千年桜

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 朝露に濡れる木漏れ日の中を、日向子(ひなこ)は歩いていた。  父の転勤の都合で、数日前に引っ越したばかりのこの土地は、家にいても、小学校にいても、落ち着かない。どこにも自分の居場所がないようで、暗くざわざわとした心地になっていた。そんな時、日向子の心を引き付けたのは、近所にあったこの森林公園だった。  五月の新緑で若緑色に染まった葉が陽光に透けて美しく、歩いていると、爽やかな気持ちになった。  学校に行く前に、まだお父さんも、お母さんも眠っている朝焼けの時間を、こっそり家を一人抜け出して、この森林の中を歩いてみたい、と思いたち、日向子は足取り軽く森の中を歩いていた。  ふと気が付くと、周りの木々がどれも同じように見え、帰り道がわからない。日向子は戸惑い、汗を流しながら走っていた。  昨日雨が降ったからか、足元の地面はぬかるんでいて泥が跳ね、彼女の桜色のシューズと、紺色の短パンから剥き出しになっている、白く滑らかなふくらはぎや脛を汚していく。  さっきまで普通に歩いていた森が、突然に怖くなり、泣きたいような気持になってくる。 薄い水色のTシャツから出ている両腕で、自分の体を抱きしめて、辿るようにゆっくりと突き進んでいく。  息を切らしながら辺りを見回すと、草陰から無数の光が漏れている個所があることに気づいた。蛍のように、ぽつ、ぽつ、と儚げに飛び交う小さな光の粒子。黄色と白を水彩で混ぜたようなその光を引き寄せられるように見つめ、歩いて行った。  草の群れを小さな手で掻き分け、光の根源へ引き寄せられていく。  茫とした眼差しで、少し俯き、ぬかるんだ地を見ていた日向子は、行き止まりに差し掛かると、夢から覚めたように、瞠目して顔を上げた。 日向子の目の前に大樹が聳え立っていた。  その大樹の枝と溢れるばかりの葉が、天を覆い、あたりは真っ暗になっている。 時折葉の隙間から溢れる日の光が、ちら、ちら、と日向子の顔を照らす。  生まれてから何年になるのだろう。木肌はすでにごつごつと岩のように固く、くすんでいる。手を伸ばし、黒い幹に恐る恐る指先で触れてみる。少し湿っていたが、ざらざらとしたその幹の感触は、何故だか日向子の心を落ち着かせた。  両手を広げ、抱くように幹に手を回した。頬をつけ、瞳を閉じると、この土地に来てから初めて感じた、生まれた場所に帰ってきたような不思議な心地になった。 日向子の乾いた心に、柔らかな春のそよ風が吹いたようだった。懐かしさで、自然と(まなじり)から涙が溢れる。 雫となって、彼女の薄桃色の頬を流れ落ちたその涙は、湿った大地から小さな丘のようにこんもりと浮き出ている樹の太い根の上に落ちた。  すると、暑いところに置かれた氷が蒸発するように、地面から天へ向かって、蛍火が、いくつもいくつも昇っていき、あたりは無数の光に眩いばかりに包まれた。  日向子は驚き、樹の幹に背中をぴったりとくっつけ、その様子を見ていた。  光の氾濫が収まると、日向子の目の前に白い水干(すいかん)を着て、(からす)の濡れ羽色の長い髪を、藍色の組紐(くみひも)で一つに束ねた者が現れた。 伏せていた面を上げると、長い前髪がふわりと左右に分かれ、陶器のような白い面があらわになる。 切長で、黒に刷毛で青を薄く薄く幾重も重ねたような夜色の瞳で真っ直ぐに日向子を見る。 日向子は吸い込まれそうになってたじろいだが、両拳を握りしめ、己を取り戻した。 「お前は誰だ。ここに何をしに来た」  問いかける清らかな声は、鈴が輪唱するような不思議な響きをしていたが、女のものではなく、男のものだった。  見た目の儚げな美しさから、日向子は初見で女性と勘違いしてしまっていて、唇を噛んで動揺を悟られぬようにした。 「わたし、日向子といいます。引っ越したばかりでどこにもわたしの居場所を感じなくなっていた時に、この豊かな森に心が惹かれて歩いていたら、帰り道が分からなくなってしまって……。困っていたら、この樹にたどり着いて」  不安からか、日向子の声は、か細くなっていた。ただでさえ普段から小さな声なのに、と自分で自分が嫌になる。 彼女は自分の声が好きではなかった。自信がなく、人からおどおどしていると評される。人と話すことは嫌いだった。見下されるだけだったからだ。  小春丸はひとつだけ瞬きをすると、凛とした表情のまま彼女をじっと見つめる。 彼の顔からは、何の感情も感じ取れなかった。もともとポーカーフェイスなのかもしれない。ただ純粋な好奇心だけが、うっすらと見えるだけである。  そして、ほんのり桜色に染まっている薄い唇を開いた。 「千年の昔、そなたのように宮中を抜け出し、私に引き寄せられた少女がいた。その子は病で死んでしまったが、もしや、そなたがあの子の生まれ変わりなのかもしれぬな」  千年前? 少年の言葉を理解するのに時間がかかり、日向子は戸惑って小首を傾げる。肩の上で揃えたボブの黒髪が、しゃらり、と揺れた。 「私はこの樹の精神、とでも言えばよいか。千年の昔からここに根を張り続け、世を見送ってきた」  少年は日向子の横に立ち、大樹の幹に手を当て、撫でる。  その様子を日向子は瞬きをしながら不思議そうに見つめていた。  少年は日向子の方を向いた。彼の束ねた長い黒髪が流水のように揺れる。その顔には、先ほどと違い、柔らかい春の日差しのような笑顔が浮かんでいた。 「そなた、また寂しくなったら私の元へ来るがよい。話し相手になってやろうぞ。我が名は小春丸(こはるまる)という」 「小春丸……」  日向子が確かめるように彼の名前を口にする。先程の不安定さとは違い、しっかりとした粒のある声だった。  小春丸はほんのり驚き、そして嬉しそうに瞳を輝かせた。彼の中の夜空に、青い星が照っているようだった。  その日からというもの、時間がある時はいつも森林の中にいる小春丸に会いに行くのが、日向子の日課となっていた。  家であったこと、学校であったことなど、誰にも打ち明けられない思いを小春丸は静かに聞いてくれ、ぽつ、ぽつ、と言葉を返して励ましてくれた。彼と話しているときが、日向子にとって一番楽しく生きている実感を持つことが出来た。  小春丸と話しているときに、ふと日向子はそういえばこの大樹は何の木なのだろう? という疑問が浮かんだ。  翌年の春になった。 あたりが柔らかく暖かな空気に包まれ、メジロは歌い、菜の花は金色に輝いた。 その日も日向子は小春丸に会いに森林を訪れた。森と同じ、深緑色のカーディガンを、蒲公英色の麻のワンピースの上に羽織った服装で、背には金の釦が装飾のようについた、赤紫色のリュックを背負っていた。  リュックの中には、家族よりも早起きして作った弁当が入っている。ピスタチオカラーの弁当箱には、梅とおかかのおにぎりが2つと、鶏胸肉の味噌焼き、甘い卵焼き、そして瑞々しいプチトマトとレタス、ブロッコリーが詰められている。幼いが、手先が器用で、料理が得意なのだ。昼になったら、大樹の根に座って、食べようと考えていた。 小春丸と、春の森林の美さについてでも話しながら。  いつものように草陰を抜け、顔を上げると、日向子は驚いて目を見開き、息が止まった。  大樹が、小春丸が、黒い幹の上に、薄紅色の満開の桜の花を咲かせている。 そして、小春丸はその周りで両手を広げ、笑顔で駆け回っている。口を大きく開け、白く煌めく歯を見せて、踊るようにくるくると廻る彼の姿からは、生命力が溢れていた。 小春丸が風を切り走ったところから、桜の花弁が舞っていく。  日向子はその光景を見て、しばらく呆然としていたが、自分の頬を流れる熱いものに気づき、細い指先で触れる。それは涙であった。 いつの間にか、彼女は感動して泣いていた。 「あなた、桜だったのね」    微笑み、瞼を2、3度瞬くと、小春丸は彼女に気づいた。こちらを向いて、微笑んだその顔は、美しかった。 溢れる桜の花弁の海に、蜃気楼のように溶けては現れる。  花霞む森の中で、大樹は、本来の姿を命いっぱいに咲かせていた。 やがて、日々は流れ、日向子は十六歳の高校生になっていた。 小学生の時に慣れなかったこの土地にも愛着が沸き、友達も多くできた。放課後も毎日部活動で充実した日々を過ごしていた。  小春丸に会いに行く回数は次第に減っていった。  日向子に初めて、好きな男の子が出来た。その男の子は同じ高校の、違うクラスの人だった。図書委員の活動がきっかけで知り合った。成績優秀で、誰に対しても平等に優しい少年だった。夏季(なつき)といった。 日向子はどうしても夏季を小春丸に会わたいと思っていた。そして三人で仲良く過ごせたらどんなに楽しいだろうと考え、ある日の放課後、夏季を誘って森林に向かった。   「小春丸、私の友達を連れてきたの。夏季くんというのよ。彼とも友達になってほしいの」  日向子は桜の大樹に向かって声をかける。 しかしいつものように小春丸は現れなかった。 その後何度も音量を増して声をかけたが、小春丸は現れなかった。  その日から、日向子一人で会いに行っても、小春丸は二度と姿を現すことはなく、ただ桜の大樹が佇んでいるだけであった。  月日は流れ、日向子は大学生になっていた。 いつの間にか夏季とは会わなくなった。 毎春に桜を見ると日向子はたまらなく悲しい気持ちになり、桜が一番嫌いな花だと友達に話し、お花見も断っていた。  日本美術史を学ぶ学科へ進んだ日向子は、勉強のために上野にある東京国立博物館へ足を運んでいた。  いくつもの美術品がある展示室を回っていくと、一つの絵巻に吸い寄せられた。 その絵巻は、白い水干を着た烏羽色の長い髪を、藍色の組紐で一つに束ねた少年が、大きな桜の木の周りを舞っている平安時代の絵であった。  その絵を見たとき、日向子の瞳からいくつもいくつも涙が止まらずに溢れ出た。 (小春丸だ。小春丸が描かれている……。小春丸に会いたい。会いたい……)  博物館を出ると、息を乱しながらあの懐かしい森林へ向かって日向子は走っていた。そして数年ぶりに、あの懐かしい緑の森林へ辿り着いた。  ノスタルジックに浸るのも束の間であった。  森林の周りに人だかりができている。その人だかりの向こうに赤い炎が燃え広がり、森を焼き尽くしていた。 火事があったのだ。  日向子は目を見開く。頭の中には、幼い頃のかけがえのない時間があった。 「小春丸…!」  周りの制止を振り切り、日向子は水をかぶって燃え盛る森林の中へ一人入っていった。 木々の焦げた匂いに鼻を覆いながら、涙とも汗ともつかないものが顔を流れる。 桜の大木は、小春丸は燃えていた。幹に火花が散り、満開の桜を咲かせていた枝は、いまや赤黒い炎を咲かせていた。  日向子は嗚咽を漏らし、やがて枯れた声で泣き叫んだ。 「小春丸……! 小春丸……! ごめんね……。ずっとあなたを一人にして、私、あなたが好きだったの。本当に好きだったのは、あなただけだったの」  やっと、やっと気づいた、自分の本当の想い。  小春丸の幹に顔を埋め、泣き崩れた。涙が根を濡らす。 するとあたりは青白い光に包まれ、地から幾重もの金色の蛍の光が天へ昇って行った。これは懐かしい、いつかの光景だ。 日向子は泣き止むとその光を見つめる。 現れたのは変わらぬ姿の小春丸であった。 「小春丸……?」 「日向子……。会いに来てくれてありがとう」  小春丸は優しく微笑むと、日向子に近づいた。 「小春丸……!小春丸……!」  日向子は小春丸に抱きしめた。小春丸もゆっくりと日向子を抱き返す。日向子は泣きながら目を閉じた。  小春丸の体は青白い無数の光に溶けて、薄くなっていく。 「日向子、私はもうじき死ぬ」 「そんな……」 「だが、私は死んでまだこの世に生まれてくる。その時を待っていてくれ。星の気まぐれだから、何年先になるかはわからんが」 「わかったわ。私待ってる。十年、百年、千年経っても、おばあさんになっても死んでしまっても、あなたが私のことを待ってくれていたように。私もあなたの命を待っています」   小春丸の体は最期に薄紅色に光り、そして消えていった。  気づくと日向子は、森林の外で毛布の上に横たわっていた。 瞼は涙で張り付いてたが、目を開けると朝焼けが映り、皆が心配そうにこちらをかがんで見ている顔が映った。 誰かが呟く。 「奇跡だ……。あの火事から生還するとは。この子は森に愛された娘だ。森に抱かれた娘だ」    煤が所々ついた自分の体を確認すると、日向子の意識は再び眠りへと落ちた。  夢の中で、小春丸を見た。白い水干を着た美しい精霊の姿を。  春の中、白に紅を一滴垂らしたような満開の桜の元で、くるくると踊り、笑う、彼の姿をーー。    日向子は八十歳のおばあさんになっていた。 昔、森林の萌えていた公園は、あの火事があって以来、更地となり跡形も無くなっていた。 ある春の日に、窓から外の景色を見ていた日向子は、急にあの森林があった場所に、小春丸が生きていた場所に行こうと思い立ち、腰を上げ、紫色のショールを羽織った。  春の陽光が日向子の白髪を銀色に光らせる。 片足が不自由なので、杖をつきながらゆっくり、ゆっくりと歩いていく。  あの場所にたどり着くと、柔らかく涼しいそよ風が吹いた。  羽織ったショールを、腕を交差して押さえる。 すでに更地で、何もなかった。  日向子の中に、小学生の時から紡がれてきた小春丸との思い出が溢れ、幸せで切ない気持ちになった。 「あれは……」  ふと、日向子は更地の一点に違和感を感じ、近付いた。  それは小さな芽だった。 「小春丸…久しぶり」  日向子はかがみ、微笑みながら涙を流す。 涙の雫が、その小さな芽に触れた。  いつまでもいつまでも、老婆の日向子はその小さな芽を見ていた。
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