ビター♥ガイ

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   * * *  午後四時二十五分。パソコン画面を前の患者さんのカルテから次の患者さんのカルテに切り替えて、カウンセリングルームの隅にあるアロマディフューザーにバニラの香りのオイルを数滴垂らす。小瓶から零れた雫が暮れかけた日の色を映して輝き、フィルターに染み込まれていった。蓋を被せて、スイッチを入れる。すると表面が淡く黄色に光り出し、頂点の吹き出し口から細く霧が立ち上った。徐々に甘い香りが広がって、部屋中を満たしていく。その様子を見届けながら、白衣の内ポケットから眼鏡を取り出してそっと掛けた。あとはあの子が来るのを待つだけだ。自分の席に腰掛け、くるりと回って窓の外を見る。淡い金色だった空が、焦がれるようにオレンジの色彩を帯びてきていた。今日も上手くやろう。窓ガラスにうっすらと映る自分の顔を見て、微笑をつくる。よし、自然に出来てる。そう思った瞬間、背後で扉が開く音がした。振り向くと、あの子がちょこんと入り口に立っている。「こんにちは」少し声色を上げて微笑んだまま告げると、ぺこりと頭を下げられる。今日は、目線は合わない。「どうぞ」椅子に座るように促すと、彼女は大人しく俺の正面の席に座った。今日も綺麗に整えられたボブヘアをふわりと揺らして俯くと、こちらにつむじを見せたままじっとしていた。いつもなら数秒してちらりとこちらを上目遣いに見てくれるのだが、今日はずっと俯いたままでこちらを見ようとしない。彼女のペースを優先しているのでいつも顔を上げたら始めるようにしているのだが、どうしようか。一分待った後、こちらから声を掛けてみることにした。 「さて、始めてもいいかな?」  問いかけても彼女は微動だにしないまま俯いている。返事もない。アロマディフューザーの霧を噴射する音が微かに聞こえるほど、部屋の中は静寂に満たされていた。彼女の髪の光沢が夕陽に当てられて、わずかにオレンジを湛える。体調が、悪いんだろうか? 顔色を確認したくても深く俯いていて、それも叶わなさそうだ。 「大丈夫?」  驚かせないボリュームでなるだけ優しく、尋ねる。沈黙が守られる中、雲の影が過って、一瞬辺りが暗くなった。答えがないと不安になる。それはただのこちらの都合だ。彼女には彼女のペースがある。待っていてあげる義務がある。でも、きみが苦しんでるなら、早く教えてほしい。俺に言ってほしい。どんなに拙くても、きっと受け止めるから。答えて、くれないか。そう思った時、鈴のような小さな声が耳に届いた。   「……大丈夫じゃ、ないです……」  か細い声が徐々に萎んで消えていく。その声を聞いた瞬間、身体が勝手に動いていた。なるだけ音を立てずに立ち上がって、彼女の隣に跪く。そっと顔を覗き込もうとした時、彼女の顔の傍で何かが煌めいた。合間もなく、ひとつ、ふたつとまた煌めきが落下していく。今度こそ顔を覗き込むと、彼女は瞳からぽろぽろと涙を零していた。落下する雫は影の中で強く瞬き、彼女のスカートに落ちると暗く染みを作り出す。ぎゅっと、胸が締め付けられる感覚がした。けれどそれを悟られてはいけない。心の中で自分を叱咤しながら、いつもの調子で問いかけた。 「どこか痛いかな?」  すると彼女は、ぶんぶんと首を横に振って否定した。動きの激しさに心配になって制止する意味で「うん、わかったよ」と相槌を打って肩に触れる。どうしようか。思案していると、ごめんなさい、消え入りそうな声で言って、彼女は目元を両手の甲で拭った。 「大丈夫だよ」  柔らかい声を這わせるように小さな背中に触れて、ゆっくりとさする。少しでも悲しみが和らぐように、楽になるように、くり返し、くり返し。触れる手のひらが淡い夕陽の色に染まって温かさに包み込まれる。このぬくもりが彼女にも伝わればいい。そうすればきっと――。 「せんせい……すき……」  木漏れ日のように降ってきたつぶやきに、動きが止まる。
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