第三章 ホテルで過ごす夜

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 男として求められることが、こんなにも満たされるなど思いもよらなかった。  自身の感情に疎いと思い込んでいたが、もしかしたら、そうでもないのかもしれない。少なくとも今日、慎一郎は喜びに満たされている。  慎一郎は、最寄りのドラッグストアにある避妊具コーナーの前で、いくつもある種類を吟味していた。  ふと。  携帯電話が鳴り響いて、着信をみる。  有希が起きたのかと思ったが、相手は岳だった。  露骨に落胆して、ため息をつきながら通話にでる。 「なんです?」 『開口一番、不機嫌すぎねぇ?』 「不機嫌だと思うのなら、そちらから切って貰えると……ああ、ちょうどいい。あなたに聞きたいことがあるのですが、お先に用件をどうぞ。わざわざ電話をしてくるのですから、御用があるのではないですか?」  電話の向こうで、岳は盛大なため息をついた。 『お前なぁ、俺がどんだけ心配したと思ってんの』 「知りません」 『だろうな。で、どうだったんだよ。大丈夫なのか? そこに、例の彼女、いるか?』 「……いません」  慎一郎は一人でドラッグストアにいる。目当ては勿論、避妊具だ。有希は、何度も絶頂を迎えた疲労で、ホテルのベッドで眠っていた。  時間はまだ、夜の七時。  ホテルについたのが昼過ぎで、それからずっと肌を合わせ続けた。本番はまだだが、有希の奥深くまで触れたことで、慎一郎はとてつもなく興奮し、そして、今は穏やかだ。こんなに穏やかな心地になったのは、初めてだと思うほどに。 ――だが、まだ足りない。  ふと、脳裏を有希の姿がかすめる。  上気した頬、涙ぐんだ瞳、唾液でぬらぬらと光る唇、そのどれもが扇情的で、彼女から香る女の色香は、とても甘く、もっと欲しいと心身が渇望する。 (……落ち着きましょう、はしたない)  首をもたげ始めた下半身に、秀麗な眉をひそめる。思い出して下腹部を主張させるなんて、思春期の少年のようだ。  自分は四十を過ぎた大人で、もっと、慎み深く女性を愛さなければ。 『今夜、飲みに行くか?』  なにを思ったのか、非常に同情的な返事が返ってきて、慎一郎はさらに深く眉をひそめた。 「あいにく、今夜は彼女とホテルに泊まりますから。今はひとりで、薬局まで避妊具を買いにきているのですよ」 『まっぎらわしいなお前! 俺、今すっげぇ心配して、めっちゃ言葉選んだんだぞ⁉』 「杞憂でしたね」 『……うわー、可愛くねー』 「ご用件はそれだけですか? では、こちらの質問に答えて頂けるでしょうか」  ぶす、と不機嫌さを隠しもしない岳は、なんだよ、と妙に威圧的に言った。慎一郎は構わずに聞く。 「避妊具にはたくさん種類があるようですが、どれがよいのですか?」 『さぁ。どういうプレイを求めてるのかにもよるだろ。相手の女って、そういうの慣れてんの?』 「慣れ……?」 『だからさ、セックスに慣れてんの? 今時年齢なんて当てにならんしな。三十代でも四十代でも、処女はいる。まぁ、逆もまたしかりだけどなぁ。そこらへん、どうなんだよ』  セックスに慣れてんの? という岳の言葉に、慎一郎は呆然とした。 「……知りません」  そう答えるのがやっとだった。  事実、有希のこれまでの男性歴を思い出そうにも、記憶の欠片さえ慎一郎のなかにはないのだ。有希はいつもリビングにいて、慎一郎を暖かく出迎えてくれる存在である。  これまで、学校へ通っていたことも知っているし、現在は働いていることも承知していた。けれど、彼女を取り巻くものを、慎一郎は知らない。友人も……過去の恋人も。 『ふぅん。まぁ、最初はそんなもんか。ちなみに、相手何歳?』 「二十歳です」 『は、た……はたちいぃ⁉ それ、お前の息子より年下じゃねぇか!』 「ええ。というよりも、娘なのですが」 『どゆこと⁉』  なぜか電話の向こうでパニックになっている岳を放置して、慎一郎は軽く額を抑えた。  有希は二十歳だ。これまでに、恋人の一人や二人いてもおかしくはない。勿論いなかったかもしれないけれど、あれだけ可愛い有希なのだから、いないとは考えにくかった。 『娘ってつまり、あれか。お前の今の内縁の奥さんの連れ子の、あれか』 「あればっかりですね。それよりも、早く選んでしまいたいのですが。オーソドックスなものはどれでしょう?」 『二番目くらいに目立つとこにあって、一番沢山品数があるやつ』 「……この辺りですね。近くに、香りつきだとか潤滑油が三倍だとか、極薄に挑戦だとか、色々とあるのですが。味付き、というのもありますね」 『なぁ、それよりお前、マジで言ってんの? 二十歳の義娘って、よくエロビにあるやつじゃん!』 「それより、ってなんです? 私は真剣に、どれがいいか悩んでいるんです」 『え、ええー。また俺怒られてんの? まぁ、オーソドックスのでいいんじゃねぇか。つか、いきなり味付きとか買っていったら、引かれるだろ。初夜だよな? 義理の娘に何させんだよ』  そういうものか、と一応購入しておこうとした味付きを、棚に戻した。 「ありがとうございます、ではこちらにしますね」 『なぁ、二十歳ってことは、まだ子どもみたいなもんじゃん。お前、女嫌いだからって、ロリに走ったのか? いや、それ以前に、美奈子さんや手毬は知って――』  電話を切ると、ポケットにしまった。  会計を済ませて、さっさと車に乗り込む。ホテルへ戻る道中、岳の言葉が気になって仕方がなかった。有希の、これまでの男性歴についてだ。  あの蕩けるような表情を、自分以外に見た男がいる。まだ慎一郎も知らない深い部分へ侵入した男がいる。  そう思うと、腹の底に泥が溜まったような不快感を覚えた。  ホテルの部屋に戻ると、有希はまだ眠っていた。静かな寝息をたてて、無垢な表情で眠る姿を、慎一郎は今日、初めてみる。  長い間ともに暮らしてきたのに、寝顔さえ一度も見たことがなかった。  慎一郎と有希が関わってきたのは、リビングでだけ。  平日は夜に、休日は不規則に。  一応、義理の親子だが、慎一郎は有希を娘だと思っていない。だからといって、食事を作ってくれる家政婦のような存在でもない。 「……愛しい、人」  有希の寝顔を見つめて、呟いた。  愛しい人、という言葉が、今の気持ちに会うように思う。  これまで多くの女が慎一郎の心を掴もうと躍起になったが、誰も慎一郎の永久凍土のような心へ進入することはできなかった。生涯、誰のことも愛さず、肌を合わさず、一人で生きていこう。  そう決意していた慎一郎の心を、あっさりと崩したのは、有希が初めてだ。  最初で最後の、愛する人になるだろう。  あどけない寝顔の有希に、微笑みかける。  もし、有希の過去に恋人がいたとしても、慎一郎は決して有希を嫌いになどならない。多少の、いや、かなりの嫉妬はするだろうが、だからといって有希への気持ちが冷めることなどないのだ。  そっと、有希の顔にかかった前髪をはらった。  彼女が目を覚ましたら、食事にしよう。  それから、彼女さえ許してくれるのならば、また――。  有希の、布団のなかにある裸体を想像して、身体がじんわりと熱を帯びる。ふぅ、と静かに息を吐きだして、もたげる熱を懸命に抑えた。  窓際のソファに移動して、夜の海を眺めた。  セックスという行為は、気持ちが悪い。  獣のように理性を手放して、肉欲だけを欲する姿に、慎一郎は嫌悪を覚えていた。母が家に連れ込むのは男だけでなく、女もいたし、男と女が同時にくることもあった。  狂ったように快楽を貪る姿は、慎一郎がこれからも有希とおこなっていきたい「肌を合わせる行為」とは全く違う。 (私の世界は、狭かったんですね)  人々がなぜ、愛する人と肌を合わせたがるのか、今ならばわかる。  快楽だけを求めるセックスは正直、まだまだ嫌悪対象で、生涯好きになれそうにないが、有希と心を繋げて行うセックスは、神聖な何かのようにさえ感じるのだ。 「ん……ふぅ」  ふいに、有希が寝返りをうった。  布団がめくれて、片方の乳房が半分ほど見えてしまっている。  苦笑をして、有希の傍へ戻ると、ベッドに腰を下ろした。布団を掛けなおしてやってから、有希の柔らかい髪を撫でる。  愛しさがこみ上げてきて、そっと身を屈めると、唇にキスをした。 (離しませんから、絶対に)  誰がなんと言おうと、有希は自分のもの。  ほかの男にはやらないし、社会的にも、正式に妻になってもらいたい。  つつ、と有希の喉元を指でたどって、首筋を甘噛みした。 「ん……」 「有希、起きて。喉が渇いたでしょう、お水を用意しています。それから……続き、しましょう?」  微睡む有希の耳に口をつけて、そっと、囁いた。  
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