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「パパ」  有希が、初めてその人を『パパ』と呼んだのは八歳の頃だった。  男性は背が高いものだという有希の見解をさらに超えた長身のその男は、薄い銀縁の眼鏡を押し上げて、不愉快そうに眉をひそめた。  引き結ばれたその唇からも、彼は不快な思いをしていることが読み取れる。 「ええ、そう。今日から、この人が有希ちゃんのパパなの」  その人を――片瀬慎一郎をパパと紹介した母の美奈子は、ゆったりと微笑んだ。  祖父にドイツ人をもつ母は、彫りの深い顔立ちをした美人だ。有希と、有希の姉である琴葉を産んだ二児の母とは思えない若々しさがある。体型も細すぎず太すぎず、男好きのするものだった。  そんな美奈子が再婚相手として選んだ片瀬慎一郎は、神経質そうに潜めた眉のまま、じっと有希をみていた。  有希を見つめる目には、暖かさの欠片もない。むしろ、軽蔑に等しい視線を向けられて、八歳の有希は、どうしたものかと逡巡したのちに、頭をさげた。 「有希です、よろしくお願いします。……パパ」 「片瀬、で結構です」  不機嫌さを隠しもしない、突き放すような声で慎一郎が言った。  はっ、としたように、美奈子が慌てて、慎一郎に謝罪する。繰り返し謝る美奈子を軽く手をあげるだけで制した慎一郎は、 「もう構いませんか」  吐き捨てるようにそう言うと、仕事用だろう鞄を持って椅子から立ち上がり、五千円札を机の上に置くと、そのまま立ち去ってしまった。遠くなる背広の背中が見えなくなってから、美奈子が有希に言った。 「ごめんね、有希ちゃん。ママが間違ってたわ。片瀬さん、って呼んであげてね」  ここは、どこにでもあるファミレスのチェーン店だ。  有希は、今日は新しい父親との初顔合わせだと聞いていたため、とても緊張していた。しかも慎一郎には息子が二人いて、有希にとっては新しい兄になる人物もいるというのだ。  だから、ファミレスで顔を合わせる相手は、慎一郎とその息子二人だと思っていた。  だが実際は、時間通りにやってきた慎一郎に名乗って、紹介されるままに「パパ」と美奈子の言葉を反芻しただけに終わった。  有希は、にっこりと微笑んで、美奈子の言葉に頷いた。  美奈子はほっとしたように頬を緩めると、メニューを取り出して有希にみせた。有希がメニューに夢中になっている間に、美奈子が慎一郎の置いて行った五千円札を素早く財布にしまうのがわかった。 「ごめん、遅れちゃったー。って、あれ?」  時間を十五分ほど遅れてやってきた琴葉は、有希と美奈子、そして向かい側に置いてある空席のコップを見比べて、首を傾げた。  美奈子が事情を話しているのを、有希はぼんやりと聞いていた。  新しい家族が増える。  ただそれだけ聞いていた有希は、嬉しくも悲しくもなく、淡々と現実を飲み込もうとしていたけれど。  先ほどの慎一郎の態度をみて、今後に暗雲が立ち込めるのを感じた。  ちら、と美奈子を見る。  美しい美奈子は、女手一つで娘ふたりを育てている。掛け持ちでパートに出かけて、家事もしているのだ。今は家事の大半を有希がやっているけれど、生活費を稼ぐだけでも大変だろうことは、八歳の有希にも想像できた。 (私が、ママを守らなきゃ)  これまでも幾度となく決意したことだったが、改めて、有希はその思いを確かめた。
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