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スイート♡ガール
クリーム色の扉の前で、そっと息を吐く。とくとく、とわたしのなかで鳴る鼓動を聴きながら、もういちど前髪に触れた。スカートの裾を整え、ブラウスの襟を正し、不安になってまた同じ行動を繰り返してしまう。いいかげん覚悟を決めなきゃ。自分に言い聞かせて、スマホの画面でもう一度だけ前髪をチェックしてから鞄の中にしまった。そして胸の前できゅっと両手を握りしめると、わたしは目の前の扉をスライドさせた。
開いた瞬間、ふわりとバニラの香りが鼻をくすぐって、柔らかな光が出迎えてくれる。正面の大きな窓からもたらされたおだやかなオレンジ色がその部屋と、彼の白衣を優しく染めていた。淡く夕日の色に染まった背中がくるりとこちらを振り向く。彼は優しく微笑んで、「こんにちは」とつぶやいた。ミルクティー色のくせっ毛、眼鏡越しの涼し気な目元。すこし低めの声が半音上がって、とろりと鼓膜を揺らす。頬に熱が集まるのがわかって、見られてはいけない、とわたしはとっさに頭を下げた。先生は気づいていないようで、いつものように微笑みながら頷いて、「どうぞ」と椅子に座るよう促してくれる。気づかれないように小さく息をついて、わたしはテーブルを挟んで先生の正面にある席に座った。遠慮がちに顔を上げると、応えるように彼は笑みを深くする。そして一呼吸置いて、眼鏡のフレームをくいっと押し上げた。
「さて」
柔らかな声とともに、再び視線がこちらに向けられる。眼鏡のフレームに夕陽が当たって、その奥のあたたかな瞳がわたしを捉える。
「最近暑くなってきたけど、体調は大丈夫?」
小首を傾げたことで淡い色の毛先が、夕焼けの一部に溶けるように揺れる。その光景があまりに絵になっていてつい見惚れてしまっていると、顔を覗き込まれて陽射しの一部が途切れた。
「あんまり良くないかな?」
影で表情がおぼろ気になった先生の顔が、徐々に鮮明になっていく。思ったよりもすぐ近くにいた彼からふわりとバニラの香りが漂って、その甘い匂いにふわふわとした心持ちになる。少し距離を縮められただけなのに、どきどきと心臓が跳ね上がってしまって、わたしはふるふると首を横に振ることしかできなかった。数秒黙って見つめられた後、静かに顔が離れていく。
「無理はしなくていいから、ゆっくりやっていこうね」
一瞬、手元に目を落とした後、わたしの顔を見直して彼は微笑を広げた。
「じゃあ、この二週間はどうだった?」
いつもの質問に安堵しながら、頭の中で記憶を総動員してこの二週間を振り返る。ええっと、この二週間、何かあったっけ? テーブルの隅に置いてある卓上カレンダーの日付を目で追って、変わったことは、特にないよね。再度心に問いかけて、おもむろに口を開いた。
「い、いつも通り……平日は、学校に行って、土日は、家で、ゆっくりしてました」
わたしが詰まりながらつぶやく言葉に、先生は最後まで言い終わるのを待って、うん、と優しい相槌を打ってくれる。
「ちゃんと学校行けてるんだね。よかった」
静かに細められる瞳。ほんとうに安心したような、少しの息を孕んだ声の響き。それらがかすかに琴線に触れて、とくんと心を揺らす。だめ。気を抜けば溢れてしまいそうな感情を、その一言で押し込める。
「今、何か困ってることはあるかな? 学校のことでも、それ以外のことでもいいよ」
優しい声色で、また先生が質問を重ねる。揺れる心を振り切るためにも、今は質問の返事に集中しよう。もう一度、質問を心の中で反芻した。
困ってること。いくつもの些細な困り事がぽつぽつと浮かび上がってくる。どれも、言うほどじゃないかな……そう思っていると、ふいに今一番悩んでいる困り事が浮かんでくる。けれどそれを口にすることはできないと心の中で首を振って、なんとか喉を開いて声を出した。
「……特に、ないです」
うん、その心地よい相槌に、ちらりと彼を見やる。おだやかで優しい表情が、声が、淡い色に包まれて煌めく。また、とくん、とくんと胸が高鳴る。
言えない。あなたが好きで困ってるなんて、言えるはずない。
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