悪夢

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悪夢

春麗とはまさにこの事。 世間は新生活に向けての明るい話題に溢れていて、変わり映えの無い生活を送る黒川衽(くろかわおくみ)は通り慣れた通勤路を自転車で急ぐ。 長い脚が漕ぐそれは、水色のクロスバイク。彼にとっては長年の付き合いの相棒であり、手入れされた車体は朝の光を受けて輝き、 車輪はひらひらと舞う桜を巻き上げた。 少し前まで人の目を集めていた桜の木は、すっかり緑の目立つ姿へと変わっており、それに合わせるように足を止める人の波も減っている。 変わり映えのない生活の中でも、四季の変化は当たり前に存在して、それを目にする事で気持ちを新しくすることもある。 黒川も自然と上がる口角を感じていた。 警察署の名前が掘られた石看板に見向きもせず、最後のカーブを曲がる。 カラカラと徐々にスピードを落とし、彼が最後にキュッと音を立ててバイクを止めたのは紛れもなく警察署内の駐輪場だった。 しっかりとバイクの鍵を掛けると、大きく伸びをして署へと向き直る。 眼前には、彼にとって見慣れた建物が鎮座しており、少し古さを感じるものの堂々とした作りに春の陽気は無かった。 「衽。」 ふと鼓膜を揺らしたのは、聞き慣れた男性の声だった。 くるりと振り返って声の主を探せば、バタンという車のドアを閉める音と共に、一人の男性が軽く手を振って気怠げに欠伸しているのが見える。 「おはよう。まっちゃん。」 まっちゃんと呼ばれた男性は、この警察署の巡査長、松川智治(まつかわともじ)だった。 彼は癖の強い黒髪をわしゃわしゃと搔くと、ズルッとずれたメガネを正してから、黒川の元へ小走りで寄ってくる。 眠たそうに瞼を何度も擦る様子と、目の下に残るクマが寝不足である事を物語っているが、黒川が「寝不足?」と声をかければ、彼は首を横に振った。 「いや、寝はした。」 「何時間寝た?」 「…2時間。」 「よくそれで動けるよね、、大丈夫?」 「いつもの事だ、気にすんな。」 「気にはするよ、、」 そんなたわいない話をしながら、二人は並んで署内へ移動する。 時刻は二人にとっては出勤時間であるが、この警察署という空間に休みは無い。 夜勤明けの者から徹夜の者まで、忙しなく事案と足音が溢れている。 二人は通りすがりに挨拶しつつ、更衣室へと向かい制服に袖を通す。 二人の服は、晴れ渡る空の色。 「そういえば、あの事件は進展あったのか?」 「あ〜捜査協力の依頼があって情報提供したやつ? あったよ、あったよ。まっちゃんと姫ちゃんがとってきてくれた証言。 デカかったみたい。」 「あの家に俺らを向かわせたのはお前だろ。後輩育成は結構だが、お前はもうちょい自分の事も立てろよ。」 「姫ちゃんには、まっちゃんのやり方も俺のやり方も、ちゃーんと覚えてもらわないといけないからさ。 それに、俺はいつだって昇格はできるからね〜。」 「へぇへぇ、ほんとお前、そーゆーとこだぞ。」 まっちゃんという呼び名は、黒川が松川に使う愛称だ。 黒川自身よく人を愛称で呼ぶ男だが、ここまでフレンドリーに署内でも愛称を使う相手は限られていた。 松川もそれを知っていてか、拒否する様子はない。受け止めてしまっているのか、単なる慣れなのか、双方に同期ということもあり、二人の仲は底知れず良い。 カツカツと履き慣れた靴から音が鳴る。 堂々とした歩き方をする黒川に反して、少し猫背の松川は、もとより10センチ程低い身長も相まって黒川とより離れている様に感じて背筋を正した。 それは、単純に身長差を気にしてではあったが、どこか拭えない気持ちも同時に存在していて、思わず松川はごまかすようにあくびをした。 装備を整えて、パトカーの元へ向かう。 パトカーが綺麗に並ぶ様子は壮観なもので、その一台だけが、他と少し離れていることにもすぐに気づいた。 それはわざと離して停め直された様子で、脇には青いバケツと汚れた雑巾が丁寧にまとめられており、車体はキラキラと光っていた。 黒川が首を傾げる中、松川は淡々とその車に脚を運ぶ。 それは紛れもなく自分達が今日使用する予定のパトカーだった。 「待ちました。」 「まずは、おはようございますだよ。姫ちゃん。」 「その呼び方やめてくださいって言いましたよね?衽さん」 パトカーの脇に一人の青年が座り込んでいた。 青年は二人と同じ空色の制服に身を包んでおり、 近づいてきた松川と黒川を見ると、どこか冷めた目をして立ち上がり、口を開く。 開口一番、放たれた言葉は威圧を含んでいてどこか刺々しい。 黒川に注意された事も意に介さない様子で反論を返す様子は、あまりに横暴にも見えたが、黒川や松川にとってはいつものことであった。 巡査、賤川伊吹姫(しずかわいぶき)。 それがこの青年の名であり、新入職且つエリートである若い彼にとって 二人は大先輩であり、はじめての職場の先輩であるが、棘の抜けない物言いは未だ正されていない。 「一番最初に比べればまだマシになった。」などと、苦笑する程にはこの黒川と松川はこの後輩に甘いのだ。 というのにも理由はある。 松川は、そっとパトカーのフロントを撫でた。 綺麗に清掃されているのは日頃の整備が行き届いている証拠。 さっきの非礼も、先輩より早くきて仕事を始めている後輩の〝天邪鬼〟と思えば可愛いものだ。 だからと言って許されるものではないが、松川と黒川以外にこの刺々しい言い方をすることは無い。 要は直近の先輩にだけ見せる本人の性格なのだろう。他に害をなすことも、本人の不利益にもならないのだ。 そうやってまた今度、また今度と、説教は日々の業務で後回しになっていく。 「伊吹姫、今日は運転俺がするわ。鍵貸せ。」 「!・・いいんですか?珍しい。」 「たまにはこっちの運転もしねーと鈍る。」 松川が運転席のドアを開けば、 助手席に黒川、賤川は後部座席に乗る。 「んじゃ、まっちゃん運転よろしく。 安全運転頼むよ。」 「衽さん。前回の捜査協力のあった案件どうなりましたか?」 「伊吹姫。出発前に一ついいか?」 「はい?なんですか?」 「挨拶」 「・・・・おはようございます。」 「んっ、おはよ。」 「うんうん!姫ちゃんおはよう。」 エンジンを掛ける。 向かう先はそれぞれ一緒の交番だ。 三人は、同じ交番を受け持つ、 この街のお巡りさんだ。 この街は、平穏といえば平穏だが多少地域によっては治安の悪さもある。 都会といえば都会だが、田舎といえば田舎といえてしまう簡素な街だった。 市街地を抜ければ山に囲まれていて、一方で海にも面し自然にも恵まれている 3人は比較的学区の重なった地域の交番を担当しており、特に子供に絡んだ事件事故が多い地域で有名だった。 三人の担当する交番まで、車で10分程。 市街地からもさほど遠くはないそこはちょうど小中学校の学区内である。 黒川衽警部補。 それが黒川の肩書きだった。 ブラウンの髪を帽子で押さえつけながら、外へと視線を向ければ、車窓にはちらほらと子供の姿が見える。 楽しげに談笑を楽しむ中に、どんな危険が潜んでいるのかなど、彼らはきっと考えもしないだろう。 しかし、警戒心ばかりで街に繰り出すなど、幼心には酷な話だ。 その分、目を見張り、危険を少なくするのが自分たちの務めだろうと、 黒川は垂れた目をスッと開き直した。 「今日は通学路の見回り増やしてもいいかなぁ。」 「なんか気になる事でもあったか?」 「うーん、今日は子供達の機嫌が良さそうだから。」 そんな会話もそこそこに曲がり角を曲がる。 何気ない風景、当たり前に鼓膜を揺らす雑踏、眩しく光る太陽。 それらの全てが、道を曲がっても尚その先に続いている。そう思って疑うことはない。 当たり前がどうして当たり前と呼ばれるのか、 それは繰り返しそこに存在しうる経験から得るものだ。 だからこそ、違和感は強く、そして突然だった。 「えっ?」 賤川の声が車内に落ちる。 車体が曲がってすぐだと言うのに、松川はブレーキを踏んだ。 体が硬直した感覚と共に、視線は滑るようにサイドミラーを見るが、後続車はおろか周囲に車自体が存在しない。 黒川が目視で後方を見る、シートベルトが目一杯引かれ軋む。 窓から外を確認するが、さっき話題になった子供達も、走行していた車も、通勤へ急ぐ大人の姿も、全てが視界に映らなかった。 「何が起きた?」という、松川の問いかけに誰も答えることはなかった。 しかし、黒川は返事の代わりのように 「まっちゃん車を脇に寄せて、所持品確認。周囲を見て回ろう。」と行動の指示を出す。 賤川も動揺しつつもそれに従って自身の所持品を確認し、止まった車から足を下ろした。 警部補であり、現状の指揮を取るのは自身であろうと黒川は気合を入れる。 とはいえ、異常事態であることは明白であり、単純に視界から入った情報を整理すると、自分達だけでどうにかできる状況でもないように感じる。 朝一、署で受け取ってきた銃はホルスターで静かに存在感を放っている。 警察手帳から警棒に至るまで、現段階不備はない。 何かあった時に〝ない〟では話にならないのだから、いつ何時でも持ち出せる状態にあるほうが良い。 しかし出来ることであれば、これらを使わないで済むに越した事もない。 黒川は横目に松川の所持品がぱっと見は揃っていることも確認し、車から降りた。 周囲は、静まりかえっていた。 人がいない。生き物の気配がしない。 時間すら止まっている気がした。 松川が所持品を確認し、車から鍵を引き抜く。 その瞬間、どこかいつもと違う違和感を感じて鍵をもう一度差し込んだ。 回す。エンジンはかからない。 何に、とはわからないが、してやられた感覚が残り、舌打ちを溢す。 車窓から確認すれば二人が周囲を警戒しており、松川はデジャブを感じながらも一人で息を呑んだ。 空を眺めて、それから大きく息を吐く。 黒川の隣に並んでエンジンが掛からないことを伝えると、黒川は目を見開いて松川から鍵を受け取る。 どんなに鍵を回してもエンジンは掛からない。 賤川も試すが、結果は変わらない。 あたりは変わらず静まりかえっている。 ふと、黒川がクラクションを押す。音は鳴らなかった。 「普通じゃないな。」 「そうだね、、」 「二人が冷静なのがかえって怖いですよ。」 賤川は淡々としている上司達に背を向けて、曲がってきた道を引き返すように歩き出した。 足の裏で感じるコンクリートの感触に違和感はない。 関節の動きや視界の鮮明さにも問題はない。 しかし、交差点の信号には光が灯っておらず、通行量の多い四車線では、どんなに目を凝らしても車を見つける事はできなかった。 見上げたお店の電光掲示板もなりを潜め、電気が通っているのかさえ怪しい。 事件が事故か、はたまた自然現象か、 そんな理論の成り立ったものでは到底説明できない現状が、眼前に広がっているのは確かだった。 動揺する思考に、ぐずついたものがすとんと落ちてきた。 不安感を煽られ、無意識に表情も歪む。 唯一、この空間で変わらず在り続けるのは、同じ車に乗ってきた3人だけなのか。 賤川が不安から後ろを振り返れば、ちょうど黒川が手を上げて彼を呼んでいた。 「姫ちゃん!ちょっと集合!」 聞き慣れた声に呼ばれ、どこか安心感を覚えながら急いで黒川の元へと向かう。 黒川も、賤川が帰ってくる様子を見ると少し微笑んで視線を別の物へ移した。 松川も歩道にしゃがみ込んで何かを見つめていた。 賤川が2人の後ろから覗き込めば、その見つめる先には三体の人形が落ちていた。 ポージングのモデルに使われるデッサン人形だ。 木製のそれは見た限り警官の服を着せられている。 一つは原型を保っているが、 一つは右腕が捥げ、 一つは左脚が焼けていた。 「うわっ、気味悪い。」 「たしかにな。だが、見るからになんか意味ありげだろ。どうする衽。」 「まっちゃんは車の無線通じるか調べて、姫ちゃんは周囲の警戒よろしく。俺は携帯でっ、、とぉー、、圏外。」 黒川が自身のスマホをポケットから引っ張り出すが、表示は圏外。仕事用に支給されている携帯も同様だった。 長年の警官としての経験からも逸脱した状況に、一瞬パニックになりそうだったが、自身の立場を思い出し、強気に指示を飛ばす。 松川も賤川も「了解。」とそれぞれに返事を返すと、テキパキと指示通りに動いた。 黒川は深呼吸をして置かれた人形に視線を向ける。 人形の中でもパッと見て外傷のない一つに触れるが、持ち上げた途端その異常さにはすぐに気づいた。 正面から見れば外傷はないが、その人形の背中側には大きな傷跡が複数ついており、服が裂けている。 「っ!」 一瞬、何かが頭を駆け抜けた気がした。 感覚にすれば何かを思い出したに近いが、果たしてそれがなんだったのか、全くわからなかった。 赤い。それだけが妙に頭にこびりついて離れない。 咄嗟に辺りを見渡せば、松川は無線機を試し、賤川は見回し警戒している。 なんら変化はない。 直感的な悪寒を感じながらも、人形を置き、賤川の方へ駆け寄る。 賤川は3人の中でもまだ若く、意外と不安を強く感じる傾向がある。 それは上司として把握している彼の特徴であり、現状心配な点でもあったのだ。 彼の表情はやはり冴えない。 だからこそ、黒川は賤川の方へ向かったのだ。 朝日に照らされて彼の黒髪に光の輪がかかる。靡いたそれは柔らかく揺れて、振り返り様その青い瞳が黒川に向いた。 「衽さんっ!!」 酷く表情が歪んだ。 それは強い恐怖を表していて、黒川は怒鳴るに近い声で呼ばれた事に一瞬動きを止めた。 それでも、大きく開かれた瞳と、その手が自身に向かって伸ばされていると理解するとまた一歩足を踏み出した。 距離5メートル弱。 走り出した賤川だったが、その手が黒川に届くことはなかった。 大きな影が黒川を飲み込む。 背後に何かが居るという恐怖感と、背中に走る激痛。 声にならず渇いた音が口からこぼれ、一歩だけ踏み出していた足から力が抜ける。 咄嗟に前傾した体を手で支え座り込めば、突如背中にじわりと熱が籠る。 それが痛みであると体が認識した時には、黒川の意識は堕ちていた。 真っ暗な視界の中、黒川が次に感じたのは鈍い痛みと硬い地面の感触だった。 しかし、力が入った指先に感じた質感の違いで、硬いが地面の上ではないような違和感を覚える。 「まっ、、ちゃ、ん?」 「っ!!起きたか!!」 目を薄くひらけば、見慣れた顔が深い皺を寄せている。 何かを必死に行なっていることはわかるが、回らない頭はそれが何をしているのかいまいち理解できなかった。 何か遮断されてしまっているような不思議な状態に、これは一種の危険信号なのでは?と背筋に思わず力が入り、鈍く痛みが走る。 あぁ、そうだ、何かに襲われたんだと頭が記憶をたどり始めると、じわじわと痛みは広がっていく。 「息はできるか?うつ伏せだからしんどいだろ。」 そう言われてやっと自分がうつ伏せになっていることに気がついた。 少し見える範囲を確認すると、いつもの表情よりずっと硬い顔の賤川が辺りを警戒しているのが見える。 周囲は真っ暗で人の気配はない。陽の下でないのは何故かと思案して気づく。 「ここ、、、どこ?」 「近くの工場だ。とにかく場所を移動する必要があった。よしっ!!止血はできたな、、、衽。痛みは?」 「い、、たい、、」 「だろうな。ゆっくり説明する。わからないなら分からないで良い。耳を傾けてくれ。」 松川は作業を終えると衽の顔を覗き込む。 ぼんやりとしているのは圧倒的に出血が多かったからだろう。 「さっき、お前は怪物に襲われた。 真っ黒な獣じみた体をしたやつ。爪が鋭くて、それでやられた。 俺が伊吹姫の声で顔を上げた時にはやられた後だったが、咄嗟に銃で撃ち抜いた。 痛みを感じている様子じゃなかったが、俺の方に気が逸れたから、そのまま伊吹姫がお前を回収。 俺で気を引きつつ、さっき撒いてきてここで合流した。」 じくじくとした痛みと松川の声で、ぼんやりと自分をおぶった賤川の顔を思い出す。 切羽詰まった表情で、不安と焦燥と、何かに嫌悪した悔しそうな顔が、傷とは違う場所を締め付ける。 「ひめ、ちゃんは?」 「ここにいます。起きましたか?」 口に出せば、賤川がそばに寄ってくる。 なんら平素と変わらない真顔が、今は少しだけ歪んでいる。 表情の乏しい子だと思っていたが、案外顔に出やすいのだなと、黒川は手を伸ばす。 その手を賤川が掴めば、少し冷えた互いの指先が、人肌に整えられていく気がした。 「あり、がと、、」 「俺は、別に、なにも、」 「嘘つけよ。 俺が合流するまでのお前の行動は、 冷静かつ、的確な行動だったぞ。」 「・・・今日は、やけに饒舌ですね。」 「お前は逆に皮肉にキレがねぇな?」 「ふはっ、、いてっ、ありがと二人とも」 場所はさっきの曲がり角から程近い工場。 おもちゃの部品を制作する下請けの会社のちょうど資材置き場に3人は居た。 そして3人以外は誰もいない。 傷の出血が止まり、徐々に痛みも落ち着きを見せてきた頃、3人は現状について議論を始めた。 黒川はうつ伏せのまま、目を閉じて体力を温存しつつ口だけを動かしており、二人もそれに合わせて話を進めていく。 「まっちゃんは、一人行動禁止。危なすぎる。」 「仕方ないだろ?あの時はあーするしかなかったんだ。」 「俺は衽さんに賛成です。 仕方なかったにしても、これから先は一人行動は避けるべきです。」 「わかったよ。・・そうだ、通信機器は見た限りダメだった。ここに来るまでに周囲の建物も一通り見て回ったが、電気そのものが来てない様子だ。水道は通ってる。」 「ライフラインが使えると思うと危険という事ですね。」 松川はここに来るまでのことを思い出す。 自分を危険と判断したらしい怪物に追われながら、狭い路地、フェンスや柵の障害物を利用して撹乱しながら距離を空け、どうにか撒いた時には元いた場所から数百メートル離れていた。 しかし、自分たちが乗っていた車以外には乗り物らしいものは見当たらず、どこの看板も光を灯していない。 その瞳に映る光が、いつもよりも少ない事はどこまでも不安を煽った。 逃げ出す瞬間咄嗟に「おもちゃ工場」と叫んだのが、果たして伊吹姫に聞こえたろうか、アイツは耳がいいからきっと大丈夫。 そう必死に自分を奮い立たせながら指定したおもちゃ工場へと足を運んだ。 「衽さんの怪我ですけど、出血量は酷いですが、傷自体は深くはないです。浅く広く抉られたって感じです。」 「うげぇ、どっちにしてもちょっとバタバタ動ける状態じゃあないかなぁ」 「無理しないでくださいね。そうだ、あの怪物ですけど、一つ気になることが、、」 そう言って二人の視線を集めると、賤川は少し俯いて話し出した。 目に浮かぶのは黒川が襲われる瞬間の事だった。 あの時、黒川に視線を向け、その背後に黒川の身長以上に伸びる影が見えた。 ほぼ真後ろにそれは突然現れたのだ。 振り上げられた大きな手が、黒川に向かって振り下ろされると分かって初めて、賤川の声帯は揺れた。 しかし、いくら空気を揺らした音が届いたとて、それもまた空気である事に変わり無い。 無力な自分を悔やむ時間などないと頭では分かっているが、自然と表情は歪んでいく。 「あいつは衽さんの影から現れた。」 絞り出したような声は、非現実的なそれをどこか認めたくないようだった。
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