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とある女優の奮闘
道すがら、ランバートは彼女の所在を知った。名はアリアナ。あの界隈にあるオペラ劇場所属のソプラノ歌手なのだそうだ。
屋敷に連れていくと目をまん丸くし、二人がこの屋敷の主人だと知ると更に驚いた顔をした。
リビングの椅子に座らせ、ナイジェルに薬箱を持ってくるように言っている間にファウストが桶とぬるま湯とガーゼを持ってきてくれる。それで丁寧に傷を洗って診たが、縫うほどの傷ではなさそうだった。
「派手に血は出たみたいだけれど、傷自体は深くないね。消毒して薬を塗って少し様子を見よう。腫れたりしなければ大丈夫だと思う」
「丁寧に有り難う。手際がいいのね」
「慣れかな」
アルコールで消毒をすると流石に痛そうな顔をしたが、それでも声は上げない。アリアナはふっと息を吐いた。
「ところで、さっきの奴らはなんだ? 借金のカタがどうのと言っていたが」
厳しい様子で問うファウストに、アリアナは視線を床へと向ける。ぎゅっと一瞬強く握られた手が震えていた。
「劇場が立ちゆかないって、オーナーは言うわ。でもだからって、所属の女の子達を無理矢理金持ちの家に嫁に出すなんてやっていいことじゃないもの!」
「当然だよ」
傷に薬を丁寧に塗り、ガーゼを当てて包帯をしながらランバートは肯定する。それにファウストも頷いた。
「人身売買は国の大罪だ。お前の言うことはそこに抵触する」
「結婚は当人達の意志がないといけない。見合いだなんだはあっても、合意が必要だ」
「……あの子達は納得なんてしてない。でも、色んな事があって合意させられてるみたい。紹介したってことでオーナーは金持ちから大金をもらってるのに、それでも劇場が立ちゆかないなんてそんなの嘘。それに私、お付き合いしている方がいるのに」
どうやら少し面倒な事が起こっているようだ。ファウストに視線を向けると黙って頷いた。
「詳しく聞かせてくれるかな?」
「でも」
「大丈夫、力になるから」
戸惑うアリアナだったが、それでも頷いてくれた。
「事の起こりは半年くらい前にオーナーが変わった所から。資金繰りに失敗したとか、なんとか。それで今のオーナーに変わったら、どんどんおかしくなっていったわ。小さな劇場だけどそれなりに人も入っていたし、まともなオペラをしていたのに突然、ストリップみたいな事をさせたり嫌らしいシナリオを持ってきたり。そのせいで客が遠のいたの」
たまにそういう奴もいるらしい。女の子が多い劇場で、性を売り物にするやり方だ。元々そういう店として営業しているならいい。女の子も分かって働いている。だがまっとうな劇場を装ってそのようなサービスをさせるのは明らかに違法。何故なら劇場と風俗とでは届が違い、営業形態が違い、税金が違うのだ。
「元のまっとうな方向に戻そうと訴えた従業員は次々解雇されて、それでも女の子達は頑張ったけれど客足は更に減るし。そうしたら今度、働いてる女の子達をよくない噂のある貴族に紹介し始めたの。女の子達は嫌がったけれど数日して嫁ぐとか、愛人とか、色々……でも納得なんてしてなかったわ!」
「弱みを握ったか、無理矢理何かをして脅したか。そんな所かもしれないね」
「私もそう思う。でも自分たちで署名してるから」
自分の手で書類に記入するとそこに当人の合意があると認識される。その背景まで役所は考慮しないものだ。ただそこに、本当に合意する意志があったのか。それは大いに疑問だ。
「連絡取れるの?」
「いいえ」
「嫁いだ先は分かるのか?」
「それは分かるわ。全員よくない噂のある金持ちばかり。六十代の後妻や愛人なんてやりたいわけないじゃない」
見るに彼女も二十代、流石に年齢差がありすぎる。それでも当人達が愛し合っての事ならいいのだが、どうもそうではないのだ。
「騎士団には訴えたか?」
「いいえ。でも私は伝えたわ! 調べてくれるって言っていたけれど、証拠が出にくいみたいで」
「だろうね。内部に潜り込んで調査しないと実態は掴めない。そんなの、一般の隊員じゃ無理だし」
「暗府が得意だが、この砦にそうした奴はいない。表側からまっとうにやろうとしても行き詰まる」
おそらくラウルがいればあっという間に証拠が揃うだろう。だがそれでは間に合わないかもしれない。
「だが一度、レスターを呼んで状況を聞く必要がありそうだ」
「レスター様を知っていますの?」
ファウストの呟きにアリアナがパッと顔を上げる。それにファウストは疑問そうにしながらも頷く。ランバートだけが首を傾げた。
「誰?」
「アプリーブ砦の首座だ。レスター・クレネルという」
「クレネルって……」
随分と聞き覚えがある。
ファウストも苦笑しながら頷いた。
「アシュレーの兄だ」
「やっぱり」
そうなると、アシュレーを相手にするのと同じ感覚でいたほうがいいだろうか。
何にしても結局はのんびり新婚旅行だけで終わらなそうだ。ファウストと顔を見合わせ、同時に溜息をつくシウスも思い浮かべ、ランバートは笑うしかなかった。
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