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大学を卒業して一年が過ぎた頃、宙が『仕事で帰れない』とメールをくれた翌朝に、知らないシャンプーの匂いを纏わせて帰宅したのは片手で数えられる程ではなかったが、それを問い詰めるつもりは本当はなかった。
窓辺に貼ってある宙の笑顔。その隣には、ぎこちなく笑う私がいる。金木犀の香りも去り、粉雪が舞い降ることもある寒い季節の中、宙はどこで何をしているのだろう。
『星奈、次の週末はどこへ行こうか?』
宙から無邪気に言われて、本当は嬉しいのにどこか素直になれない私は、まるで『どこでもいいわよ』と言わんばかりの素っ気ない態度を取ってばかりだった。
思い返せば宙にはさぞ負担になっていたことだろう。声を出せない私の代わりに、全ての選択を彼に委ねていたのだから。
それでも休日になると、宙は車で私を未だ見ぬ場所へと連れ出してくれていた。
口にはできなかったけれど、私はそれが嬉しかった。
旅先で流れる穏やかな時間は、幼い頃の辛い記憶を和らげてくれる。
そんな時間を、私は密かに楽しみにしていたのだと思う。
宙と別れてから、何度目か分からない退屈な週末。
午後の日差しで目が覚めて、冷蔵庫から水を取り出してグラスへと注ぐ。
陽に誘われるように窓を開けてそのまま頬杖をつくと、秋の風がわたしの長く伸びた髪を優しく撫でてくれた。
真下に広がる公園の木で羽根を休める鳥達が、その歌声を聞かせている。
まだ宙と暮らしていたのなら、ふたりで出掛けない休日のこの時間は、彼が淹れてくれるドリップコーヒーを飲んでいたはずだ。コーヒーは誰かに淹れてもらって初めて本当の味を引き出せると言ったのは、宙だった。私は宙と別れて以来コーヒーを口にしてない。
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