街灯に雨水

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 ぶるぶると唇を震わせながら吐き出した息は白く濁っていて、肌を裂くような寒さはぴったりと私の体を包み込んで、逃がしてくれそうにない。私は息を吐く。寒さは、爪や歯、髪といった、私の一部であるけれど、生きていない部分を特に冷やしてくる。そうした部分は自発的に暖かくなることができなくて、寂しそうに震えて、生から切り離された孤独を耐えねばならない。私は自分の体に張り付いた孤独を抱きしめるように、手を祈るように合わせ、口を堅く閉じ、ニット帽を深くかぶる。その姿勢は、人類が崇め奉ってきた何かに願いを捧げているように見えたかもしれなかった。  夏には多くのトウモロコシを茂らせていた畑、今はただ虚しい白い平面である畑の隣に沿った畦道を、私は歩いている。街燈が、時折思い出したように建てられているだけの、寂しい道。そこを、歩いているのだ。  家から、どのくらい歩いただろうか。私はこのとき、時間の感覚というものをすっかり失ってしまっていた。というのも、私を取り巻く環境がそうさせているのだ。日はすっかり落ちて、町の街燈はポツリ、ポツリとその橙色を灯している。だが、街燈の光をかき消すように、天空高く上がった青白い大きな月が、薄雲の背後から淡い月光を地上に降り注いでくる。私は、私の後ろに延びる大きな影法師が無言で私を見つめていると思った。  夜って、こんなに明るくていいのだったっけ。それは疑問ではなく、強い戸惑いを秘めた否定だった。これでは、亡霊たちは昼だと勘違いして草木の裏に隠れてしまうし、夜に生きる動物たちはいつまでも眠りに落ちたままだ。かといって、昼に生きていた者たちは太陽が沈んだという一つの理由に基づいて、眠りこけてしまうに違いない。今日は、はっきり言って異常だ。たぶん、こんな夜は、きっとこれから先、もう地球上には訪れないんだろう。  ふわり、ふわりと雪が道路に舞い落ちて、すでに私の足首ほど積もっている雪の上に重なっていく。この夜が、ずっと終わらずに続いていけば、私はゆっくりとこの粉雪に埋もれていって、やがては冷たい雪の中で化石になってしまうだろう。雪が融けてしまわない限り、私は永遠の中で眠り続ける。それってなんて儚い永遠なんだろう。  普段聞こえている車の走行音や、民家から聞こえる話し声、風の音、私の心臓の音……そういうものは全部雪が吸い込んでしまって、私の鼓膜は一切震えない。足音すら、今や聞こえてこない。もしかして、ここは月の上なのかもしれない。私は雲間からひょっこりと顔を出した青白い、丸い月を眺めた。月には染みのような黒い影が浮かび上がっているだけで、到底ウサギがいるようには考えられなかった。  ……それからしばらく歩くと、街燈の下に置かれている二人用の木製のベンチが見えてきた。ベンチには眠そうなクマが、こうもり傘を杖代わりにして一人で、正確には一匹で、より正確には一頭で、腰を下ろして、うとうとしていた。私は遠慮しながら見知らぬクマの隣にちょこんと座る。不思議とベンチには雪が積もっていなくて、私が腰を下ろしてもお尻が冷たくなることはなかった。私の存在に気が付いたのか、とろとろと舟を漕いでいたクマは依然眠そうにしながら私に話しかけてきた。 「何故、雪が積もっていないか、不思議に思ったんじゃないですか」  図星だった私は、驚きの表情を隠せないままこくこくとうなずいた。するとクマはふんと鼻を鳴らした。 「なあに、簡単なことです。僕が今まで二人分のスペースを使って眠りこけていて、今しがた起きたばかりだからなんです」  そう言ってクマは話し続ける。なるほど、クマは寝ていないから眠いのではなく、眠りの残滓を引きずっているだけなのだ。クマは欠伸を噛み殺し、むにゅむにゅと口を動かす。 「しかしまあ、なんてへんてこりんな日なんでしょう。こんなに明るいのに夜だなんて。おかげで、眠ればいいのか、起きればいいのか、さっぱりわからくて、一時間ごとに起きては寝てを繰り返す羽目になってしまった。いてて。こりゃ肩こりが酷いな」  そう言ってクマは肩をぐるりと回すと、関節がパキパキと鳴る。クマは「冬眠用! 無駄遣い厳禁!」と書かれた缶に入ったクルミを次々に口に運んでいく。 「それ、食べちゃっていいの? 冬眠用なんでしょ」  私の言葉にクマは眉毛をピクリと動かし、私に顔を近づけて答える。 「私も半信半疑なんですけどね。物知りの狐が言っていたんですよ、もう冬眠の為の食料は必要ないんだ、と」 「どうして?」  私は自分の手に息を吹きかける。 「なんでも、もうじき、雪はなくなるらしいです」  その時だった。ひゅうと生温かい、勢いの良い風が私たちの間を吹き抜ける。その意外にも力強い風に、少し私は怯んだ。私はニット帽が飛ばされないように強く頭を押さえ、クマはしっかりと缶を抱きかかえる。 「こりゃたまらん!」  クマは叫ぶ。風は降り積もった雪を吹き飛ばし、飛ばされた雪は花弁のように空に舞い上がって、いつしか見えなくなった。そのうち風は吹き止み、私たちはそろそろと顔を上げる。すると「あ」とクマは呟く。 「雨だ」  私が歩いて来た方向を見ると、街燈に照らされた場所だけ、白い雨粒が壁のように見える。その雨の壁は徐々に、しかし確実にこちらに近づいてきていて、やがて私たちの頭の上に辿り着く。生ぬるく、優しい雨だった。私は全身が濡れていくのを心地よく受け入れていた。クマはいそいそと、持っていたこうもり傘を開く。 「いやあ、僕も雨と戯れたいところなんですが、ほら、ご覧のとおり僕はふさふさの毛皮のコートしか着るものを持っていなくてね。水に濡れると臭ってしまうことが多々あるんですよ。僕にとって傘は必需品なんです。うーん、でも、あなたが濡れるのを黙ってみているというのも忍びない。どれ、相合傘でもしましょうか。私の右半身が臭くなってしまうが、仕方ない」  御託を並べるクマは傘を私に差し出してくれたが、私は別に濡れても臭くはならないから、クマが使ってくれ、と言った。クマは、そんなら、と言って堂々と自分の傘を自分の為だけに使った。クマのお尻は傘が守ってくれる範囲を超えていたので、しっとりと濡れていた。  水たまりには、昇ったばかりの、みずみずしく洋々たる朝陽が反射し、二人を照らし出す。 「冬が、いなくなっちゃいましたね」  クマが少し伸びをしながら言った。 「春が来ただけだよ」  私は答えた。桜の花びらも、蕗の薹(ふきのとう)も、虫たちも、今は何もいない。けれど、いずれ生まれてくるそれら全てを含む、生まれたての春の息吹を、私は全身で感じていた。  雨はどうやら、しばらくは止まなそうだ。
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