大事なもの

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大事なもの

賤川伊吹姫は、交番に勤める3人の中でも新人であり、頭に叩き込んだ巡回ルートは、非常時に特に曖昧になる。 自身が比較的パニックに陥りやすい事は、よくわかっている。 だからこそ、こういう時に一人になるのは気が引けたが、現状そんなことも言ってられない。 気合を入れるように叩かれた背中は、まだジンジンとした痛みを持っていて、 その痛みを糧に自身を鼓舞して歩みを続けた。 あたりを見渡せば空と人の無さ以外は、なんら変わった所は見受けられない。 というよりも、人が居ない違和感が強すぎて他の違和感に焦点を当てる事が難しかった。 「さて。」 賤川は手短なコンビニに向かう。 電気が止まっているのか、やはりそのガラスドアのセンサーは作動しない。 こういう時はロックが掛かっているかもしれないと、そう思いつつもドアに手を掛ければ、込めた力に合わせて横にスライドした。 『いらっしゃいませ』 記憶から引っ張り出された籠った店内BGMと掛け声が聞こえた気がした。 顔を上げても、そこに店員や電光の明るさは存在しない。ルーティンだったそれらがない事が、どうしようもなく不安を駆り立てる。 『お兄ちゃん!レモンティーあったよ!』 コンビニに来れば、当たり前のように自身の好きな飲み物を買い物カゴに入れてくれる優しい妹も、今はいない。 自然と下がり気味だった視線を上げれば、それは飲み物売り場の方へ向く。 ガラス戸の向こうには飲み物が並べられていて、賤川の好きなレモンティーも変わらずそこにあった。 戸を開けばひんやりとした感覚はあるが、それも徐々に常温に落ち着いついているようで、冷房が切れている事がわかる。 なんなら飲み物も持って行ってみるかと、レモンティーを手に取る。賞味期限は適切な日取りが載っていて、日時のズレは感じられない。 思案しながらキョロキョロと店内を見渡せば止まった時計が目に入る。 時刻は3時46分。 朝一警察署を出た時間からの体感で言えば、明らかに割の合わない時間だ。 秒針は外れているようで、6の文字盤のあたりをフラフラと揺れている。 さて、まだ、約束の1時間までは時間があるように感じるが、二人と別れてどれくらい経ったか。 巡回ルートはいつも二人で歩く時は早くて30分程だ。本当なら別区画も一緒にまわる為ざっくりとした判断でしかないが、どう思っても余裕はある。 いつぞやの事を思い出して、自分の知らない世界に、長く居座る可能性を視野に入れて行動するのは、決して悪い事ではないが、褒められた事でもないと気持ちを切り替える。 非常事態ではあるが、緊急的に水分が必要なわけでも無い。コンビニは他にもある。 今行うべきは現状確認であって、とりあえずここに商品がある事がわかっただけでも充分だ。 そうやって止まった動きを再稼働させる。 軽いパニックかとなんども深呼吸をして、レモンティーのパックから手を離す。 離した手は大人しく自分の元に返ってくるものだと思っていた。 しかし、置かれることを待っていたように、絡められた誰かの指先が、5本総じて力強く己の指を引いた。 「はっ!?」 人の力とは思えない指先に引っ張られ、賤川の体を勢いよく商品棚に叩きつけられた。 バランスを崩し受け身もままならなかったせいで一瞬視界が真っ白に歪んだが、指を折る勢いで誰かが自分の指を引っ張っているその事実と痛みが、視界の白さなど忘れるほどの恐怖を与えてくる。 「ひっ!?えっ、なに?なんだ!」 自分の腕を確認すれば、それは商品棚の向こうにいる誰かによって引っ張られ、その狭い隙間に肩まで入り込んでしまっている。 周囲の商品をなぎ倒して、ミチミチと皮膚が破れそうな音をたてている。 腕が引き抜かれる危機感で一瞬何かがフラッシュバックした。 強い血の匂い。 染まった警官服。 ぐったりと脱力した腕のない身体。 「はっ?あっ、?やっ、、」 もはやそこまでくると、賤川は完全なパニック状態だった。 いつの記憶か、なんの記憶か、それでもその光景を知っている。 焦る気持ちと強い混乱でとにかく腕を取り返さなくてはと、幻覚的な思考にさえ気づけない。 取り返せ、取り返せ、何を?腕を。 「はっ!?あつ?ぁぁぁあああ!!!!」 身体のことなど配慮できず、とにかく引っ張り込まれている腕を引き抜こうと暴れる。 グッと肩甲骨と上腕骨が離れた様な違和感を感じ、恐怖心が勝って力が抜ける。 その繰り返しを半狂乱で繰り返していれば、足元に転がり出していたレモンティーを膝で踏み潰し、辺りに液体が広がった。 ふと視界に広がったそれは、薄く色づいた黄色ではない。 見慣れたレモンティーのパックから、潰れ溢れ出た赤が強い鉄の匂いを放っている。 「ひっ!」 咄嗟に強く腕に力が籠る。 それは反射的に握ってしまったというだけではあったが、何かを捻り潰す様な音と断末魔の引き金となり、 瞬間、賤川が引っ張っていた力のまま商品棚の隙間から腕が引き抜けた。 ドゴツと勢いに任せたまま後方にあった商品棚にぶつかる。 数個の商品が落ちてくるがそんな事を気にする余裕はない。 浅い息を繰り返して賤川は呆然としていた。 さっきまで自身を引っ張っていた何かは、一体なんだったのか。 そう思わざるをえないが、そこには確かに見たはずの押しつぶされたレモンティーも、そのパックから溢れ出る赤も、鉄の匂いも、 暴れた事で倒れたはずの他の商品も、力強い5本指も、 何一つ見当たらなかったのだ。 ただ平凡なコンビニの一画だった。 「はっ、、、はっ、、ゆめ?? 夢?なのか?今もの?でも、でも確かに。」 時計を見上げる。 3時46分。 秒針は、嘲笑う様に6の文字盤で揺れていた。
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