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これは夢だ、とわかる。
これは過去にあったことで、今、有希が体験しているわけではない。ただの夢なのだから、起きれば見なくて済むのではないか。
そう思ったけれど、明晰夢とやらは、そこまで思い通りにいかないらしい。
今日の夢は、『あの日』のことだった。
父親が出て行った日だ。
有希にとって、忘れたくても忘れられない最悪の日だった。
争う声が聞こえてきたのは、夜中に眠ったあとだった。今日は父親の帰りが遅いからと、先にご飯を食べて寝ていた有希は、父親が帰ってきたのだと知り、すぐにリビングへ向かった。
「パパっ」
――ドンッ
身体がびくりと震えるほどの音に、有希はリビングの入り口で足を止めた。
何か異様なことが起きているとわからないほど、幼くはなかった。リビングの机に、父親が封筒を押しつけている。先ほどの音は、父親が封筒を机に叩きつけた音だったのだ。
「調べた。……有希は、俺の子じゃない」
父親は、怒りを押し殺している。顔はよく見えないけれど、父親の目の前に立つ美奈子は無表情だ。
「……はっ、なんだよ。言い訳もしないのか」
「ええ」
「何が不満なんだ? なぁ! なんで浮気なんかして、あげく、子どもまで産んだんだっ!」
美奈子は、初めて表情を見せた。
微かに笑ったのだ。
「全部よ」
「なに?」
「最初から、不満だった。だって、あなたは片瀬さんじゃないもの。私が好きなのはずっと片瀬さんだけなのに、なんで好きでもない、あなたみたいな人と結婚したのかしら」
しん、とリビングに静寂が下りる。
「……片瀬、って。お前の幼馴染のひとりか。有希は、そいつの子なんだな」
「いいえ。有希は、克哉の子ども。片瀬さんの弟の」
「なんだそりゃ。好きな男の弟と寝たのか? 惨めにもほどがあるだろっ」
美奈子が、笑みを消した。
両手を震わせて、父親が叩きつけた封筒を取り上げて、破り捨てる。
「うるさいっ、うるさいっ! これは愛なの。片瀬さんを愛しているから、だから、片瀬さんの弟の子どもを産んだのよ。これでずっと、私は片瀬さんと繋がり続けるの。そうよ、だって、愛してるんですものっ! ……あんたみたいな男、本当に愛してると思ったの?」
「はっ、ありえねぇわ。たいした女だな。お前みてぇな女、一生、片瀬ってやつに、愛されるわけねぇだろ!」
父親はそう叫ぶと、机を回り込んで美奈子の美しい髪を引っ張った。よろめいた美奈子を床に叩きつけて、椅子を蹴飛ばし、壁を叩き、リビングにあったあらゆるものを破壊した。
ひと通り壊し終えた頃、リビングから聞こえてくるのは、父親の怒りが収まり切らないという荒い呼吸と、美奈子の嗚咽だけだった。
そこは有希の知っているリビングではなかった。
子ども向け番組を流すテレビも、美奈子の軽やかな包丁の音も、父親の下手くそな昔話も、週末にどこへ出かけるか決めるふわふわとした雰囲気も、なにも……なにもない。
父親はキッチンの棚から通帳と印鑑、家事用だと決めてあると言っていた財布を取り出して、鞄にいれた。
「離婚届はあとで届ける。……俺はお前を訴えねぇ。だが、養育費も払わねぇ。今後一切、顔もみたくない。関わりたくもない」
父親は、そう言うと颯爽とリビングを出てきた。
目の前を通り過ぎた父親の腕に、有希は、とっさに縋りついた。
父親は驚いて振り向いたが、有希を見るなり、腕を振り払った。有希はあっさりと吹っ飛んで、床で強か身体を打ちつける。
(パパ)
痛くて、声が出ない。
父親は振り返らない。手を伸ばしても、気づいてくれない。
そのまま、父親は家を出て行った。
それが、有希が父親を見た最後だった。
うっすらと瞼をあげた有希は、すぐ近くで眠る慎一郎を見て微笑んだ。
過去の夢は、所詮夢。
有希にはいまの幸せがある。
――けれど
有希はあの日、ひとりで泣き崩れる美奈子を見て誓った。
自分だけは生涯、何があっても美奈子の傍にいようと。もう美奈子をあんなふうに泣かせたりしない。
目を伏せると、最後に美奈子に会った日のことが蘇る。
手毬の家で、有希ちゃん、と叫んで有希に縋りつく美奈子の様子だ。美奈子を守るといいながら、有希が美奈子を泣かせている現実に自己嫌悪する。
有希は知っている。
美奈子の心はもう、慎一郎にはないと。
慎一郎たちと一緒に暮らし始めたころ、美奈子の心はまだ、慎一郎にあった。おそらく、手毬が言っていたように、高校時代からずっと、一途に思ってきたのだ。
ただ、女性に興味の持てない慎一郎に相手にされず、気を引く方向を、大きく間違ってしまったことで、美奈子の人生は予期せぬ方向へ転がってしまったのだが。
その美奈子が慎一郎への恋を諦めた理由を、有希は知らない。
有希は、視線をあげて慎一郎の寝顔を見つめた。
出会った頃よりも目じりの皴が深くなったが、男性にしては美しい顔だ。
慎一郎の存在を知ったのは、父親が出て行った日。美奈子が本当に心から愛している男、として認識した。
その男が今、目の前に有希の恋人として眠っている。
はっ、と自嘲する。
手毬が有希に投げつけた言葉が、痛い。
――きみは、母親の夫を奪ったんだよ!
違いない。
有希は、美奈子を守ると誓っておいて、慎一郎の愛を独り占めしているのだ。美奈子を守りたいと思ったのも、傍で美奈子の役に立とうとしてきたのも、嘘ではない。だが平行して、慎一郎と二人だけの時間をつくって過ごしてきたのも確かだ。
一緒に暮らし始めた八歳の頃は、自分が間を取り持てば美奈子も喜んでくれるだろうとひそかに考えていた。けれど、そんな考えは、いつの間にか消えていた。
慎一郎の世話を焼いたのは、美奈子が慎一郎へ関わらなくてもよいように――ではなく、関わらせないため、だ。
いい子を演じながら、有希は、二人の間を遠ざけ続けた。
何年も、何年も。
そしてある日、自覚する。
有希は慎一郎を愛しているのだ、と。
(本当に……最低だ。私は)
慎一郎のことを美奈子が好きだと知っていて、取り持つために近づいて――やっぱり自分も好きになったから、取り持つのをやめて離れさせよう。
そんなふうに、関わってきた。
無意識のことで、いつ頃からかはわからない。けれど、慎一郎への恋心に気づいたとき、すでに有希にとって「慎一郎と美奈子を関わらせない」ことが当たり前になっていた。
(なんで、ママと同じ人を好きになっちゃったんだろう)
美奈子は慎一郎を恐れていた。嫌われるのが怖くて言いたいことも言えず、慎一郎の前では静かで従順な姿ばかりだった。
そんな美奈子の態度さえ、有希は利用したのだ。
今ならばわかる。
当時は、美奈子のためだと思って、慎一郎と関わったことすべてが、実は自分が「やりたいことをやるために、美奈子を理由にしていた」のだと。
有希は、ふと、隣で眠る慎一郎が、昨夜帰宅したときのことを思い出した。
顔色は青く、随分と気持ちがまいっているようだった。
なんでもない、と本人は言っていたが、昨夜電話したときは、変わりなかった。となれば、弟である克哉と何かあったのだろう。
有希の実父である克哉と会ってみたくて、自宅へ呼んではどうかと、軽い気持ちですすめてみたのだが。
そのことを、有希は今、酷く後悔している。
それも結局は自分がやりたいからであって、慎一郎の気持ちを考えていなかった。慎一郎が実家を嫌っていることは知っていたのに、酷なことを言ってしまった。
携帯電話の着信音がして、布団から出る。
リビングに置きっぱなしだった携帯電話を持ちあげて、目を見張った。
美奈子、と表示された着信に、しばらく固まったあと、通話にでる。
「はい、有希です。ママ?」
『有希ちゃん!』
間違いなく美奈子の声だ。有希は、心の底に安堵を覚えるのを感じて――また、自己嫌悪する。
美奈子に酷いことをしておいて、それでもやはり、有希にとって美奈子は母親なのだ。友達のように買い物に行くことだってあった。仲の良い母子として過ごしてきた日々は、とても温かかったから。
「どうしたの? 何かあった?」
白々しいと思いながら聞くと、美奈子は少し口ごもってから。
『有希ちゃんに直接あって、お話がしたいの。……あれから、私も頭を冷やしたのよ。マリちゃんにも怒られたの、私は有希ちゃんに、その、依存しすぎだって』
「違うよ。……ママに頼ってほしくて、私が、ママにべったりしてたの」
『……一度、どこかでお茶でもどう? 以前はよく、一緒にカフェへケーキを食べに行ったわね』
有希は、ソファに座って、背もたれに背中を凭れかけた。
「……うん。私も、一度話さないとなって、思ってた」
美奈子が、安心したように笑う。
その笑い声に、有希もつられて笑った。
『片瀬さんとはどう? うまくやってる?』
「うん、まぁ」
『気を使わなくていいわよ。片瀬さんのことは、とっくに諦めてるの。不思議よね、あんなに固執してたのに……ほかに、大切なものが出来た途端に、どうでもよくなっちゃった』
ふふ、と笑う美奈子の声には、一皮むけたような清々しさがあった。
「それって、マリさんだね」
『マリちゃんのことも、大切よ。けれど、片瀬さんを諦めたのは、別のひとのほうが大切になったから』
「……別の人?」
『有希ちゃんよ』
「え?」
『その辺の話も、お茶をするときに話すわ。日程を決めてもいいかしら』
有希は、慌てて仕事鞄から手帳を取り出して、今週の仕事終わりにお茶をする約束をとりつけた。時間的にはディナーになるので、夕食を食べてもいいわね、と美奈子が微笑む。
通話を終えて、有希は静かに息を吐きだした。
美奈子は、変わった。
もう有希が傍にいなくても、大丈夫なのだ。
しゃがみこんで泣きじゃくっていた、愚かな幼い悪女のような母は、もういない。
時が経ち、人の気持ちは変わる。
絶対なんてものはない。
美奈子も変わった。有希が、変わったように。
有希は着替えを済ませてから、軽めの昼食づくりを始めた。土曜日の朝は寝坊すると暗黙の了解になりつつあるので、朝食は、あえて作らない。
昨夜、慎一郎の顔色が優れなかったこともあって、カレーは手付かずだ。何があったのかも聞ける状態ではなく、ただ「大丈夫ですよ」としか言えなかった。
何があっても、有希だけは傍にいる。そのことだけは確信できたので、それも告げた。
そして、有希を強く抱きしめたまま、慎一郎は眠りについた。
昼食を作り終えて、ソファで本を片手にくつろいでいると。
「……有希?」
寝室から、慎一郎が起きてきた。寝ぼけた様子で有希に気づくと、真っ直ぐ歩み寄ってきて、抱き着いてくる。大型犬がじゃれてきたようだったが、激しく唇を奪われたとき、やはり男の人だと考えを改めた。
「――っ、はっ、いなくなったのかと、思って、焦りましたっ」
「いますよ、ずっと」
慎一郎は、有希を抱きしめたままソファに転がって、柔らかく有希の全身を撫でる。
「有希。あの、昨夜……弟に、会ったんです」
有希は、軽く目を見張った。
こんなに早く、慎一郎のほうから話してくれると思わなかったから、驚いたのだ。有希はすぐに、はい、と促す返事をする。
「長く疎遠だったので、弟の話を聞きました。それから……あの。このことは、私の推測で、決して事実だとは言い切れないのですが。私ひとりで背負うには、その」
「……重いこと、ですか」
「…………はい」
「私にも、分けてください。一緒に背負いましょう」
微笑むと、慎一郎はぎゅっと唇を噛む。母に怒られた子どものような表情で、慎一郎は有希の肩に額を置いた。
「昨夜、弟から。二十年ほど前に、弟と美奈子さんが交際していたことを知りました。美奈子さんには当時パートナーがいましたから、言わば、禁断の関係というやつでしょう。それで……弟が、言うには……当時、美奈子さんは私が好きで、その代わりに弟と……」
有希は、聞いているうちに心が冷えていくのを感じた。
改めて他者から話を聞くと、美奈子の悪女っぷりというか自分勝手というか、そういった一面が顕著に表れてしまう。
それに。
有希は、沈黙した慎一郎に向かって、あえて、微笑んでみせた。
「知られちゃいましたね」
美奈子が、慎一郎へ恋心を抱いていたことを。
慎一郎は、驚いたように目を見張った。
「知って、いたのですか。……その、では、もしや本当に、克哉は、あなたの本当の……」
「実父ですよ」
慎一郎は、さらに目を見張って、有希の腕を強く握った。あまりの強さに顔をしかめると、唐突に抱きしめられる。
「いつからご存じだったのですか」
「父の件ですか? 父……ママの結婚相手が出て行った日です」
「あなたは、それでも、私と一緒に、いてくださるんですか」
有希は、首をかしげた。
美奈子の気持ちを蔑ろにして、自分本位な有希を責めている……のでは、ないようだ。では慎一郎は、何に動揺しているのだろう。
「一緒にいますよ。そう約束したじゃないですか」
「絶対ですよ。どこにも、いかないでくださいね」
有希は、眉をひそめた。
昨夜、何かあったのだ。けれど、聞いてもいいものか。こんなに慎一郎が混乱する様子など、これまで見たことがないのに。
昨日、克哉と話した内容は聞いたが、問題は【慎一郎がどの部分で混乱しているか】というところだ。
美奈子が慎一郎を実は愛していたことか。それとも、弟が内縁の妻と謀っていた相手と、かつて恋人関係にあったことか。
有希は、慎一郎の背中へ手を回して、同じように強く抱きしめた。
慎一郎の家庭の事情を、有希は詳しく知らない。
父親はおらず、母子家庭で育ったこと。弟がいること。そして、この二人と慎一郎が疎遠であることは、慎一郎本人から聞いている。
美奈子からも、いくつか実父や慎一郎に関して聞いていた。
慎一郎は、彼の母親が借金を帳消しにする条件で「我が子として」育てることとなった、養子だという。戸籍上は実子になっているが、母親とは勿論、母親の子である克哉とも、血の繋がりはないそうだ。
犯罪の匂いを感じるが、美奈子も克哉から聞いただけで、その辺りの事情は詳しくは知らないと言っていた。
けれど、血の繋がりというものは、とても大切だと有希は思っている。
有希の父親が、琴葉の父親とは別の人だと知ったとき、父親は家を出て行った。有希が存在したせいで、琴葉のことも見なくなってしまったのだ。
全部、全部、有希がいたから。
(……もう、考えないでおこう)
有希の件は、今週美奈子と直接あって話をするのだから、そのときに思う存分語ればいい。
今は、大きな身体を丸めて有希を抱きしめている慎一郎の戸惑いや不安を取り除かねば。けれど、有希に何ができるだろうか。
「片瀬さん。あの」
「なんでしょう」
「お互い、家庭のことでは色々と大変だと思います。少しでも、二人で分かり合って、背負いましょうね」
顔を上げた慎一郎に、微笑んでみせた。
「結婚して、子どもをつくって、幸せな家庭を築きましょう」
「……家庭を」
「はい!」
慎一郎の瞳が、ぼうっとしたものから、芯のある真摯なものへ変わっていく。まっすぐに有希を見つめた慎一郎は、ふと、いつもの緩やかな笑みを浮かべた。
「私と結婚して頂けるんですね」
「勿論ですよ。戸籍上、何の問題もないですし」
美奈子と慎一郎は入籍していないのだから。
そういう意味で言った言葉が、伝わったのだろうか。慎一郎はやや視線を逸らしたあと、苦笑した。
「そうですね。戸籍上、問題ないのですから、大丈夫です」
含みのある言い回しに、有希は違和感を覚えないではない。けれど、ふたりの未来をこうして一緒に考えるのは、やはり、嬉しいものだ。
「前に言っていたみたいに、結婚式、ひらきましょうね。ささやかでいいんです、皆に祝ってもらいましょう」
慎一郎の表情が、何かを言いたそうに歪む。
有希は、大丈夫ですよ、と繰り返した。
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