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「着いた。」
そう呟いた黒川衽は、見慣れた交番の前に立っていた。
そこに人の姿はもちろんない。
ここに至るまでの間も、誰にも出会わなかった。
一見すると不自然に歩数を数えながら歩き続けた光景は、黒川自身としても結構な異質さを放っていたなと思うが、
交番の中に入ればいつもと変わらない。
あえて違う事を言えば、いつもはいる夜勤の警官すらもいない事だ。
「さて、数え終わったくらいのタイミングで着くように迂回はしてきたし、
誤差があっても10分前後かな?」
手慣れた様子で交番の奥へ引っ込む。
交番はさほど大きくはないが、一番突き当たりに申し訳程度の広さの倉庫がある。
ゴソゴソと漁れば、目当てのものは案外簡単に見つかった。
「使わないし、いつ捨てようと思ってたんだけど。」
その手に握られていたのは砂時計だった。
電気機器は使い物にならない状況で、果たしてこれが役に立つのか。疑問はあったが、物理的な時間経過を見るだけなら正確さは保証されているはず。
そう思って黒川は交番の出入り口にある自身の机の上にそれを置いた。
裏返したそれは淡々と上から下へ砂を落としていて、その変哲ない動きはどこか安心感を与えてくる。
淡々とその動きだけを見つめる。
どうやら異様な空間ではあるが、変わらず〝普通〟と呼べるものもある様子。
規則的に一定の量が落ちていくそれは、時間がたしかに存在する事を証明しているようだ。
そう思うと同時に、そんな物にすら安心感を得るほど追い込まれているのかと落胆した。
黒川は顔を上げて交番の外を見る。
いつもなら、誰ともなく何か目的を持ってそこを歩いていたり、時には子供たちの笑い声で溢れる空間が、静まり返り、薄暗い異質な太陽の光だけに照らされている。
その事実は何度見ても胸を締め付けるものがある。
あぁ、早く来ないかな。無事かな。
まだ交番に来ない二人を思って焦りが募る。
それぞれに分担する形は取ったが、果たして吉とでるか凶とでるか、それだけはやってみないと分からない。
とはいえ、確信もなく行動に移すのは、ある程度のリスクは覚悟しないといけない。
それをわかってて判断をしたのだ、この不安は妥当だ。
そう必死に言い聞かせる事しか、待っている今現状できる事はない。
悶々としているうちに3分が経ち、黒川は砂が落ち切ったのを確認してもう一度ひっくり返す。
変わらず砂は落ち続ける。
もう一度この作業を繰り返しても二人が来ないようなら、賤川の方から先に見つけに行こう。
そう思いつつ、自身の仕事机のメモを取り出す。
ペンで試し書きをすれば、文字は充分にそこに残る。
これもいつもと変わらない。
「さて、、、」
いつもの業務をする様に、淡々とこの出来事を書き込む。
何が起きているのか、
分からない事、
分かっている事、
自分たちがした対処。
それは報告書を作る上で培われた文章表現技能だった。
少し堅苦しさを持った文字列は、警官らしいまとまりのある字であり、走り書きではあったが、確かに伝えるための文章だった。
「もし、万が一の事があったときに、この文書が果たして残るのか、、
希望は薄いけどね、、、」
独り言が交番に薄く響く。
コンコン、、、
独り言は、意図を持った音で遮られた。
咄嗟に立ち上がり外を見る。
そこには出入り口に寄り掛かる様にして立っている松川の姿があった。
認識に至って無意識に伸びかけていた銃から手を離す。
にかっと笑う彼は安心している様だった。
「まっちゃん、良かった、無事だった。」
「おう、とりあえず何もなかったぞ。」
「‥‥学校は?」
「機能してないな。人のいる様子もないし、時計類もダメだった。」
「‥‥‥他には?」
「いや、めぼしい事はなかった。俺たちしかいないし、電気類はやっぱダメだ。」
「‥‥‥‥誰?」
「ん?」
違う。
それは直感だった。
そこに居る松川が知っている『まっちゃん』ではない。
確信があった訳ではない。
それでもわかるのだ。
長く共に居たからこそ確信に足る違和感がそこにあった。
「・・お前は、、誰だ。」
「何言ってんだよ?
まさか何かあったのか?」
「違う。お前はまっちゃんじゃない。」
引っ込めた手がもう一度銃に触れる。
引き抜いてから撃ち込むまで、自身であれば10秒もいらない。
「おいおい、待てよ、冗談きついぞ。」
「冗談?俺は結構怒ってるよ。その減らず口がこれ以上開くなら物理的に閉じさせてあげるよ。」
「っ、、」
松川が両手を挙げる。それは降伏の印。
そして、足りなかった確信だった。
黒川は銃を引き抜く。迷いなく構えたそれは、驚いた顔をしている目の前の松川を、
撃ち抜いた。
辺りに銃声が鳴り響く。
静まり返った街にそれは甲高く鳴り響き、残響が床に広がった血溜まりにも揺れを起こす。
松川は見事に頸部を撃ち抜かれ、しばらくバタバタと痙攣と絶叫を繰り返して、動かなくなった。
撃ってから沸々と溢れてくる懺悔と、血飛沫に黒川の気分は悪くなる。
間違ってはいない。
いや、間違っていたかもしれない。
一瞬の判断で自分は果たして何を材料にして引き金を引いたのか、瞬間に感じた物を塗りつぶす黒い感情に引っ張られて、一歩、一歩とその死体に近づく。
時折血を噴き出しながら、頸部を撃ったせいで肺の空気が弁を失って漏れ出ている。
その顔は確かによく知る人物で、血濡れのそれはあまりにも衝撃的だった。
この惨劇を作ったのが自分であるという事実がどうしようもなく焦燥感を駆り立ててくる。
「まっ、、ちゃん、、じゃ、ない、、
違う、、だって、、」
2年前、失った家族のことを、唯一一人だけ巻き込まれず生き残った娘のことを、彼は大事にしている。
その違和感に触れるのは俺くらいで、だから、学校に行って、娘の安否を伝えないはずが無い。
俺になら伝えてくれる。
俺がなぜ、学校に向かわせたのか、彼はわかっているはずだから。
あれは、あれは、、違う、、違う、、、
「お、、、く、、ゴビュミ、、」
「っ!!?!?まっ、」
鼓膜を揺らす悲しさに満ちた声は、果たして誰のものか。
そっとその落ちた顔に手を伸ばす。
その顔は驚きのまま固まっていて、でもグリッと半ば陥没したような目が、黒川に向く。
喉の奥がひどく狭窄して、息がし難い。過
呼吸になる。
そう実感した瞬間には息の仕方がわからなくなっていた。
目の前の死体が、悔しそうに歪んだのがわかる。
「なんで」と、言われている気がした。
次第に視界が真っ暗になっていく、酸素が足りていない事はわかっても、対応する余裕などない。
ただ一瞬、強く名前を呼ばれた気がした。
「衽っ!!!!!」
瞬時、落ちかけていた体を後ろから引っ張り上げられた感覚で意識が浮上する。
力の抜けた膝がいつの間に地面に付いていたのか、握りしめていたはずの拳銃も取り落としている。
「っ!?、、、あ、、あ、、ああ、、」
「衽っ!衽お前大丈夫か!?怪我は!!
こ、あ??これ、、俺か!?」
胸元を支えられて、そっとその場に座り込む。何度も飛びかける意識を低い声がひっぱり上げてくれている。
焦った彼の声はひどく素っ頓狂だったが、なぜかとても安心できた。
「ま、ちゃ、、」
「過呼吸か?珍しい、、、ほらっ、ゆっくり息しろ?大丈夫だ。もう大丈夫だからな。」
「俺、お、、れ、、まっちゃん」
「良くやった。」
「は?」
ここまでする必要は無かったのに、確信は無かったのに、警官なのに、人を撃ち抜いた。
相棒を殺した。
その事をとにかく謝らないとと口を開いたのに、松川は黒川を誉めてくる。
血溜まりから離され、引っ張られるまま椅子に座らされ背中を擦られる。
松川は淡々と息が整うように尽くすと、やっと自身の顔を見た黒川に困ったように笑った。
「俺じゃないって良くわかったな。
さすが俺らのハコ長。」
「でも、、俺。」
「俺の事撃って、罪悪感でも感じてんのか?
言いたいことは分かるが、判断が間違ってたわけでも、
俺がお前を軽蔑する理由もねぇ。
むしろ、すげぇわ。」
いつもなら乱雑に撫でてくる手が、優しく髪のセットを崩さない程度に撫でてくる。
変わらず向けられた困った笑顔に、ああ、これだと、あの確信に足る違和感の理由を悟った。
「まっちゃんは、、カラッとは、笑わない、、から、」
フッと自然と自身の口から息が漏れる。
苦笑というよりも優しさからくる微笑みだった。
松川はもう大丈夫だと判断したのか、深呼吸してみせて、それに倣って黒川が深呼吸をしているのを確認してから、もう一度自分の死体の方へと足を運んだ。
そこに既に死体はなかった。
飛び降りの様を見た時と同じように、ただ恐怖のみを与えてそれらは姿を消しているのだ。
「もう死体は無い。つまり、あれはお前を怖がらせる為の幻想って事だ。」
「‥‥今まではなかったのに。」
「‥‥俺もさっき、学校で似たようなもんを見た。連想させられたのは家族のことだった。」
「!‥‥そ、それは、、。」
「いや、似たようとは言ったけど、全く一緒じゃ無いし、相手が勝手に死んでくのを見ただけだ。知らない奴だった。」
黒川は黙って下を向いた。
松川もそれは分かっていたが、言えることなどない。
自分の家族のことを、黒川はよく知っている。
だからこそ、変に取り繕うのは逆に心配を掛ける。
「学校には誰もいなかったし、明音も居なかった。ここに居るのは俺たちだけだ。」
ただひとつだけ確信を持って言えたのは、その程度のことだった。
まだ俯いたままの黒川に、どう対応するべきか悶々と考えてしまうが、彼は勝手に顔を上げた。
「どちらにしても、俺がまっちゃんを撃ったことに変わりはない!
まっちゃん!殴って!」
「あ゛ぁ!?何言ってんだ!?」
「けじめだよ!けじめ!俺の気が済まないの!」
「いやいや、だからってお前っ!」
「大丈夫だよ、まっちゃんのパンチなんて痛くないからさ!」
「‥‥なんでわかりやすく煽るんだよ。俺がそれで殴ると思ってんのか?」
「なんだよ!いつもは別に悪いことしてなくても殴るじゃん!」
軽い問答をしつつ、ふと、二人して立ち上がって熱くなっていることに気づいて、双方に吹き出して笑う。
さっきまであった暗い空気など感じさせないやり取りに、松川の方が先に折れた。
「んじゃ、一発だけな。」と、そう言って握り拳を作ると、黒川は腹部に力を入れて目を閉じた。
松川は後ろに引いた拳を、見事にその腹部に入れる。力加減のない鈍い音が交番内に響いた。
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