第四章 どうにもならない現実

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 仕事が終わって帰宅すると、大体が十一時頃だ。  今日、このまま帰宅すれば、もっと遅くなるだろう。  仕事を終えて、通勤用の車に乗り込んだ慎一郎は、ハンドルに腕を乗せてため息をつく。  帰っても誰もいない。それが当たり前だった時代、自分がどうやって生きていたのか、今ではわからなかった。  普段から仕事を多く抱えている自覚はあったが、それでも、十一時には帰宅できるように、いつの間にかセーブしていたようだ。  携帯電話を取り出すと、夕方以降、確認できていなかったメールがあった。有希からか、と期待をもってひらくと、やはり有希からで、我ながら現金だと思うものの、心が躍る。  家に戻ったとき、簡単に夕食をつくっておきました。  朝食も、本当に簡単ですが、冷蔵庫にいれています。  レンジでチンして食べてくださいね。  お仕事、いつもお疲れ様です。無理はなさらないでください。  たった数行のメールを、何度も読み返した。 「……有希」  慎一郎はすぐに返事をして、自宅へ向かって車を走らせた。  ついさっきまで、帰るのさえ億劫だと思っていたのが嘘のようだ。誰もいないマンションに帰ることに変わりはないのに、明らかに心持ちが変わっていた。  自宅につくと、なかは真っ暗だった。  いつものように鍵をしめて、無意識に有希の靴を確認するが、すぐにないことはわかった。真っ直ぐにリビングへ行くと、食卓に、ラップをかけた食事がある。  慎一郎は、電気とエアコンをつけて、食事を見た。暗闇では「置いてある」ことしかわからなかったが、そこには、ワンプレートになった皿があり、ご飯をよそう部分があけてある。  可愛らしいピンクのメモに、有希らしい丁寧な字で、「温めたあと、ご飯をよそってくださいね」と書いてあった。 「……あ」  慎一郎は、鞄とコートを椅子に置くと、流し台を見た。置いたままだったカップ麺の容器がなくなっている。使ったあとのコップも、食器棚に戻っていた。  自嘲した。  これでも、以前は自炊していた。  一度目の結婚のときも、結局は一人暮らしと変わらなかったので、自分のことは自分でしていたのだ。離婚して、子どもたちの分まで不本意ながら世話をすることになった時期もある。  それなのに、有希が身の回りのことをしてくれるようになり、そのことに慣れてしまっていた。カップ麺を食べたのは昨夜で、今朝は結局、出社途中で購入した栄養剤を飲んだだけで「朝食」を済ませてしまっている。  怠惰になったものだ。  ふと、美奈子がいった「召使い」という言葉が過った。  有希をそのように思ったことはないが、有希が当然のように与えてくれていた優しさを軽んじていたのかもしれない。  あって当たり前だと、そう思い込んではいなかっただろうか。  勿論、美奈子はそういう意味で言ったのではないだろう。慎一郎は、有希のことこそ大切に思えど、美奈子に対しては興味の欠片もない。  契約を遵守してさえくれればいいと思っている点では、ある意味、召使いや家政婦、そういった契約上の取引相手と変わらないのだ。  美奈子を、都合のよい契約相手として扱ってきたのだから、彼女が、自分の娘も同じ扱いを受けていると思っていても、不思議はない。  慎一郎は、有希が用意してくれた食事をレンジにいれた。その間に自室で着替えをすませて、風呂場へ行く。風呂は洗ってあり、湯をはるだけになっていた。  洗面所に、また、ピンクのメモを見つけた。  週末の休日に洗濯にきますので、溜めておいてください。とのことだ。さらにその下に、よかったらどうぞ、と小さな文字で書いてある。メモの横に、試供品と書いてある入浴剤が置いてあるので、これのことだろう。  自分のことなのだから、自分でしなければ。  そう思うからこそ、有希の心遣いが胸に染みた。  風呂は洗ってあるため、スイッチひとつ押せば自動で沸く。ボタンを押しただけで、自分で沸かしたと思うほど慎一郎は世間知らずではない。  有希には有希の生活があって、そのうえで、家事全般をしてくれていたのだと、改めて感謝した。  リビングに戻って、食事を食べた。  口に馴染んだ有希の手料理が、驚くほどに美味しい。 (毎日食べたい……有希に、会いたい)  美奈子と契約した際、いくつか条件を決めた。  一つ目、お互いどちらかに本気で好きな人が出来たら関係を解消すること。  二つ目、同棲について「偽装である」と誰にも言わないこと。  その他にもいくつかあるが、この二つが基本的に重要な部分だった。二つとも美奈子が言い出した内容で、特に二つ目について、彼女は遵守してほしいと言った。  慎一郎はその契約に是といったため、美奈子との関係が偽装であることは、友人の岳や手毬にさえ言っていない。  美奈子もまた、誰にも言わなかった。  だから、手毬は、慎一郎と美奈子は、愛し合って傍にいると思っている。  岳は何か察しているようだが、それでも、慎一郎が美奈子を特別視していると思っているようだ。  恋愛感情はないものの、妹くらいに思ってるんだろ? といつだったか言われたことがあるが、そんな感情は一切なかった。  美奈子は、慎一郎にとって、ただの契約相手でしかない。  先日、好きな人が出来たと電話したときも、驚いていたがアドバイスをくれた。相手が娘だというと、さすがに、驚き方が変わったけれど。  風呂に入ったあと、ごく当たり前のようにリビングに戻った。  いつも有希が座っていたソファに腰を下ろすと、ふわりと甘い香りが鼻孔をくすぐる。有希の香りだった。  有希がここに座って、ピンクのメモに文字を書いている姿を想像した。想像の有希は、細部まで具体的だった。  仕事用に整えた癖のない柔らかい髪に、スーツの隙間から見える白いうなじ。ペンを持つ手は瑞々しく張りのある肌をしており、爪は桜貝のように淡いピンクだ。  ぞわりと震えた。  心地よい熱が身体にともる。 (有希……)  携帯電話を取り出して、メールをみた。返信がある。  おかえりなさい、という言葉から始まって、慎一郎を労わる言葉が続いていた。慎一郎は、そのメールに対して、食事の感想などを打ち込んで――すべて、消した。  ただ一言、電話してもいいですか、と送ってから、すぐに後悔する。断られたら、慎一郎はショックを受けるだろう。有希の都合もあるのだから断られることだってあるだろうに、それでも、慎一郎は有希に拒絶されることを恐れた。  例えどんな理由であっても、有希から拒否されることが怖い。 (はは……末期ですね)  慎一郎は、今年で四十五になる。  一方の有希は、二十歳だ。  これまで、有希は家事全般をしなければならないために家にいたが、手毬と美奈子が暮らす家に同居するとなれば、家事をする必要はない。空いた時間、有希はどこへでも行けるのだ。  これまで近くに慎一郎しかいなかった大人の男を、彼女はこれから、沢山見ることになる。そのことが、慎一郎の不安をあおる。  有希を信じていると言ったのに、歳の差に引け目を感じているのも確かだ。  もしかしたら、有希は初恋をこじらせているだけかもしれない。少年が保育士の女性に恋するように、少女が叔父に恋するように。  メールの着信音がして、慌てて確認した。 ――すぐにかけるから待ってて!  有希らしくない、簡単な一言だった。  それを何度か読んだとき、着信が入る。  有希、と表示される名前に、なぜかとても緊張して、通話ボタンを押す指が震えた。 「……有希?」 『はい! おかえりなさい、片瀬さん』  いつもの有希の声に、慎一郎の凍りかけていた心が一瞬で溶けていく。不安が消えて、耳元で聞こえる愛しい人の声に、腹の奥の熱が頭をもたげはじめた。 「ただいま、今日はありがとうございます」 『こちらこそ』  それから、今日あったことなど、他愛のない話をして。優しくて可愛い有希の声に甘えるように、そっと、望みを口にする。 「……近々、会えますか?」 『今度の土曜日に、会いに行きます!』  張り切った有希の声に、慎一郎は、そうですか、と返した。 「金曜日は用事があるのですか?」 『いつも通りの仕事がありますよ?』 「終わってからです」 『あ……いえ、何もありません。えっと、じゃあ、金曜日の夜に、会いましょう! と、泊まっても、いいですか?』  慎一郎は、ずるい大人だ。  断られるのが怖いからと、こうして、有希から言うように仕向けてしまうのだから。有希が慎一郎の望みをくみ取ってくれるのを、利用してしまっている。 「勿論です。あなたの家でもあるのですから。金曜日の夜に、会いましょうね」 『はい!』  慎一郎のずるさに、有希は気づいているのだろうか。  有希の返事からは、嬉しさがにじみ出ていて、また、身体の熱が大きくなる。 『あ、そろそろ寝ますね。最近まだ寒いですから、風邪には気をつけてくださいよ』 「ええ、わかりました。あなたも。……おやすみなさい」 『おやすみなさい』  電話を切ると、堪えていた吐息をもらす。  右手で股間を撫でると、硬くなったそれが夜着を押し上げているのがわかる。ズボンと下着をずらして膨れ上がった怒張を取り出すと、ゆるゆるとしごいた。 「……有希っ」  耳に残る有希の声。  部屋から香る、有希の残り香。  慎一郎は、目を閉じて、有希の名前を繰り返し呼んだ。 「はぁっ、は……ぁっ、……はっ」  自分自身の荒い呼吸だけが、部屋に響く。  有希、と何度も呼び、ベッドに沈む有希の裸体を思い出して、より一層、強く己に刺激を与えた。  会いたい。  会いたい。  会いたい。 「あぁっ、有希っ……ぁっ、あっ」  手のなかへ欲望を吐き出して、快感に身体を硬直させる。身体が弛緩するころ、欲望をティッシュで拭った。 「早く、会いたいです……有希」  そっと。  誰もいない部屋に、呟いた。
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