第四章 どうにもならない現実

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おはようございます! 今日から電車で通勤します。昨日はご飯食べましたか?? ちょっと心配です(´・_・`)  有希は慎一郎にメールをして、与えられた部屋からでた。すでに仕事用のスーツに着替えており、朝食を食べて、洗面所を使えばいつでも仕事へ行ける。  ここは、手毬の暮らすマンションだ。  昨日始めて来た有希は、温かい歓迎を受けて、気疲れと寝不足から泥のように眠った。  昨日の今日で慣れるはずもないとはいえ、匂いそのものが他人の家で、早く帰りたいと思ってしまう。それでも、昨日の美奈子の笑顔を見てしまったから、まだ、慎一郎の件や戻りたいという話は、出来ないでいる。  勿論、美奈子に話す前に、先に慎一郎と話し合う必要があるのだけれど。  リビングに行くと、エアコンのぬくもりのなか、キッチンに立つ手毬がいた。  昨日、誕生日パーティを受けた時、これからは美奈子が家事をすると言っていたのだけれど、美奈子の姿は見えない。おそらくまだ眠っているのだろう。  その理由を察して、有希はあえて触れないことにした。 「おはよう、マリさん」  声をかけると、でっぷりとした後ろ姿が振り向いた。  最後に会ったときよりも、遥かに肉付きのよくなったマリちゃんこと手毬が、朗らかに微笑んだ。 「おはよう、有希ちゃん。ごはんできてるよ」 「ありがとう!」  ほかほかの白米に、いい香りのお味噌汁。目玉焼き。お漬物。それらを見て、有希は頬を緩める。 「わぁ、美味しそう! 私、どこへ座ったらいいかな」 「僕はいつもここかな。ミナちゃんは、こっち。ほかはどこでも空いてるよ~」  なんなら、僕の指定席に座る? テレビがよく見えるよ~。  そう言って、緊張が抜けきらない有希を和ませてくれる手毬に苦笑して、空いている席に座った。  有希は改めて手毬の姿を見た。  実際の歳より幾分か老けて見えるほど目じりの皴が多く、全体的に肉付きのよい体形。そんな、ぽちゃっとした人が持つ独特の穏やかな雰囲気を存分にまとった手毬は、優しい笑みを浮かべている。  その笑みは、最後に会ったときと変わらない。  他者を安心させる、心地よいものだ。手毬の性格を、よく表しているといえるだろう。  じっと見つめていると、手毬が恥ずかしそうに苦笑した。 「あっ、ごめん。じっと見ちゃった。……なんか、雰囲気っていうか、見た目がちょっと変わったから」 「うん、わかるよー。シルエットだよね、おもに」  あっさり頷く手毬に、有希は思わず吹き出して笑った。 「うん。だって、なんか丸いんだもん」 「やっぱり? 岳には……ああ、高校時代からの友人なんだけどね。雪だるまみたいになったな、って言われたよ。仕方がないよね、自宅での仕事が中心なんだから」 「エンジニアだっけ」 「そう。たまに出社するけど、大体自宅で仕事をしてるんだ」  そう言って、手毬は自分の指定席だという椅子に座った。 「ミナちゃんはまだ寝てるから、先にたべよっか」 「うん。ごはんありがとう、マリさん」  ふたりで「いただきます」と言って、朝食を食べ始めた。 「いきなりごめんね。ミナちゃん、有希ちゃんにうちに来る件、黙ってたんだって? 僕てっきり、打ち合わせ済みだと思ってたんだ」 「確かに驚いたけど。……ママの幸せそうな姿を見れてよかったよ」  昨日の手毬と美奈子は、新婚さながらに仲が良かった。  以前の二人と比べ、また違った仲の良さであることは雰囲気からして露骨で、有希は嬉しくもあり、どこか寂しくもあった。  手毬は、うっすらと頬を染めると、優しく笑った。 「ありがとう。ほら、僕ってこんなだから、いいところも何もないし。見た目だって、普通だしね。ミナちゃんにも異性として、見て貰えてなかったんだけど。やっと口説き落とせたよ」 「いつからママを好きだったの?」 「最初からだよ。ずっと、小さいころから」  そういえば、手毬は独身だ。   四十を過ぎて独身の男性も多い世の中だが、手毬が独身であった理由に、美奈子は少なからず関わりがあるだろう。 「でも僕は自分に自信がなくて、いつか、って思ってるうちに、きみのお父さんにミナちゃんが惚れたんだ。それも熱烈に」  はっ、と顔をあげた。  琴葉以外の人から、父親の話を聞くのは久しぶりだった。 (そうだ、マリさんはパパのことも知ってるんだ)  驚きはしたものの、それ以上の感情はなかった。有希にとって父親は過去の人で、優しい記憶も悲しい記憶も、すべてがもう、想い出になっている。 「ママは、パパのこと吹っ切れたんだね」 「本人はそう言ってるね」 「……そっか。前向きになってくれるなら、私も、嬉しいかな」  父親が出て行った日のことを思い出して、そっと目を伏せる。  お味噌汁に口をつけると、その温かさが身体に染みた。ふぅ、と息をつく。こんなに穏やかな朝食は、何年振りだろう。手毬の存在があるからだろうか、時間がゆったりと流れているような、そんな錯覚さえ覚えた。 「でも、ミナちゃんが慎と結婚するって言いだしたときは驚いたよ。実際は内縁の妻だったみたいだけど、慎との暮らしはしんどくなかったのかな。子どもを作らなかったのは、あえて?」  え、と有希は顔をあげた。  有希の瞳が揺れるのを、手毬はきょとんとした顔で見ている。  どこから驚けばいいのかわからない有希は、まず、一つ目の疑問を、手毬に聞いた。 「マリさんは、ママから片瀬さんとの生活について聞いてないの? 愚痴とかも?」 「なんにも~。話してくれるのは、可愛い娘や息子のことばかりで、幸せなのはよくわかったけどね。まぁ、夫婦の営みのようなものは、そう他人に話さないものだけど。……でも、何年か前くらいから、家に居たくない、っていうのは、聞いてるかな」 「……そう」  てっきり、慎一郎との暮らしについて、詳細に語っているものだと思っていた。有希が小さいころから、それこそ慎一郎と仮の夫婦になってからも、手毬は美奈子に会いに来ていたから。 (ママが、手毬さんに話さない理由……わかるような気もするけど)  あえて、有希は考えを脳裏から押しやった。  有希にとって、美奈子は母親だ。だが、手毬にとっては愛しい女性である。そしてそれは、美奈子から見ても変わらない。  有希は、小さく微笑んだ。  手毬に、慎一郎との暮らしの辛さや愚痴を吐いていたのだ、と思ったけれど、よく考えなくても、美奈子はそんなことをしない。勿論、聖人君子ではないし、美奈子も愚痴ることがあるけれど、彼女は時と場合、そして相手をよく選んでいる。  美奈子は、ふわふわと大人しく見えて、強かな部分も多く持ち合わせており、有希はそんな彼女がとても好きなのだ。 「ごめんよ、こんなこと聞いちゃって」  黙り込んだ有希に、手毬がしゅんと眉を下げて謝った。  有希は、はっきりと首を横に振る。 「ううん。むしろ、答えられなくてごめんね。私、二人の関係とか、正直よくわからなくて。……あ、そうだ」  ここで、先ほど感じた二つ目の疑問を、きく。 「さっき、片瀬さんを慎って呼んでたけど。親しい知り合いなの?」 「僕と慎が?」  うん、と頷くと、手毬は破顔した。一瞬、彼の視線が時間を超えて過去を見たような気がしたが、すぐに、視線が有希に戻ってくる。 「そうだよ。僕と慎と、もう一人、岳っていうやつがいてね。高校時代からの友達なんだ。ミナちゃんからは、聞いてないんだね」 「うん」 「まぁ、僕のことをそこまで深く話すこともないか~、あはは。そう、僕たち三人でよくつるんでてね。僕の幼馴染だったミナちゃんも、たまに加わったりしたんだ。だから、遡ると僕ら四人は、僕や慎が高校時代からの知り合いってことになるかなぁ」  そんなに昔から、慎一郎と美奈子が知り合いだとは知らなかった。何より、慎一郎と手毬もまた、知り合いだったなんて。  手毬が会いに来るのは、決まって慎一郎が不在のときだった。平日の昼間や、休日の外でなどだ。ふたりを合わせたくないのだと、幼心に思っていたから、親しい友人だと聞いた有希の驚きは相当なものだ。 (ママ、教えてくれたらよかったのに)  軽く息をついてから、苦笑した。 「……でも、ミナちゃんは昔から慎が苦手でね。慎の前でよく、挙動不審になってたよ。それも愛情あってのものだと思ってたから、結婚するって言いだしたとき、驚いたけどやっぱりそこに落ち着いたのかぁとも思ったんだ。あの女嫌いの慎も、乗り気だったし」  そう言いながら、手毬は目玉焼きをご飯の上に乗せた。黄身を割って、なかに醤油を垂らすと、ご飯と混ぜ始める。 「マリさん、ママのこと好きなんでしょ? 悔しくなかったの?」 「悔しかったよ~。でも、ほら、ミナちゃんは前の旦那さんを心底愛してたから、ずっと忘れられずに独り身だったでしょ? 心身ボロボロだったからミナちゃんの傍に慎がいてくれるってわかって、ほっとしたんだよ。だから僕も、安心して海外赴任できたわけ」  有希は、漬物をのせた白米を口に押し込みながら、考えた。  もしかしたら、美奈子が慎一郎と契約結婚した理由は、いくつもあるのかもしれない。 「マリさん」 「なんだい?」 「ママをよろしくお願いします」  有希の声は、自分でも驚くほどに震えていた。何気ない会話を装うつもりだったのに、失敗してしまった。  手毬は朗らかに微笑んで、 「はい、わかりました」  と返事をくれた。  朝食を終えて食器を流し台に置くと、有希はメイクなどの準備を済ませてから、リビングに戻った。 「そろそろ行くね」 「うん、いってらっしゃい。気をつけてね」 「うん、いってきます」  有希はマンションを出て、いつもは使わない駅へ向かった。家が変わったのだから、当然、家を出る時間も早くなる。  手毬の家は、八階建てのマンションの七階にあった。セキュリティも万全で、駅チカだということを考えても、かなり高級な部類に入るだろう。賃貸だろうが、それだけ支払う余裕が手毬にはあるのだ。  もう、美奈子はパートをして稼ぐ必要も、家を空けるために無理やり予定を入れることも、しなくて済むのだろう。  その日。  仕事は、淡々と終えた。  クリエイティブ関係の会社で、事務社員として雇われた有希は今日も定時に帰宅する。残業禁止の職場ゆえに定時帰宅は絶対なのだ。とはいえ、デザイナーとして雇われたクリエイティブ関係を担当している専門職の人たちは、それが不満らしい。  有希にとっては都合がよいが、ほかの社員にとってはそうでもないのだ。  会社から出た有希は、とくに何も考えずに帰路につく。けれど、慎一郎の家が見えてきた頃になって、我に返った。 (……もう、あそこは我が家じゃないんだ)  足を止めて、静かに息を吐いた。  手毬は優しいし、美奈子も有希を歓迎している。だからあの家に帰らなければならないのに、帰るのが億劫に思えてしまう。  ふたりの邪魔をしたくないからか。それとも、この家で暮らしたいという願望が、億劫という気持ちをつくっているのか。  は、と有希は慌てて携帯電話を取り出した。  慎一郎から、朝の挨拶の返事が来ている。内容は、おはようございます。ご飯、食べましたよ。と、それだけだ。 有希は、仕事が終わったことを返信欄に打ち込んだけれど、すぐに消した。  僅かばかり、迷って、 『お疲れ様です。今、職場から帰宅途中なのですが、忘れ物を取りたいので、家に入ってもいいですか?』  と、メールした。  すぐに既読がついて、好きなだけどうぞ、という返事がくる。  有希は手早くお礼を返信すると、鍵を取り出して、慎一郎の家へ向かった。
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