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第四章 どうにもならない現実
帰宅途中で、携帯電話にメールが入っていることに気づいた。
美奈子からだ。昨日、有希は「今日は出かけ先で泊まって帰る」というメールを美奈子に送ったまま、確認せずにいた。
美奈子からのメールは、帰宅時間を問うものだった。有希は、返事が遅れた詫びと具体的な時間を返信した。
昨夜ほとんど眠っていない有希は、車に乗り込んでコンビニで買ったおにぎりを食べるなり、眠りに落ちた。泥のように眠り、慎一郎が声をかけてくれたときには、すでに自宅についていた。
「ね、寝てた⁉ ごめんなさいっ、片瀬さんも疲れてるのに」
「まったくもって、大丈夫ですよ」
朗らかに微笑む慎一郎に、先に家に入るよう促されて、有希は車から降りた。家の鍵を鞄から取り出しながら向かったが、玄関の鍵は開いている。
(そうだ、ママが帰ってるんだ)
玄関の靴をみて、ほっと息をつく。
この歳になっても、自宅に美奈子がいることに安心を覚えるのだから、自分は余程母親離れできていないのだろう。
「ただいま。ママ、どこ?」
そう言いながらリビングへ向かうと、リビングのソファに美奈子がいた。頬を緩めた有希は、彼女の目の前にあるピンクのキャリーケースをみて、表情を引き締めた。
美奈子も、有希の姿を見ると朗らかに微笑んでみせた。
「おかえりなさい、有希ちゃん」
「どうしたの、その鞄。何泊か旅行にいくの?」
一日、二日ではない大きなキャリーケースだ。そもそも、こんなキャリーケースが我が家にあっただろうか。
「有希ちゃんに、お話があるの。少しいいかしら?」
「どうしたの、改まって」
「もともと、有希ちゃんが二十歳になったら話そうと思ってたの」
美奈子はそう言って、有希を隣に座らせた。
「話っていうのはね、ママ、もう一度やり直そうと思って」
「やり直す、って何を?」
「人生」
その言葉に、有希は息を呑む。
露骨に驚く有希を見て、美奈子は苦笑した。
「何年か前に、マリちゃんが帰国したの。ずっと連絡を取り合ってたんだけど、一緒に暮らそうって話になって。だから、有希ちゃんも荷物をまとめてきてほしいのよ」
「……え?」
突然の話に、頭がついていかない。
美奈子は、有希の表情を見て何を思ったのか、慌てて両手をふった。
「勿論、全部じゃなくていいのよ。必要な最低限のものだけ、とりあえず持っていきましょう。残りは、改めて引き取りにくるか、引っ越し業者に頼めばいいもの」
「ママ、待って。いきなりすぎて、私」
いつかは、ここを出て行くことになると思っていた。だが、唐突すぎる。
美奈子は、有希が二十歳になったら話そうと思っていた、と言った。決めていたのならば、なぜもっと早く言ってくれなかったのか。それに、今日聞いて今日引っ越すなんて、無茶である。
「ママ、あの」
「大丈夫。ママ、ここで待ってるから。ゆっくりでいいから、準備してきて?」
美奈子はそう言って、有希の肩を軽く押す。
促されるまま、ふらふらと立ち上がった。
「マリちゃんが、有希ちゃんの二十歳のお誕生日をお祝いしてくれるんですって。帰ったら、お誕生日パーティしましょうね」
帰ったら。
その言葉に、有希は体の芯が凍るのを感じた。
美奈子にとって、帰る家は、とっくにここではなくなっていたのだ。何年か前に、マリちゃん――手毬が帰国した、と美奈子はいう。図らずも、琴葉や兄たちが、就職した時期と重なるのではないだろうか。
美奈子が頻繁に外出するようになったのは、手毬に会いに行っていたということか。
有希は唇を噛んだ。
有希は、手毬が帰国していることさえしらなかった。
手毬は、美奈子の幼馴染だ。
有希も幼いころから何度も会っていて、美奈子の兄のような、有希にとっては伯父のような人だった。
すでに両親が他界している美奈子は、美奈子が幼いころ家族で暮らしていた実家の隣に住んでいた、手毬をずっと慕っている。それは知っていたし、手毬に至っては、美奈子へそれ以上の感情を抱いていることも察していた。
だが、これまで美奈子は、手毬に対して恋愛感情は抱いていなかったはずだ。
「やり直す、って。マリさんと、再婚するってこと?」
美奈子は、ぽ、と頬をそめた。年齢より若く見える母は、十分すぎるほど可愛く、そして美しい。
「お、おそらく、ね」
有希は、そう、とだけ言った。
手毬は海外赴任が長く、帰国するのはそれこそ正月くらいだった。ずっと連絡を取り合っていたのだし、美奈子のほうも手毬に恋心を抱いた――のだとしても、おかしくはない。
そんな昔馴染みが帰国して数年。
何度も会って、そして、有希が二十歳になったのをきっかけに、今回の同棲話が持ち上がったのだろう。
有希はずっと美奈子の幸せを願ってきた。
手毬は、気が弱そうに見えるが、意志の強い、とてもしっかりとした男性だ。安心して美奈子を任せることができるだろう。
けれど。
「ね、ねぇ、ママ。私、ここに残っちゃダメかな?」
ぐっと拳を握り締めて、意を決して言う。
美奈子は、小首をかしげた。
「駄目よ」
即答だった。
「ここには、片瀬さんがいるわ。ママと片瀬さん、入籍こそしていないけれど、近所の人は夫婦だと思っているもの。いくら片瀬さんが女性嫌いの人でも、若い義娘と二人暮らしなんて、外聞が悪いわ」
その言葉に有希は、雷に貫かれたような衝撃を受けた。
全身が硬直して、血の気が引いていく。
「考えてみて? 養父と年頃の娘が二人で暮らしていたら、有希ちゃん、どう思う?」
「どう、って」
「もしかして、そういう関係なのかも、って邪推するひとが出てくると思うの。もちろん、血の繋がりはないし、法律上は問題ないかもしれないけれど、世間体はよくないわ。あなたは勿論、片瀬さんにも」
だから、一緒に行きましょう。
美奈子は、そう言って、微笑んだ。
外聞が悪い。世間体がよくない。
(わかっている、つもりだった、けど)
第三者からはっきり言われると、自分でも信じられない衝撃に襲われた。
有希は構わない。誰にどう思われても、この気持ちが揺らぐことはないだろう。ずっと好きだった慎一郎と結ばれた幸せを、手放そうとは思わない。
だが、慎一郎はどうだろうか。勿論、彼は誠実な性分だし、昨夜も正式に妻に、と言っていた。他人がどう思おうと、慎一郎の心は簡単に揺らがないだろう。
だが、世間はどうだ。
慎一郎が義娘と結婚したとして、彼の会社の人間は慎一郎をどう思う? 立場は?
有希は、ふらふらとリビングを出て、部屋で荷物をまとめ始めた。持っていくものは、ほんの少しだから、すぐに用意できる。
部屋から出ると、美奈子はすでに玄関で待っていた。
「行きましょう、有希ちゃん」
「……うん」
まだ混乱する頭の片隅で、どこか冷静になっている自分がいた。
どんな事情があっても、自分は慎一郎が好きだ。だからこそ、今は美奈子の言うままについていくことが、穏便に済ますことにつながるだろう、と。
(一度、片瀬さんとも話し合おう)
そう思った矢先、玄関のドアが開いて慎一郎が帰宅した。
大きな荷物を持つ美奈子と、旅行鞄を肩にかけた有希を見て、慎一郎は瞠目した。
「……旅行に行くのですか?」
「片瀬さん、あの」
言ったのは、美奈子だ。
「とても、とても、お世話になりました。私たち、ここを出て行きます」
「マ、ママっ」
「どういうことです?」
「わ、私、マリちゃんと同棲することに、なったんです。……契約したとき、お互いに、好きな人が出来たら契約解消するって、そう、約束しましたよね?」
美奈子は、いつもの怯えた様子で、けれどもはっきりと、そう言った。
慎一郎はこぼれんばかりに目を見張って、美奈子から有希へ、そして有希の荷物へ視線を向けた。
「……あなたも出て行くのですか?」
「はい、でも、片瀬さん」
「許しません」
慎一郎は美奈子を押しやって玄関をあがってくると、有希の両肩を掴んだ。
「あなたが出て行くなんて、絶対に許しません」
「片瀬さっ」
強く掴まれて、肩に痛みが走った。鞄を落とした有希を見て、はっと慎一郎が手を離す。
その瞬間、美奈子が間に割って入ってきた。
これまで怯えた姿しか慎一郎に見せなかった美奈子が、睨むように、慎一郎を見上げる。
「私の娘です、連れて行きます」
「いけません、絶対に!」
「この子を、召使いか何かだと思ってるんですか⁉ 年頃の娘ですよ。男性のあなたと二人暮らしだなんて、どう邪推する人がいるかわかったものじゃありません」
「邪推、ですって?」
「そうです! 爛れた関係だと思われたら、有希ちゃんの未来に傷がつきます!」
慎一郎は、言葉を失った。見るも明らかに青くなり、唇を震わせている。
美奈子は有希の腕を引いて、玄関を、そして家を出た。
「ママ、待って」
敷地を出たところで、有希は足を止めた。
「お世話になったんだから、ちゃんとお礼言わなきゃ。待ってて、すぐに戻るから」
「有希ちゃん。……あなたは、いつもそうね。片瀬さんにも、優しいの。わかったわ、待ってるから急いでね。近くに、マリちゃんを待たせているの」
有希は頷いて、すぐに玄関へ戻った。
慎一郎は先ほどと同じ場所に、同じ姿勢で立ち尽くしていた。有希は玄関のドアを閉めてから、靴を脱いで、慎一郎の前へ回り込む。
「片瀬さん、私行ってきます。またすぐに、一緒に暮らしましょう」
「……有希」
両手を、慎一郎の首へ伸ばした。
彼は少し身を屈めて、有希の細い背中に手を回す。力強い腕に抱きしめられて、有希はその心地よさと切なさに、目を眇めた。
「私の気持ちは変わりません。今は少し、離れるだけです」
背伸びをして、有希からキスをした。
慎一郎は、くしゃりと表情を歪めて、苦笑した。
「あなたは、大人ですね」
「二十歳ですから」
「沢山連絡しますね。それから、またすぐに、会いましょうね」
「はい。私も沢山連絡します。……あの、調味料とか、洗剤とか、場所がわからないときも、遠慮なく連絡くださいね」
ふと、慎一郎が笑った。有希の髪に顔を摺り寄せて、噛みしめるように、力強く抱きしめる。
「わかりました。寂しいですが、我慢します」
有希はもう一度慎一郎にキスをして、美奈子のもとへ戻った。
いつだって、何事も、唐突に起こるものだ。
父が出て行ったときが、そうだったように。
けれどもし、美奈子が有希を連れていこうと決めたのが昨日より以前だったら。有希は、慎一郎への気持ちに蓋をして、離れることになっただろう。諦めきれず燻る気持ちを抱えて、どうしようもない焦燥感に耐えながら過ごすことになったに違いない。
けれど幸いなことに、昨夜激しく肌を合わせたことで、有希の心は穏やかだった。
有希にとっては、夢にも等しかった両想いが実現したのだ。それは、成就しない片想いを携えていくより、遥かに嬉しいものだ。
(……本当に、突然くるなぁ)
いつまで続くかわからないと思っていた暮らしではあった。
とはいえ、こうもあっさり、終わってしまうなんて。勿論、美奈子が幸せになることは純粋に嬉しい。いつだって、美奈子の幸せを望んでいたのだから。
今日の美奈子は、いつにも増して美しい。父と暮らしていたころの、女らしい強さが彼女からあふれているのを感じる。
たったひとり、家に残してきた慎一郎は大丈夫だろうか。大丈夫なはずがない。夜中まで一生懸命働いているのだ、家事まで手を回すなんて無理だろう。
(早く、帰ろう)
有希は、嬉しそうに歩く美奈子を見やって、そう、決意した。
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