの中で、隠し事など彼にできるはずがないのだと、苦笑さえも崩れていく。それでもただ口から滑り落ちる言葉は「なんでもない」だけだった。 眉間の皺を深くした松川はそれ以上問わずアクセルだけを踏み込んだ。 車が四車線の道路に出れば、朝の通勤ラッシュも相なって通勤、通学の雑踏が忙しなく動いている。 それは、どこかで見たことがある光景だった。 「・・・。」 黒川の脳内に浮かぶ光景に、夢で負った今は無いはずの傷が痛むような気がした。 もうすぐあの夢で見た角を曲がる。 ただ、職場である交番に向かうだけの変哲の無い道が、真っ黒な穴の中に向かっていくような不快感で染まる。 心臓が無意味に高鳴る。必死に落ち着けようとするが、意識すればするほど鼓動が大きくなっていく。 隣で松川がハンドルを切る。 抗い難い恐怖に黒川は目を閉じた。 「えっ?」 うるさいほど脈打っていた心音に、賤川の声が混じる。 それは、夢と同じ。悪夢の始まりだった。 「何が起きた?」 「なんですかコレ、気持ち悪い。」 急ブレーキと共にそっと目を開ければ、フロントガラスの向こうには静寂だけが広がっていた。 動揺する松川と賤川の声が、脳内で避けたいと願ってやまなかった事態が現状にある事を痛感させてくる。 「まっちゃん車を脇に寄せて、所持品確認。周囲を見て回ろう。」 黒川だけが、ただ冷静に口を開いた。 あの夢と同じように。 「おう。」 隣で松川が車を寄せ始める。 黒川は自分の装備と、横目に松川の装備を確認する。 そこにも変化は見られない。 これも夢と同じ。 ただ一つ。夢と違ったのは。 「またか。」 そう呟いた。松川の言葉だけだった。 鼓膜を揺らしたそれは、強い違和感として落とされ、焦燥を駆り立てた。 「・・・まっちゃん?」 「んあ?どーした?」 「今なんて言った?」 「・・・今?」 口をついて出た。 まさにそうだったのだろう、松川は車を寄せると自身の口元に触れて、さっきの黒川と同じように苦笑した。 賤川の視線が二人の会話に向いているのがわかる。 それでも、黒川は踏み込まずには居られなかった。 まさか、まさかと警鐘を鳴らしているのが果たしてなんなのか、はっきりさせる必要がある。 そうでないとこの男は、また一人で〝あの日〟のように突き進んでしまうだろうから。 「まっちゃん。話して。」 「嫌だって、言ったら?」 「ぶん殴る。」 「・・・。」 「っ!!松川智治ぃ!!」 黙り込み視線を逸らした松川に、込み上げた焦燥を怒りにしてぶつける。 きちんと整えられたネクタイを引っ張って引き寄せれば、互いのシートベルトだけが黒川の怒りを引き止める。 「っ、、ちょっと、衽さん?」 「姫ちゃんは!?姫ちゃんはわかってるの?」 「な、なんのことですか?」 動揺する青色の瞳が、嘘を言っているようではない事を察して、 視線をもう一度正面の黙り込んだ黒の瞳に合わせる。 昔はそんな色ではなかったのに、いつからそんな目をするようになったのか。 松川の闇夜を思わせる瞳は、黒川に向いていた。 「悪かったよ。ちゃんと話すから、離せよ。」 「・・・信じるからね。」 「わかってるって、、、やっぱ衽には嘘つけないな。」 そう言って手を離せば松川は困ったような笑顔で襟元を整える。 そして、車のエンジンを切った。 黒川にもわかる。パトカーがただの鉄の塊になった瞬間だった。 「伊吹姫は多分まだ気づいてない。 だから、順を追って、俺のわかる範囲で説明をする。いいな?」 「俺、まだ怒ってるからね?まっちゃん。」 「悪かったって、、でもどう説明しろっていうんだよ。 お前だってさっき、困ってただろ? 俺だって混乱してたんだ。」 さっきというのは、車を出発される寸前に顔に貼り付けた笑みのこと。「なんでもない」で押し通した分、困っていたと言い切られてしまうと否定もできず、黒川も一度黙って松川の話に耳を傾けた。 二人の会話を聞きながら賤川は背中を後部座席のシートに預ける。 またこの二人は自分の計り知れない所で話をしている。それだけは現状だけで理解できた。 まだ、この異常事態すら飲み込めていないのに、勝手に話を進められてはたまったものでは無いと、とにかくその話に耳だけを傾けて、視線は窓の外を見た。 空は黒く淀んでいた。 「俺がこの〝夢〟を見るのはこれで3回目だ。」 松川の低く触りの良い声が語る夢は、 とてもではないが耐えうる話ではなかった。 目を覚ませば当たり前の日常があった。 不眠気味で重い瞼をなんとか上げて、カーテンを開いて、ご飯を作って、娘を起こす。 そんな朝のルーティンを終え、娘を学校に送ってから出勤する。 まだ9歳の娘は、朝に強く、バタバタと走り回ると笑顔を向けてくる。その姿に元気付けられながら学校まで送り届ければ、友達と元気に登校していった。 車で通い慣れた道を通り、警察署へつけば、相棒。黒川が手を振っていて一緒になって出勤する。 少し早くついたからと車の整備に向かえば、誰より早く出勤している賤川がホースを伸ばして水で泡を洗い流していた。 不器用ながら真面目な一面に温かみを感じながら近づけば、それを隠すようにして彼は視線をずらす。 照れ隠しで抜け落ちた挨拶を意固地になってしないのも、どこか彼らしい。 「それじゃ、行きましょうか。」 そう言って掃除の終えたパトカーに乗り込む。 この時、運転は賤川だった。 助手席に乗った黒川と、後部座席の松川。 窓越しに登校する子供達が見えて、自身の娘を思う。通い慣れた学校だ、何も心配はいらないだろう。 それでも非日常はいつも突然だ。 一抹の不安が消えることはない。 そして、彼の経験故、その不安は大きなものだった。 しかし、この時すでに松川は非日常にいた。 踏み込まれたブレーキに合わせて車体が大きく揺れて止まる。 ぼんやりしていた自身の体が大きく前にずれて助手席の後ろに頭を打ったが、それよりも視線を上げた先の光景の方がずっと歪で不快だった。 静まりかえった周囲には、車の一台もない。 さっきまで溢れていた喧騒が消え失せ、静寂の中に静かに鳴るエンジン音が悲しく泣いているようにさえ感じた。 急いで車外へと足を踏み出すが、そこには人どころか生物の気配が一つとして感じられなかった。 「なんだ?どーゆー事だ?」 「まっちゃん!」 「衽、、何が起きた?」 「俺にもわかんないよ。」 隣に並んで立つ黒川は手早く装備の確認をしてみせた。自身も腰回りへと視線を落とすが、特段変わった様子はない。 変わったのは周囲だけだ。 警戒してあたりを見渡していると、後ろで賤川が声を上げた。 「ダメです。車のエンジンも止まりました。」 次いで黒川も試すが、キーをいくら回してもエンジンは少しとして反応を見せなかった。 自身が異常な空間に巻き込まれる事は経験上、初めてでは無かった。 しかし、その時は大概決まったメンバーがいて、異常な空間にこの二人がいる事はない。それがどうしようもなく松川にとっては不安だった。 自身が経験してきた異常は、非情で淡く冷たく、そして強い後悔ばかりを残していたからだ。 とにかく辺りを見渡す。 ここがその異常と同じだというならば抜け出すやら、帰るやらの方法は必ずどこかにある。 今までだってそうだった。大丈夫。 そう自分を鼓舞しながら、静まり返った見慣れた街は、いつもよりもひどく暗かった。 「電気が、止まってる?」 「確かにそーだね、、どこもかしこも、、 街の動きが止まっちゃったみたいだ。」 「どうしますか?歩いてでも署に戻りますか?」 「うーん、、、電波もないみたいだし、とにかく現状把握かな。 明らかに普通ではないから、」 そう言って支給されている携帯電話と自分のスマホを交互に見やった黒川は、小さくため息をついた。 それは、冷静に見えて動揺しているが故の行動だろう。 こんな時でも誰よりも落ち着いて居なくてはと務めるその姿は、まさに警官の鏡であり、黒川らしい一面だった。 松川は自分の腕時計を見る。 デジタル時計のそれは、電気は付いているもののバグでも起こしたのかずっと止まったまま動いていなかった。 それどころか自動消灯が作動してない様子で、電池を消費しながらずっと画面がついたままになっている。 幸か不幸か最近買い換えたから、電池消費は早くない。少なくとも一日つきっぱなしでも問題はないだろう。 むしろ正しい時間を表示しないという致命的な状態なのだから、そもそも使い物にはならいのだが。 もう一度時計から目を離し辺りを見渡す。 電気のない真っ黒な世界は、正直歩くことも憚られるほど終焉的だった。 松川にとっては、これほどまでの恐怖はなかった。 彼の目には、太陽の光は入らない。 太陽が登る朝、彼の視界には月が登る。一種の持病の様なそれは、誰にも気付かれる事なく2年ほど彼の身を蝕んでいた。 故に、現状のその光景はより暗く感じる。 「まっちゃん?」 「おう、なんでもねぇよ。気分が悪いだけだ。」 前を歩き出した黒川が、一向に足を振り出さない松川を心配して振り返る。 苦笑して返事をするが、黒川の表情が変わる事はない。 そっと、最初の一歩を踏み出せば、違和感がゾッと這い上がった気がした。 瞬間。自分の右手を確認する。 その手に銃は持っていない。 今の彼にとって、それだけが救いだった。 いつぞや、その手には一丁の銃が握られ、それが今のこの瞳の原因だった。 「智治さん、無理しないでくださいね。」 「おう。わりぃな。」 後ろから賤川がそっと背中をさする。 振り返った松川の声は、気分が悪いという割には淡々としていた。 しばらく歩いて気づいた事は、何もなかった。 人も動物も居ない。 街の動きも全て止まり、三人だけが取り残された違和感だけが、ふわふわと浮遊して纏わりついてくる。 振り出した足が止まる事こそなかったが、三人は次第に周囲を見回す事をやめていた。 署に戻った所で何も変わらないのではないか、 むしろ絶望が待っているのではないか、 そう思わずにいられない状況を察して、自然と視線が下がっていたのだ。 だからこそ〝それ〟に気がついた。 「人形?」 ふと、道路の真ん中を歩く三人をじっと見つめるものがあった。 歩道の脇に乱雑に投げられた三つの人形の一つがこちらを見ている。 松川のこぼした声に二人も反応してそちらを見るが、総じて眉間に皺を寄せていた。 松川はふらふらと歩き出す。 人形のそばにしゃがみ込んで、それが初めて歪であると気付いた。 「まっちゃん、よくそんなの近くで見ようと思ったね。」 「・・・明らかにおかしいだろ、こんなところにこんなの落ちてるとか。」 暗くて近づくまで歪さに気づかなかったなど口にするわけにもいかず、流れるようについた嘘が落ちていった。 そこには三体の人形があった。 ポージングのモデルに使われるデッサン人形だ。 木製のそれは見た限り警官の服を着せられている。 しかし、一つは原型を保っているが 背中に大きな傷が入っており、 一つは右腕が捥げ、 一つは左脚が焼けていた。 三つの警官服を着せられた人形というだけで、どこか松川にはヒントを指し示した証拠物品のように感じられた。 気持ちは乗らなかったが、それでも手に取ればそれが傷がついているだけで案外普通の人形である事はすぐに理解できた。 「うわっ、、えっぐ、、腕無いですね。」 「あぁ、ご丁寧に警官服だ。」 「デッサン人形用の警官服なんてあるの?」 「知るかよ。」 「あまり見た事はないですね。」 まじまじと松川の背後から黒川と賤川が覗き込む。 その光景は、三人の中ではよくある光景で、 165センチの松川と170センチ台の賤川と黒川では、何かを確認する時、身長差的に一番見やすい体制なのだ。 松川の手に取った人形は右腕がなかった。 断面を確認すれば〝引きちぎられた〟という表現が正しそうな状態。 上腕の途中から木が文字通り折れて無くなっていた。 ほかに不審な点は無い。 無いと思った。だからこそ、一瞬背中を走った悪寒だけが松川の咄嗟の行動の起点になった。 「っ!!伏せろ!!」 「うわっ!」 「っ!!」 背後から何かに、見られている? 違う。 近づいている。 その感覚は刑事の勘だった。 鈍っていなかった事をこの時ほど良かったと思った事はなかったろう。 人形を投げ捨て、左手に賤川のネクタイを乱暴に引っ張り頭を下げさせ、右手で黒川の胸を押した。 賤川はネクタイを引かれ前傾し、驚いて力の入ってしまった体は、松川に抱き寄せられる形になった。 さっきネクタイを握っていた手は、素早く賤川の頭を強く抱きしめた。 「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーーーーーーーーーっ!!!!!」 瞬間、鼓膜が破れたと思うほどの絶叫が鳴り響いた。 低く耳あたりの良い先輩の絶叫が、松川のものだと、賤川にはすぐに分かった。 それは最後は掠れて消えていった。 ガクンッと賤川を頭を抱きしめていた腕から力が抜けて、次いで顔を上げ状況を確認しようとした賤川に、松川が体重を預けた。 咄嗟に抱きとめて気づくのは預けられたのではなく、倒れたのだという現実だった。 小柄だが筋肉量のある松川の体が、支えを失って賤川にぶつかったというのが、一番正しい表現だろう。 「とも、、、じ、、さん?」 顔を上げ倒れた松川を確認して、賤川はただ呆然とするしかなかった。 自身も身に纏っている見慣れた青の制服が、真っ赤に染まって歪な色へと変色している。 黒縁の松川の眼鏡は半分が真っ赤に染まって、その表情を正しく判別する事すら難しかった。 何よりその腕は、あるべき場所に無かった。 「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」 現実を目の当たりにして落ちかけた思考を、否定する様に口から叫びが上がる。 喉を焼くようなそれがさらに鼓膜に負荷をかける。 パニックになり拒絶を繰り返す思考は自分ではどうしようもなかった。 とにかく松川の身を抱き止め、声をあげて目を閉じる。 何かが肩を掴めば身を揺すって距離を取ろうとまとまらないまま足を地面に擦らせる。 「っ!!!落ち着け伊吹姫!!」 「っ、、あ、お、おく、みさん?」 「うんうん、やっと通じた、、姫ちゃん、大丈夫?」 「おれ、俺っ、、」 「ごめんね、落ち着くまで待ってあげる余裕がないかも。 とりあえず、まっちゃん抱き上げられる?」 「ま、まつ、ともじさん、、はい、はい!持てます!」 聴き慣れた先輩の、聴き慣れない怒声で、スッと意識が浮上した。 どの程度暴れ狂っていたろうか、息は上がりきっていて肩が上下している。 はっきりしてきた視界の中で、自分が血濡れの松川を抱きしめていた事に気づいた。 無意識に守るかのようにして抱き寄せ、その身を離す事が出来なかった。 黒川は周囲を見渡し、ホルダーから拳銃を取り出す。 賤川が困惑しながら松川を抱き上げるのを見て、余裕はないと言っておきながらも薄く笑みを浮かべた。 「よし、それじゃ、近くの工場まで行くよ。 とにかく建物の中に入ろう。」 「あ、は、はい。」 入ったのはおもちゃ工場の一画だった。 これがゲームであれば、人目につかず、一度隠れて休息を取るのであれば上出来の位置だ。 賤川は震える自身の手を叱責しながら松川を引いたシーツの上に乗せた。 シーツはここに来る途中に民家に干してあった物を拝借したものだ。 松川は未だ意識を取り戻していない。 しかし荒いが呼吸はある。浅くなっている様子もない。 賤川がパニックになっている間に黒川が止血をした事もあって、出血量も思ったほどでは無かった様だ。 「ふー、、すぅー、、はぁ、、」 「姫ちゃん大丈夫?」 「すいません、取り乱しました。」 「それが普通だよ。」 「はい、、、あの、、一体何が。」 松川の処置をあらかた終えた後、やっと賤川は落ち着いて現状を黒川に問いかけた。 黒川はどこか悔しそうな表情をしていたが、それでも淡々と説明を始めた。 「まっちゃんが、伏せろって言って俺は咄嗟にしゃがんだんだけど、 まっちゃんは俺の事押したの。 んで、、そのまま俺も尻餅付いて、、 顔上げたら、、 化け物がまっちゃんの腕を噛みちぎってた。」 最後の一言を口にするのを、黒川は何度か息を呑んでためらった。 配慮と嫌悪と困惑、、一言では言えない感情からくる躊躇いなのだろうが、それでも伝えないと前に進まない事は目に見えていた。 〝敵意を持って攻撃を行う怪物がいる〟 その事実は、この非現実的な現状をさらに困惑に陥していく。 怪物はトカゲの様な姿をしていたが手は小さく素早かったと、そして、松川の腕を噛みちぎるとすぐにどこかに走り去ってしまったらしい。 「お、く、、み、、」 「!まっちゃん!?目覚めた?!」 「智治さん!!」 「うぅ、くっそ、、いてぇ、、」 「当たり前だろ!?動かない!!」 「んっ、、、かい、ぶつの話、、 つづけろ、、」 痛みを堪える唸り声をこぼしながらも、松川は黒川に先の話を勧めた。 自身の状態を考慮して欲しい物だとため息をつく黒川だったが、どう転んでも怪物の事は松川にも教えた方がいい事だった。 だから、黒川は口を開いた。 しかし、松川の目は醒めた。 「おとーさん?大丈夫?」 呼ばれて顔を向ければ、娘は首を傾げて自身の腹部に抱きついている。 べっとりと汗が吹き出していた事に気付いて、体に入った力を意識して抜いていけば、娘の体重分腹部が沈み込むのがわかる。 押されて吐き出された息は、詰めていた様に熱い。 「大丈夫だ。」 心配気にする娘の頭を撫でると、安心した様に少し顔を心臓辺りに下ろしてくる。 少し早いソレに気付いたのか、娘はパッと起き上がると松川の頭を同じように撫で返して腹部を降りた。 松川は、久しぶりに撫でられた自身の頭を確認する様に撫でて、もう一度夢でしたように出勤と娘の送りの準備を始める。 もう一度、当たり前の朝を迎えた。 もう一度、悪夢の中に居るともしらず。 「それが、俺が見た最初の夢。 多分、そっからは衽が見た夢と一緒なんじゃないか? 今度は衽が人形に触れて、衽が怪物に襲われた。」 そこまで話して、松川は口をつぐんだ。 黒川は松川の言う二回目の夢と、自身が見た最初の夢が同一であろうことは察して、 低く唸った。 考えたくない事が頭をよぎっていく。 つまりこの夢は、同じ様に見えて、自分たちの行動でエンドの変わる、ループ系のゲームをしている様なもの。 夢が途切れるタイミングも自分たちでは操作できない。 この夢にいいように転がされるしか、打つ手がないと言う事だ。 「えっと、それはつまり、どう言う事になるんですか?」 「姫ちゃん、、ごめんね、全くついてこれないよね。」 「つまり、この状況に陥るのが俺は三回目で、その都度誰かが怪物に襲われて大怪我してるってことだ。」 「その説明で納得しろってほうが、、、 いや、まぁ、分かりました。わかった事にします。」 何かを思い出した様子で青ざめていく賤川は、ため息と共に黙り込んだ。 黒川は助手席から賤川に手を伸ばした。中途半端に届かないが、肩口ほどを撫でてやることは出来る。 賤川はしばらく固まっていたが、意を決した様に顔を上げた。 「衽さんは?」 「あぁ、そうだね、、俺はこの夢は二回目。前の夢で人形を触った後に怪物に、、襲われた?のかな? 俺は怪物の姿は見てないからハッキリしないけど。」 「俺は、、何も覚えてない。違う点で言えば人形に触れてないって所ですかね。」 「そうだな。だが、人形に触れればおそらく怪物の標的になる。」 淡々と進む三人の会話。 それは非現実的ではあったが、現状や周囲の状況よりはずっと現実的だった。 3人の中で共通したのは、あの人形が何なのかと言う点だった。 何かのトリガーの様な、それでいて品定めをする為の物差しの様な、掴みきれないそれの存在は、現状では理解に至ることが難しい。 「と、しても、それを探すしかないよね。」 黒川のその一言に2人が頷く。 再度、それぞれに装備をチェックするが、特に変わった様子は無い。 松川はふとスマホを手に取る。画面は付くものの、時間もアプリの表示も歪で、何一つ正常に作動しそうなものはない。 電波も圏外。 自身の腕時計も前に見た夢と同じ状態だった。 「その人形は、2回とも別々の場所にあったんですよね。 なら移動しなくてもしても同じように現れるのでは?」 そう賤川がそう言いながら辺りを見渡せば、それは案外簡単に見つかった。 いや、もはや見つけると言うよりも現れたと言う方が正しい。 これが夢であると分かったのなら、何も隠す必要もない。そう何かが判断をした様に目当ての物は目の前に現れた。 クルマのフロントガラス越しに じっとこちらを見て居る。 そこには三体の人形があった。 ポージングのモデルに使われるデッサン人形だ。木製のそれは見た限り警官の服を着せられている。 しかし、一つは原型を保っているが 背中に大きな傷が入っており、 一つは右腕が捥げ、 一つは左脚が焼けていた。 フロントガラスに寄りかかる様に置かれたそれは、 確実にそこには無かったものだ。 「・・・見てるな。」 「デッサン人形には目がないから、見てると言うより。在るって感じだけどねぇ。」 3人は車から降りるとパトカーの正面に並ぶ。 デッサン人形はパトカーの中側を向く形で並んでおり、背中側から見ると一つ一つの傷の深さが有り有りと目に付いた。 「さて、どうしますか?」 「どうしようねぇ。」 「現状、情報が無さすぎるからな。 とにかく繰り返して突破口になるものを見つけるしかねぇだろ。」 「ストップまっちゃん。そう言って人形に触れるつもりでしょ?また腕食われるつもり?」 「いや、腕喰われると動きにくいから背中の傷が無難だろ。」 「そうですけど、そう言う事じゃないです。」 「なんでも自分が危険を背負おうとするのは悪い癖だよ。本当に夢で、次目が覚めるかも分からないんだから、ちょっとは慎重に動いてね?」 「もっと2人とも良く思い出してくれません?俺は覚えてないんですから、何かヒントになる事ないんですか?」 「「てきびしぃ」」 怒涛に喋り出しては一気に静まり返る。 3人からするとよく在る光景だが、それぞれに表情の硬さは抜ける様子がない。 松川はメガネを少し上げ直してもう一度よく人形を見る。 自身が触ろうとした背中の傷のある人形のその傷は、夢に見た黒川の背中に出来た物と間違いなく同一だった。 自身は黒川が襲われたところは見ていないが、賤川と合流したあと、手当をしている傷口はきちんと確認している。 あの時、黒川は眼を覚ましたが、確かにこの傷を自身が受けるのは多少まずい。 というのも、背中からすでに鈍い痛みを感じていたからだ。 なんて事はない古傷は、時折そうして痛む。本来なら事情を知る主治医に処方された痛み止めで何とかなるが、残念ながらそれは交番のロッカーの中だ。 「あー、、、」 「何?どうしたのまっちゃん?」 「んーーー、、、」 キョロキョロとあたりを見渡す。 黒川に声を掛けられるが、返答は曖昧な物で聞こえているのかいないのか定かでない。 賤川も同じように声を掛けようとするが、そっと黒川が手で制す。 「なんですか。」 「いや、多分だけど、これ、まっちゃんの癖みたいなものだから、 ちょっとほっとこ。」 「癖?」 「変な言い方すんじゃねぇよ。別に癖じゃないし、聞こえてる。」 小声だった会話を遮るように、松川はもう一度人形を目に映す。 どこかそれは、笑っているような気がした。 「・・・伊吹姫。黒川を襲った怪物は影から現れたって言ってたな。 俺を襲った怪物は、特にそれ以上追撃してくる様子でもなかった。 ・・よりはっきりと行動してるのか。でもなんだ、この違和感。なんかわかっててやってるみたいな。」 松川は人形を視界に収めたまま首を傾げた。 そして、一つの仮説を二人に提案する。 「あの怪物の動きに変化があったところで言えば、1回目の夢では〝襲うだけ〟だったのが、 2回目の夢では〝追いかける〟ようになってたってところだ。 怪物の考えなんて分からないが、もし、もしだぞ? 人形に触れたことのある人間〝だけ〟を認識できているのだとしたらどうだ?」 「それは夢で人形に触れた俺とまっちゃんだけを、あの怪物は認識できてるって事?」 「あぁ、なるほど。 衽さんが襲われた時に、怪物が俺じゃなくて智治さんを狙って追いかけ回したのは、 単純に認識できるのが智治さんしか居なかったっていう仮定ですね。」 松川がうなずく。衽は二人の話を聞きながら頭を掻いた。 どうやら思っているよりもずっと、二人はこの状況に順応しているらしい。 そんな一面を心配しながらも、衽もその仮説に則って話を続けた。 「つまり、人形の役割は二つ。 一つは怪物が姿を現すためのトリガー的な役割。 もう一つは、認識できる人、、要はターゲットに匂い付けをするみたいな事?」 「あ、それわかりやすいな。 俺と衽には怪物の好みの匂いがついちまってるから、伊吹姫はそこら辺の石的扱いだ。」 「俺のことバカにしてるわけじゃないですよね。」 「ちったぁ気持ちが和らぐかなと」 「余計な節介で空回ってますよ。」 「わりぃ。」 賤川は腰に手を当てると空を見る。 相変わらずどんよりと曇っているそこにはポツンと丸い穴が空いていた。 正確にはまるで月蝕のような太陽が浮かんでいた。 比喩ではない。姿形が真っ黒に染まったそれは当たり前のように辺りを照らしている。 加速していく非日常にため息が溢れる。落ちたため息に気づいたのか、つられるように黒川も顔を上げて引き攣った顔をした。 「うーん、どっちにしてもいよいよ異世界って感じだねぇ。」 「できる事なら、一人くらいヒロイン置いておいて欲しかった。」 「居るじゃんヒロイン。ひm」 「それ以上口にしたら殴ります。」 「ごめんね。」 松川も、そんな二人の会話を聞きながら空を見上げる。 彼の眼にも、それは正しく認識された。 いつも月だけ登る空に、月蝕のような黒丸があるのは、どうやら話を聞くにも二人も同様らしい事を察し、 改めて自身のこの眼が普通でない事を痛感した。 長く見つめていたくないそれから視線を下げて、グッと下を向けば、自分の影が広がっている。 真上からの歪な光陽を浴びて広がる黒は、狭い範囲で道の凹凸に合わせて揺れる。 ここから怪物が出てきたのは、あまりに考えられない事だったが、地面から出てきたと解釈すればまだ幾分か理解に至れた。 それは幽霊のようにすり抜けたという前提にはなるが、地下には人智を超えた何かが居ることはよくある話で、見知った事だ。 納得は一応できる。 「あの人形がトリガーなら、触らないのが一番なんだろうけど、現状それ以外の情報もないし、どうしようか。」 「触るなら伊吹姫はだめだ。 この仮説が本当ならいざと言う時、手当てや待避に当たれる人間は必要だ。」 「これに触れなきゃいいなら、とりあえず調べられることは全部調べましょうよ。 空もこんなんじゃ、どっちにしたって時間の換算をつけることもできないですし、急ぐ意味もないでしょ。」 衽は二人の言葉に頷く。 何点か確認したい事項を伝えると、少し思案してから今後の動きを確認する。 それはさながら捜査会議のようだった。 「まっちゃんは学校方面。緊急時の巡回ルートを使用し街の状況把握を主に動いて。」 「配慮助かる。了解。」 「姫ちゃんは2号線沿いに区内の東側。 いつもの巡回ルートで構わない、日時日程に関わる情報を主で集めてきて。」 「了解です。」 「ちょっと試したい事があるから、俺はこのまま交番に向かう。 二人も巡回を終えたら交番集合。本当は別々に行動したくないけど状況が状況だからね、情報収集を優先する。 何かあれば威嚇射撃で必ず伝えて、これだけ静かなら多少離れていても聞き取れる範囲内に交番があるから。 もし、1時間数えても交番に来なかったら何かあったものとして換算するから、そのつもりで。」 「かぞえっ!?」 「スマホも時計も時間を正しく進めてくれるとは思えないからね。 俺はそれに集中するとするよ。」 「普通はできねぇからな、それ。」と言いつつも松川はホルダーから銃を引き抜く。 弾数を確認して息を吐くと、再度二人の顔を見た。 凛としている黒川とは逆に、少し引き攣っている賤川の背中を軽く叩き、「んじゃ先に行くぞ。」と歩き出してしまう。 叩かれた背中を摩りながら、「まぁ、何もないと思うので、行ってきます。」と、そう黒川に告げて、賤川も目的の方向へ歩き出す。 二人の背を見て黒川はパトカーのボンネットへ腰を預けた。 体重に押されて揺れるパトカーはいつも乗っているそれとなんら違いない動きをしているが、それでも今はただの鉄片だ。 「1、、、、2、、、、3、、」 カウントダウンが始まった。 そっとボンネットを撫でた手が自身の腰を支え、反対の手でセットしてある髪をクシャリと崩す。 「4、、、、5、、、、6、、」 、、とん、、、、とん、、、、 秒間を埋めるように、足音を立てて歩き出す。 常に歩幅は一定に、それに合わせて靴音も一定に、そうして秒数は進んでいく。 ゆっくりと、長い3.600歩が始まった。
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