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10分後、澪は震えるこぶしを握り締めながら、二度と来ないと誓ったはずだった『Wine Bar FuGun』の前に再び立っていた。
家に帰る前にコンビニに寄った時、気づいてしまったのだ。
電子マネー等の決済用カードが入ったカードケースがカバンの中にない……。これがないことは澪にとっては致命的なのだ。
昨夜自分を囲んでいたという男らに盗まれたのか、はたまたあの部屋に落としてきたのか。たぶん後者だと何となく思っている。
慌てて部屋を出たため、派手に散らかしたカバンの中身を全部は拾えなかったのだろう。
よりによってカードケースを拾い忘れるとは……。
勢いよく飛び出してきたゆえの、戻る恥ずかしさがこの上ない。しかし背に腹は代えられない。
澪は店に戻って外階段を昇ってチャイムを鳴らした。
すると、なぜか妙に早くガチャッとドアが開いた。
「ああ、おかえり」
当たり前のように男性にそう言われて、澪は余計に恥ずかしさが増して俯く。
「あ、あの……私、カードケースを――」
刹那、言葉を遮るようにグゥゥ~と澪のお腹が鳴った。なんて小っ恥ずかしいタイミングだろう。
しかしこれは致し方ないと言える。朝食をとっていないし、しかも部屋の中からいい匂いがしてくるのだ。
澪が羞恥に震えながら顔を真っ赤にすると、男性はクククと笑った。
「腹が減ってるのはいいことだ。なぁ、とりあえず朝飯食ってかないか?」
「えっ!? で、でも……」
「心配するな。一晩一緒にいて何もしなかったんだから、今更襲ったりしない。ドアの鍵も開けておく。逃げたければいつでも逃げろ」
いい匂いに吸い込まれそうなチョロい自分は、どれだけ空腹なのだろう。
警戒しつつも、男性に導かれて再び部屋の中へ戻った。
一言で『1LDK』と呼ぶにはかなり広いこの部屋には、ソファやベッドがある以外は物が少なめだ。
その中で目立つのがキッチンに面して設置されているカウンターテーブルだ。バーチェアがあって、まるでお店のように見える。
カウンターの奥にあるキッチンに立つ男性は手際よく朝食を準備している様子だ。
「そこに座れ。食えないものはあるか?」
「い、いいえ」
「コーヒーは飲めるか?」
「は、はい」
おずおずと答えながら指定されたバーチェアに座ると、コーヒーカップが目の前にカタンと置かれ、暫くすると朝食が並んだ。
「好きなだけ食え」
「はい……」
パンにサラダ、コーヒー、チーズをのせて焼いた厚切りのハム、それにブルーベリージャムの乗ったヨーグルト。思いの外おしゃれで美味しそうな朝食に驚く。
遠慮する気持ちがないわけではないが、「いただきます」と声をかけて食べ始めた。
「二日酔いは?」
「あ、まあ……ちょっと頭が痛いくらいです」
「薬いるか?」
「い、いいえ、大丈夫です」
「そうか」
何だこの妙に親切な人は。
2人で並んで静かに朝食を摂るなんて、よく考えたらとてもおかしな光景だ、と澪は我に返る。
名前すらわからない人に体調の心配をされ、朝食を用意してもらい、至れり尽くせりで一緒に食事をしているのだから。
「あ……あの……」
「ん?」
「お名前伺ってもよろしいですか?」
「ああ。久我源臣(くが・もとおみ)。君は?」
「私は……葉月 澪(はづき・れい)です」
「『れい』ってどんな字?」
「さんずいに、雨と――」
「ああ、『みお』とも読む漢字か。いい名前だな」
名前を褒められただけなのに嬉しくて少し照れた。照れ隠しに無言でパンを食べ進める。もっちりしていて少し変わっているが美味しいパンだ。
「久我さんは何をしてる人ですか?」
「ワインバーの経営。ソムリエ」
「あぁ、下のお店の……」
「そう。あとはまぁ……色々。君は大学生だったな」
『色々』の部分が気になりながらも、澪はモソモソと答える。
「はい。明城大学心理学部2年です」
「へぇ。明城なら賢いんじゃないか」
「……そうでもありません」
「謙遜?」
「いいえ……何ができるわけでもありませんから」
ちょっと壁を作って答えると、久我はフッと笑ってそれ以上聞いてこなかった。
話しているうちに食が進み、あっという間に完食した。相当空腹だったらしい自分に唖然としていると――
「ああ、そうだ」
久我は一度席を立って部屋の端へ向かい、折り返して目の前に立つ。
「戻ってきた理由、これだろう?」
手にしていたのはカードケースだった。
「あぁ、よかった。やっぱりここにあったんだ。ありがとうございます」
「ああ。それと、ペンも1本落ちてたぞ」
「す、すみません……」
久我はカードケースとペンを澪に向かって差し出す。すると澪は一度手を伸ばそうとしたが、慌てて引っ込めた。
「あの……テーブルに置いてもらっていいですか?」
「ああ、そうだったな。お前『男性アレルギー』だもんな」
そう言ってカードケースとペンをテーブルに置く久我に、澪は目を見開いて問いかける。
「どうしてそれを……?」
「覚えてないのか。昨晩、お前が話してくれたんだ。『私は男の人に触れない』ってな」
久我は昨夜のことを話し始めた。
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