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第五章 血の繋がり
季節は過ぎて、夏がきた。
有希と慎一郎は、以前に住んでいたマンションを手放して、駅を三つほど離れた場所にアパートを借りて暮らしている。
アパートの住所は、琴葉と二人の兄、そして美奈子にも伝えてあった。
当初、慎一郎は美奈子が乗り込んでくるのではないかと身構えていたけれど、そんなことはないと言った有希の言葉通り、美奈子がアパートへ現れることはない。
歳の差がある恋人として、二階建てのアパートで暮らす有希と慎一郎は、ささやかながら二人きりの生活を堪能していた。
その日も、有希は仕事帰りに、近くにあるスーパーへ立ち寄った。愛しい人のために作る料理は、とても楽しい。仕事の疲れなど、些末のことだ。
今日はカレーにしよう、と有希は夏野菜をいくつか籠に入れる。多めにつくってタッパーで保存し、明日の土曜日もアレンジして食べるのだ。
(家にチーズがあったし、ドリアにしようかな)
カレーうどんもいいな、と考えながら、必要な材料を籠にいれて、レジの列に並ぶ。
「禁断って、マジでありえなくね?」
ふいに聞こえてきた声に、さりげなく視線を向けた。
レジ近くの小さな書籍コーナーで、女子高生二人が談笑している。彼女たちが見ているのは、表紙に「禁断特集」と書いてある女性向け雑誌だ。
「うわぁ、ちょ、半分だけ人間とか気持ち悪」
「こっちの、身内とかのがキショいっしょ。姉と弟って、ひくわぁ」
そう言っては笑う二人は、結局本は買わずに、お菓子売り場のほうへ歩いていった。
もし。
彼女たちが、実際に禁断の恋をする立場になっても、同じことがいえるのだろうか。
支払いを終えて、帰路につく。
夜道を点々と電灯が照らす住宅街を歩きながら、有希は思う。
父親が出て行ったとき、美奈子を守ろうと決意した。自分が、なんとしても美奈子を幸せにしようと。
なのに有希は今、美奈子の反対を押し切って慎一郎と暮らしている。
後悔はない。
慎一郎と両想いだと知ったとき、残っていた迷いも吹っ切った。たとえ二人の関係が許されざるものであっても、有希はこのまま、慎一郎と夫婦になりたいと望む。
ただそこには、後悔はなくとも、胸が押し潰されそうなほどに重くて冷たい、罪悪感がある。
ふたりで暮らすアパートに戻ってくると、ほっと落ち着いた。二階へ上がって鍵をあけると、「帰ってきた」と思う。
一緒に選んだアパートは、左程広くはないが二人暮らすには十分で、キッチンバストイレもついているし、リビングの隣にはもう一つ部屋があった。
そこは、ふたりの寝室として使っている。
慎一郎と有希が読む本や、夫婦の営みに必要なものが揃えてあった。
スーツから普段着に着替えた有希は、袖をめくって鼻歌をうたう。
「さて、と。カレー作りますか~」
ひとり呟いて、有希は微笑む。
今日は金曜日だ。
明日と明後日の休みのあいだ、慎一郎と過ごせると思うと、頬が緩むのも仕方がない。
◇
慎一郎は、個人情報を足元のシュレッダーに入れて、息をついた。
今日の仕事は終わった。
職場が全体的にふわふわと浮かれた様子に思えるのは、気のせいではない。今日は金曜日だ。有希への愛しさを自覚した頃から、周囲の様子にも敏感になったようだ。
職場を出て自車に乗り込んでから、携帯電話をひらいた。
有希から何か連絡があるかもしれない。すぐに返事ができるときはするが、午後三時以降は空き時間があまりなく、こうして仕事終わりに確認することが多くなっていた。もちろん、時間ができたらその都度確認はしているし、返信できる時間があれば、すぐに返事をしているのだが。
メールは二件あった。
もしや有希から急ぎの用事があったのか、と驚いて差出人を見ると、一つは有希で、もう一つは弟からだった。
最後に会ったのは、慎一郎の結婚式のときだ。親族として参列してもらい、その後は一切の連絡を絶っていた。今では高齢だろう母のこともすべて任せっきりで、きっと弟は自分を恨んでいるだろう。そう思いながらも弟にメールで連絡をとったのは、有希と暮らし始めてすぐのことだ。
過去のことを詫びて、最愛の人と結婚する旨をしたためたのだ。
慎一郎は、有希からのメールを確認したあと、弟からのメールをみた。
「……え」
近くにきているから、会えないか。
そういう趣旨のメール内容だ。
少し迷ってから、是と返事をする。次に有希のメールに戻って返事をしようとしたとき、弟から通話が入った。
大きく一度深呼吸をしてから、通話に出た。
「はい。……片瀬です」
『兄貴ー、俺ぇ』
思いのほか、弟の声は陽気だった。
弟といっても、慎一郎には兄弟という認識はほとんどない。一緒に遊んだことも、一緒に勉強したことも、一緒に学校へ通ったこともないのだから。
「メールをみました。連絡が遅くなってすみません」
『んにゃ、俺もさっき仕事終わったんだ。うち、月金は仕事多いんだよねぇ。でさ、今俺、兄貴の職場の近くにいるんだ』
「今、ですか」
さすがに驚いて、少しばかりきつい口調になってしまう。
そうだ、思い出した。弟のこういうところが敬遠していた理由の一つだ。
『もともと職場もそんな離れてないんだけど、せっかくの花金じゃん? 会おうよ、積もる話もあるんだし』
「……そうですね、少しなら」
『やり~。ねぇ、兄貴車? 迎えにきてよ』
慎一郎の眉間に、しわが寄る。
苛立ちを覚え始めたけれど、ここで遮断するわけにはいかない。結婚式には、親族にも参加してほしい。たとえそれが形だけのものであっても、有希に、皆に祝ってもらっていると感じて貰いたいのだ。
ぐっと、言葉を飲み込んで、どこにいるんですかと問う。弟が言った場所は確かに近くて、妥協するように、是と頷いた。
通話を切ってから、有希にメールをする。
――すみません、弟と会うことになりそうなので、少しだけ帰りが遅くなりそうです。先に眠っていてくださいね
と。
車を運転し始めてすぐに、携帯電話が鳴った。ハザードランプをつけて車を止め、着信をみると、有希だ。
「はい。おまたせしました」
『お疲れ様です、片瀬さん。あの、もしよかったら弟さん、うちに上がってもらったらどうですか?』
「……はい?」
有希は、突然何を言い出すのだろう。
「少し話して、すぐに帰らせますよ」
『でも、長らく連絡を取ってなかったんですよね。家に招いて、くつろいでもらったらいいじゃないですか。途中で、私は先に寝ますから』
なるほど、と慎一郎は納得する。
有希は、慎一郎を気遣ってくれているのだ。慎一郎は、身内とは縁を切ったも同然の日々を過ごしてきたし、一人で生きていくつもりでいた。その考えを変えることになったのは、有希を愛しく思うようになったからで。
有希もそのことを理解している。だからこそ、少しでも家族の仲が円滑になるように、助力してくれるのだろう。
「……そこまで仰るのなら、弟に聞いてみます。突然の誘いだったので、すぐ帰るつもりだと思いますよ」
確信はないが、そうだったらいいなと思いながら言う。
『わかりました。気をつけて帰ってきてくださいね』
通話を終えた頃には、少なからず頬が緩んでいた。弟からの連絡に、警戒や不安を抱いていた気持ちが、有希と話したことで穏やかになってしまうのだから、本当に有希は素敵なひとだ。
弟から指定された場所へ着くと、メールをいれた。
折り返し、通話が入る。どうやら弟は、メールより通話を好むらしい。
『どこ?』
「車道に寄せています。右側に牛丼のチェーン店がみえますね」
『あ、あの辺か。あ、車の色は黒? 普通車?』
「ええ」
ぷつ、と通話が切れる。
携帯電話を睨みつけていると、窓をコンコンと叩く音がした。
「あーにきっ、久しぶり!」
にしし、と歯を見せて笑う弟に、慎一郎は眉間の皴を深くして、ロックをあけた。すぐに乗り込んできた弟――克哉は、あっつーと言いながらエアコンの風を自分に当たるように変えた。
「……あまり触らないで貰えますか。空調は考えて設定してあるんです」
「今暑かったら使えないのと一緒じゃん」
全然違う、そう言い返そうと思ってやめた。ここは車道なので、どこか駐車しても問題のないところで止め直そう。
車を発車させると、克哉が鼻歌を歌い始めた。
「なぁなぁ、兄貴。兄貴は、歳とっても恰好いいな。羨ましい~」
「どうも」
「俺は? 俺だってわかった?」
「いいえ。自己申告をそのまま受け入れました。克哉ですね?」
「勿論。あははっ、兄貴は変わらず几帳面で融通がきかねぇの。あ、そうだ。俺さ、実は結婚したんだよ。つっても、十年も前なんだけどな!」
「そうですか」
「冷たっ、おめでとうとかねぇの?」
「おめでとうございます」
「やっぱり冷たっ! こんな兄貴に好かれるなんて、兄貴が惚れ込んだっていう相手の女性は可哀そうだなぁ~」
深く皴がよった眉間が、ぴくっと痙攣する。
自分は沸点が低くはない。だが、こと克哉は慎一郎の苛立ちを煽ってくるような言動を繰り返すのだから、怒ったとしても仕方がないことだ。
「ま、よかったじゃん。今度は偽装じゃねぇんだろ?」
「勿論です」
「ふぅん、前んときはびっくりしたなぁ。女嫌いの兄貴が結婚するとか言い出したら、偽装結婚だってきっぱり言い切ったんだよ。懐かしい~」
「それで、克哉。いくつか聞きたいことがあるのですが」
「いいけど、このあとどこ行くの?」
「近くに車を止めて、コーヒーでも飲みながらでいかがですか」
本当はその辺に車を止めてしゃべるだけでいいのだが、コーヒーもつけるという自分はなんて寛大なのだろう。慎一郎はそんな思いで誘ったのだが。
「えー、今二人暮らしなんだろ? 家連れてってよ」
「……はい?」
「くつろぎたいじゃん。女に詳しくない兄貴が、悪女に騙されてないかも確認しないとだし」
「そんなことは――っ」
「まぁまぁ。ほら、前見て前。……兄貴が音信不通の間、大変だったんだから。おふくろも歳だし、今は老人ホームに入ってるんだ。今ってさ、どこもいっぱいだろ? それに、介護認定手続きとかもややこしいし。おふくろは、ほら、年金かけてなかったから、その辺も大変でさぁ」
老人ホーム、という言葉に、慎一郎は目を眇めた。
淫靡さと妖艶さを持ち合わせた女だった母が、今では老婆なのだ。きっと当時の面影は何もないだろう。
親の介護云々に関しては大変だと、職場は勿論、岳からも聞いている。いくら関わりたくない親だといっても、いくら他人同然の弟だとしても、親の面倒を見る義務がある自分がそれを放棄しているのは、好ましくない。
それをわかっていて、克哉は話をしているのだ。克哉のにんまりとした笑みが、確信だと語っている。
「……わかりました。家に案内しますから、聞きたいことには答えてくださいね」
「おう。ま、二人きりの兄弟じゃん。仲良くやろう~」
渋滞にも引っかからず、車は快調に自宅へ向かう。
その間、ほとんど一方的に克哉が話し、慎一郎は聞き役に徹した。ときおり、質問を投げかけて、答えを促す。
克哉は今、三児の父親らしい。一番上が九歳で、授かり婚をしたという。式はあげていないので、声もかけなかったとのことだ。
慎一郎が家に帰らなくなってからも、克哉はあの家で暮らし続けた。高校を卒業して働きはじめても、実家から通勤したらしい。今の妻とは、二度目の転職先で出会ったという。
「まぁ、俺も所帯もってからは真面目に仕事に打ち込んだよ。おふくろも養ってやらなきゃって思ってたし。……正直、あんまりいい母親じゃなかったけどさー。女手一つで、俺ら二人を高校まで行かせてくれたんだぜ?」
「義務ですから。嫌ならば子どもを作らなければいいのです」
「ひっど! 兄貴ってほんと、俺と合わないーっ」
こうして克哉と話して、改めて、感じた。
自分はまだ、母親には会えないと。恨んでいるわけではない――いや、恨んでいるのかもしれない。慎一郎に嫌悪を抱かせる行いを、繰り返してきたあの女を。慎一郎の女嫌いは生理的なもので、一時期は視界に女が映るだけで吐くこともあったほどだ。
「で、兄貴の話も聞かせてよ。そのさ、例の女って、どんなやつ?」
「……質問の意味がわかりません」
「どこで出会ったの?」
「気づけば傍にいました」
「惚気はやっ!」
そう言って、克哉は笑う。
何がおかしいのか、ひとしきり笑ったあとで、さらに聞いてきた。
「どっちから告白したの?」
「私ですよ」
「へぇ。兄貴からか。そりゃ、本気なんだなぁ。兄貴って昔から、ほっといても女が群がってきたもんな。一時期は男も群がってたけど。中学のときだっけ、女と間違えられてさー」
「昔話は結構」
「いいじゃん、少しくらい。なぁ、その人の写真ないの?」
「そんなもの……ありますね。もうすぐ着くので、車を止めてから見せます」
このままいきなり有希に会わせるよりも、先に写真を見せておいたほうがいいだろう。
有希との間に歳の差があることは自覚しているし、思ったことをすぐ口にする克哉が、有希の前で心無いことを口走る可能性もある。
アパート近くの月極駐車場に車を止めて、携帯電話に保存してあった写真を表示させた。
有希がメールに添付してくれた画像で、楽しそうにケーキを頬張る有希が映っている。手毬のマンションでひらかれた誕生日パーティのときに撮ったそうだ。
有希の左右に映る男女――手毬と美奈子が邪魔だが、楽しそうな有希がうつっている写真を、保存しないという選択肢はない。
「どれ~」
ひょい、と携帯電話を持っていった克哉に、露骨にため息をつく。車から降りる準備をして、エンジンを切った。
「すぐそこですから、ついて――」
「やっぱり!」
克哉は、ぱっと顔をあげた。
その声は、今日一番明るく、嬉しそうだ。
「ついに、美奈子と結婚することにしたんじゃん、兄貴。やるな~」
「……何を言ってるんです」
これ以上ない絶対零度で睨みつけても、克哉は肩をすくめただけだ。そして何を勘違いしたのか、「誤解しないでよ」と前置きしてから、話し始めた。
「美奈子と付き合ってたのは、二十年以上も前の話。今は、一切関係ないからさ。つか、出会わせてくれたのは兄貴じゃん。兄貴の結婚式で、美奈子と知り合ってそのまま――って感じ?」
慎一郎は、動きを止めたまま、ドアをあけて助手席から降りる克哉を、呆然と眺めた。のろのろと自身も下りて、大きく伸びをする克哉に首を傾げる。
「どういう、ことですか」
「ええー? 聞いてないの、やっぱ」
「私が結婚したとき、すでに彼女は結婚していました」
「知ってる~。デキ婚でしょ」
そう言って、克哉が歩き始めた。
「兄貴の気をひくためにほかの男が好きだって嘘ついて、子どもできちゃって引き返せなくなったって泣いてたよ。兄貴もさぁ、鈍いんだよねぇ。美奈子、ずっと兄貴のこと好きだったんだってよ。俺言われたもん。俺とセックスするのは、兄貴の代わりだって」
克哉は、懐かしいなぁと呟く。克哉にとって、今彼が語っていることは、過去のことだ。克哉はとっくに想い出に変えている。
だが、慎一郎の身体は震えていた。
これ以上、聞いてはいけない。
そんな予感に、息をつめる。
「まぁ、俺も若かったし、人妻ってだけで燃えたからいいんだけどねぇ。ああ、でも、本当に関係はもう終わってるから。二十年間、なんも連絡とってない。つか、音信不通になって自然消滅的な? ……とと、兄貴、家ってどっち?」
にっかり笑って振り向いた克哉の笑みに、ふと、既視感を覚えた。
異父兄弟であるがゆえに、慎一郎と克哉はまったく似ていない。慎一郎は克哉の父親を知らないため、誰かと既視感を覚えるなどないはずなのに。
それでも、嫌でも探してしまう。
赤子のように愛嬌のある目元に、形のよい耳、それに、笑ったときの笑顔から受ける印象。
「……美奈子さんと最後にあったのは、いつだ」
「えー、嫉妬深いなぁ。いつだっけなぁ。具体的には覚えてないけど。二十年……二十一年近く前かな? なーんか急に、体調を崩したみたいで。そのまま自然消滅」
「体調を崩した」
「そ。吐き気が凄いって言ってた。なぁ、あーにーきー、早くいこうぜ。……兄貴? え、マジでどした。真っ青じゃん」
ぎょっとした克哉が駆け寄ってきて、手を伸ばした。その手が触れようとするとき、後ろへ下がってよける。
「……すみません、今日は帰ってください。右に行けば、すぐ駅がありますから」
「え、いや、まぁ、帰るけど。でも、兄貴大丈夫か。本当に顔色真っ青っつか、白いぞ? ……俺のせい?」
不安そうに見つめてくる目に、また、既視感を覚えた。
慎一郎は視線をさげて、克哉に対して、首を横にふった。
「大丈夫です。……すみません、来ていただいたのに。送れなくて」
「俺より、兄貴が」
「帰ってください。……本当に、すみません」
克哉は戸惑ったように立ち尽くしていたが、やがて、背を向けて帰って行った。去り際に一言、「ごめんな、もう終わったことだと思ってたんだ」と、やはり見当違いな言葉を残して行った。
慎一郎は、嫌な汗を額に浮かべて、駐車場の端に座り込んだ。
そんなはずはないと思うのに、胸騒ぎが止まらない。
(……確認をしなければ)
違うとわかれば、安心できる。
だがもし、予想が当たっていたら?
ひゅ、と喉の奥で、空気がなる。
「……そうだとしても、だから、なんだって、いうんでしょう」
ふらっ、と立ち上がる。
今更有希を手放すことなど出来ない。
確証もないことに振り回されるなんて、無駄だ。
ならば。
最初から何も、気づかなかったことにすればいい。
もう二度と、克哉と会うのは辞めよう。
それから、美奈子に認めてもらおうという考えも、捨てなければ。
(そうです、次の転勤で異動希望を出しましょう。もっと、遠くへ行けばいい)
愛する人と、幸せになるために。
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