11人が本棚に入れています
本棚に追加
/24ページ
松川智治は早々に学校へ足を踏み入れていた。
警官としても父親としても、足を踏み入れたことのあるここには、娘が通っている。
「配慮助かる。」
そう口にしたのは自分だ。
娘の事をいつも一番に考え心配している事など、黒川からすれば分かりきったこと。
この異質な空間に、”3人しかいない”のかは確信できない。
他の人間がいる可能性もゼロではない。
つまりそれは、娘がいる可能性も少なからずあるという事だった。それほど、恐ろしい事はない。
こういう時ほど、安心に至る要素は多い方がいい。自分の目で確かめる以外に、確実に安心を得られる方法も無い。
娘はこの異質な空間には出入りしていない。
その安心を求めて、歩く校内は、ひどく静かだった。
『とおさん!』
振り返る。娘の姿はない。
記憶から掘り起こしたのか、娘のことを思えば、その明るい声がいつだって鮮明に想起できる。
しかし今はいない。いないでいい。居てくれるな。
そうやって半ば言い聞かせる思いが強かった。
「やっぱ、誰もいないか。」
しばらく校内を見てまわったが、人と会うことはなかった。自分の声だけが響く廊下はやけに物寂しさを感じる空間になっている。
娘の教室に向かえば、当たり前のように扉が開いていた。不安に後押しされてそっと覗き込めば、強風が短い彼の前髪を撫でる。
風の通り道を探せば、ひとつだけ開け放たれた窓がある。
不自然ではあるが、特に警戒心も持たないまま引っ張られるようにそこに足を運ぶ。
窓を閉めようとすると、ふわふわと浮遊する何かを見つけた。
「くも?」
蜘蛛。それはどこからか伸びた糸にぶら下がっていた。
大きくもなければ、決して小さくもない。
風に抗えないまま揺れていて、今にも吹き飛ばされそうだ。
思えば人間に限らず、他の生き物の姿も目にする事は無かった。
蜘蛛は日常的に目にするものだが、この空間においては何かの手がかりのようだった。
何気なく手を伸ばせば、蜘蛛は松川の指先に触れる。
その瞬間、プツリと糸が切れた。
切れた糸と共に、簡単に蜘蛛は窓の外へと放り出され落ちていく。
それと目があった。
蜘蛛ではない。
一人の少女が蜘蛛と一緒に落ちていく、松川の視線の上から来て、そのまま下へ。
音もなく現れたそれは、にっこりと笑っていた。
「あっ・・はっ?」
追いつかない思考がフリーズする。
たった一瞬だった。
視線がふらふらと揺れて、頭の中に少女の笑顔が居座る。
(あれは、なんだった?誰だった?
どこかで見覚えがなかったか?いや、
そんな事はない、だから、大丈夫。)
やっと思考が回りだすまで、果たしてどの程度の秒数を要したろうか。
考えに一番に浮かんだのは家族のことだった。
彼にとって、”失う”行為が直結させるのは、亡くした家族の存在だったのだ。
冷静な自身の思考は、大丈夫だと繰り返しながらも、大丈夫な事などないだろうと、冷や水を掛けてくる。
ゾッとした。
松川はその表現しか知らない。その表現くらいしか当てはめられない。
しかし、対してそんな言葉では表現し切れないものだった。
そっと、無意識に後ずさっていた足を前へ降り出す。
息を呑んでゆっくりと震える手を窓枠に掛け、下を覗き込む。
かちゃりとメガネがズレたのが分かったが、それを直す余裕もなかった。
視界には血も体もない。花壇を彩る美しい花々だけがそこにあった。
「ははっ、、なんだよ。ふざけるなよ、、」
へたり込んだ床はひんやりと冷たい。
一気に噴き出た汗が、頬を伝って落ちていく。
口元を押さえれば、喉の奥が低く鳴った。
最初のコメントを投稿しよう!