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 岩肌を剝き出しにした壁の麓に、私は立っていた。腕時計を確認すると、時刻は午前十一時三十分。風はない。上を見ると、雲一つない青空が広がっていた。私より高い場所には、岩と空気しかない。高度は二千メートルほど。後ろを振り返ると、急斜面な岩場が数キロほど続き、そこからは、緑色の樹木の絨毯が地平線まで覆っていた。  私は、カメラを調整すると、レンズの前で手を振った。「見えてる?」とマイクに向かって尋ねると、携帯端末に「YES」の文字が幾つか表示された。カメラをヘルメットに装着する。マイクを口元にセットした。道具の確認。ハーネスよし、カラビナよし、ビレイよし、ロープよし、チョークよし、アッセンダーよし、カムよし、ハーケンよし……。ヘルメットを被ると、私は「登攀(とうはん)開始」と呟いた。  ふう、と口を窄めて息を吹き出す。  岩壁を眺めて、いくつかルートを想像した。  右手を伸ばし、窪みに指を差し込む。  続いて左手。  腰のあたりにある突起に手を置いた。  右脚を持ち上げ、爪先を亀裂に潜り込ませる。  左足の居場所を探すのに手間取った。  妥協して、斜面となっている場所に左足を置く。  バランスが悪いので、さっさと次の体勢へと移りたい。  両手に渾身の力を籠める。  体を壁に引き寄せて、  一瞬で左足を窪みへ。  役立たずの右脚を持ち上げ、  なんとか安全地帯へと誘導した。  いったん、岩壁を観察する。  このまま進んでも大丈夫なのか。  いくつか体勢的に難しそうなポイントがあった。  しかし、まったく不可能というわけでもない。  (とりあえず、もう少し登ろう)  右手を伸ばして、僅かな突起を掴んだ。あまり体重をかけたくない。  左足を大きな窪みへと導く。右足も入りそうだ。  手頃な段差があったため、そこに左手を置く。  両手に力を入れて、息を止め、右足を窪みへと挿入した。  「ふぅ」  後ろを振り向くと、二メートルほど下に地面があった。  これでも、運が悪ければちゃんと死ねる高さである。  体に緊張が走った。  高低差を意識したことで、危機感が芽生えたのだ。  怖い。  そう、怖いんだ。  それでいい。  勇猛果敢な奴は、この世界で長生きできない。  少しだけ汗をかいてきた。  右手を腰のチョークバッグへ突っ込み、粉をつける。  左手も。  壁を見上げて、ルートを考える。  左から回り込むか、真っすぐ登るか。  足が震えていた。  早く安全を確保したい。  私はカムを取り出した。  岩の隙間にセットし、拡張する。  カムを握り上下左右へ力を入れて、すっぽ抜けないか確認したのち、ロープで腰のハーネスと接続した。  「ふぅ……」  頭から汗が垂れてきた。  手首につけたリスクバンドで拭う。  チョークバッグへ右手を突っ込んだ。  右手を伸ばし、岩を掴む。  腕は汗で濡れている。  少し進んで、直進するルートは不可能だと判断した。  左へ迂回しよう。  あまりカムに負荷をかけたくない。  左足をそっと下へおろす。  足場が見えない。  慎重に探る。  結局、爪先だけが引っかかる突起で妥協することにした。  「怖い!」私は大声で笑う。「はぁ、あは! こええ!」  左足の爪先に体重をかけ、周囲を見渡す。  体勢的に、ハーケンを打ち込むのは不可能だった。  周囲にカムを突っ込める隙間もない。  下を見ると、とうてい足が届かない位置に地面があった。  足の裏を撫でられるような感覚。  私は、肺がいっぱいになるまで息を吸い、吐いた。  邪魔になるので、保険として挟んでおいたカムのロックを解除する。  完全な無防備状態。  滑落すれば、最低でも怪我はする。  亀裂に滑り込ませた手に力が入った。  重い。  なんて重いんだ、私は。  これが、命の重さだ。  左脚を横へ伸ばして、踵を突起に引っかけた。  腰を伸ばし、右膝を曲げる。  恐ろしくて、足が震えていた。  「クライマーは自殺志願者だって、そう言っている奴が沢山いる」私は呟いた。「でも、どうかな。こんなにも、死にたくないようって、足が怯えているし、呼吸はしづらいし、……頭の中は、助かりたいって気持ちで一杯なんだ」  一度深呼吸をしてから、私は右足で足場を蹴った。  同時に、左足の踵を引き寄せる。  一瞬の浮遊感。  必死に両手を伸ばす。  なんとか、窪みを掴んだ。  ほっと一息。  途端に汗が噴き出した。  拭うために、左手を窪みから離した瞬間、  左足が突起から外れた。  反射的に、左手を伸ばす。  ギリギリで窪みを掴めた。  手が熱い。  確認したが、怪我はしていなかった。  耳鳴りがしている。  息苦しい。  上を見ると、ゴツゴツとした岩肌がずっと遠くまで続いていた。左右は、それぞれ五メートルほどの幅がある。すぐに休めそうな場所は、ここからだと見つからなかった。このまま頂上までノンストップ? それは無理だ。どこかで、一度リラックスして休憩しなければ、とても持たない。  とにかく、登ろう。  息を吐いて、登攀(とうはん)を再開する。  腰のチョークバッグに左右の手を交互に突っ込み、余分な粉を払った。  右手を伸ばし、岩を掴む。  左脚を持ち上げたが、滑りそうな足場だったため、一度戻す。  右足を窪みに差し込んだ。  そうだ、さきに右足だ。  よく気付いた。  右足で踏ん張りつつ、左足を腰の近くにある凸に置く。  左腕が窮屈になってきたので、適当なところへ逃がす。  クライミングは、基本、安全のため常に四肢のうちの三つが確保されていなければならない。  もちろん、この原則に縛られすぎるのは危険である。状況によって、最善策は異なる。重要なのは、その場その場で最も合理的な登り方を見つけることだ。  カムを取り出して、岩の間で拡張した。  力を加えて、すっぽ抜けないか確認する。  カムとハーネスをロープで繋げてから、右手を伸ばした。  しっかりと岩を掴み、体を引き寄せる。  その勢いを利用して、脚を持ち上げる。  足場を三回ほど踏みつけて、崩れないか確認。  近くにカムを使えるポイントがなかったため、ハーケンを取り出した。  岩の亀裂にハーケンをあてがい、ハンマーで叩く。  ロープでハーケンとハーネスを接続してから、遠隔操作でカムを萎ませて回収する。  気が付くと、私は歌っていた。  口ずさみながら、手を動かす。  目に汗が入ったので、一時停止。  リストバンドで顔を拭い、手をチョークバッグへと突っ込んだ。  ようやく休憩できそうなポイントに到着したので、私はそこに座った。
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