間幕 岳

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間幕 岳

 岳は、だされたコップを手にとった。  ひんやりと冷たい麦茶を一口飲むと、やけに上品な味がする。相変わらず、嫌味なほどに高級嗜好だ。  もともと実家が裕福で、今も驚くほど高給取りなのだから当然といえば当然なのだが。 「きみがうちにくるなんて、珍しいね」 「まぁな。つか、何度見ても丸くなったなぁ」  まるんっ、とした昔馴染みの姿に、岳はため息をついた。 「高血糖とか、高血圧とか、大丈夫なのかよ。俺ら、そういうの考えてもいい歳だぜ?」 「あはは、大丈夫だよ。僕が死んでも、遺産はちゃんとミナちゃんに渡るようになってるからね」  何年経とうと、手毬は変わらない。常ににこにこ笑っていて、口をひらけば美奈子のことばかり話す。高校時代、こんなぼへっとしたやつに好意を抱いて告白した女生徒もいたのに、あっさり「僕には好きな人がいるから」といってふった過去がある。  そのくせ、自分に自信がないからだの、他に相応しい人がいるだのと言って告白せず、美奈子は見知らぬ男と結婚し、手毬はとっくに四十を過ぎた今でも、独身だ。  もしかして、手毬にはそういう、特殊な性癖があるのではないか。  本命を遠回しに愛し続けるとか、そういう――と思っていた頃に、美奈子と婚約したというから、本当にもうわけがわからない。  美奈子と内縁関係のはずだった慎一郎は慎一郎で、美奈子の娘と婚約しているし。 (何が起きてんのコレ。誰か助けて!)  岳は、深い深いため息をつく。 「んで、どんな感じよ?」 「何がだい?」 「美奈子さん」 「今日も綺麗だよ。可愛いし、優しいし、光に包まれているみたいだ」 「……慎のこと、なんか言ってたか」 「いや、特には」  手毬は、首を傾げてみせる。そんな昔馴染みを睨みつけると、手毬はまた考える素振りを見せたあと、「そういえば」と話し出した。 「有希ちゃんのことを、とても心配しているよ」 「あー。ここを出て行ってから、一週間だっけ。今は、慎と暮らしてるんだったか」 「そうだよ。まったく、何を考えてるんだか。ミナちゃんをあんなに傷つけて、自分の幸せばっかり優先して。僕、有希ちゃんがあんなに酷い子だとは思わなかったよ」 「……お前の中心が美奈子さんなのは知ってるけど。お前、ほんっとうに変わらないな」 「僕のミナちゃんへの愛は変わらないから」  そういって、お茶請けの菓子を食べる手毬を軽く睨みつける。 (変われよ、いい加減に)  岳は学生時代に大恋愛をして、結婚して今に至る。恋や愛だのを軽視する人や、結婚との幸せをわけて考える人もいるが、岳は愛があるからこそ、生涯寄り添えるのだと思っていた。  そして愛とはお互いに愛し合うことであって。  一方通行ではない。 (手毬、お前また、利用されてんじゃねぇか。いや、違う。利用されるように、仕向けてるのか)  手毬は、美奈子を甘やかす。  美奈子の望みをすべてかなえようとする。  手毬の世界は美奈子中心に回っているから、彼女の望みはすべて叶えるべきであって、彼女の好き嫌いはそのままこの世の摂理になる。  それが手毬だ。  手毬の美奈子へ対する気持ちは、愛や恋とは違い、もはや、執着に等しい。 「美奈子さんってさ、なんで慎と結婚したんだろうな?」 「ミナちゃんは昔から慎に惚れてたし、念願かなったってところじゃないの?」 「でも今は、一緒に暮らしてないんだろ? お前と婚約してるし」 「そうだね。いろいろあったんじゃないかな」 「理由とか聞いてねぇの?」 「うん」  はっきりと頷いて、手毬は微笑む。 「ふぅん。……気にならないの?」 「どうして?」 「え、いや、好きなんだろ、美奈子さんのこと」 「もちろん!」 「じゃあ、気になるべ?」  手毬は、首を傾げた。 「そうだなぁ。まぁ、うん。でも、ミナちゃんが話さないんだし、僕が知らなくてもいいことなんじゃないかな」  岳は、また、ため息をつく。  手毬はむっとした表情で、「ため息ばっかりつかないでよ」と呟く。 「ため息もつきたくなるだろ。お前さ、理由も知らずに有希ちゃんを恨んでんのかよ。美奈子さんを傷つけた、って」 「理由が必要かい? ミナちゃんを泣かせたんだよ。それに、ミナちゃんが愛してた慎を奪ったんだ。当たり前じゃないか」 「……はっ、棚上げも甚だしいぞ」  手毬の家に来たのは、友人として、幸せを願ってのことだった。手毬の愛は歪んでいるし、それを一心に受けてきた美奈子も、おそらく余波を受けている。  このままでは、想像もしたくない結末を迎えるかもしれないと、危惧していた。  けれど、手毬の歪みは、より酷くなっている。  岳は、茶を飲み終えると立ち上がった。 「帰るわ」 「あれ、来たとこなのに」 「お前さ、いい加減おかしいことに気づけよ」 「何が」 「有希ちゃんが慎を取ったっていうけどな、お前だって慎から美奈子さんを、取ったんじゃねぇか」 「だからなんだっていうだ。ミナちゃんが僕といることを望んでくれたんだから、彼女を家に迎えるのは当然だろう?」 「いやもう、話にならんし、ほんと帰るわ」  頭のいいやつが考えることは、さっぱりわからない。さっさとリビングを過ぎて玄関で靴を履く。ドアをくぐろうとしたところで、 「岳!」  と、呼び止められた。肩越しに振り返ると、手毬がリビングのドアの前に立っていた。 「なんだよ」  手毬は口ごもって、ややのち、言った。 「僕、どうしたらいい?」 「知るかよ。……でもお前、今のままだと、利用されるだけで終わるぞ」 「ミナちゃんは、僕をそんなふうに扱わないよ」 「あれ、俺、美奈子さんがとは言ってねぇけど?」  にやっと笑ってやると、手毬は大きく目を見張る。 「イエスマンの傍にいるとストレスたまんねぇけど、面白くもねぇよ」  岳はそう言って、ドアをしめた。  長い付き合いになっている友人二人は、もの凄く変わっている。なぜ、変なやつだけが友達として残ってるんだろうと以前呟いたとき、嫁が、「変わってても高給取りなんだから、羨ましいわよねぇ」と言った。  でも、と嫁は続けた。 ――あたし、あんたと結婚してよかったわ。あんたたち三人のなかだと、あんたが一番真っ当だもの  その言葉に、岳が狂喜乱舞して、うるさいと怒られたのは、まだつい最近のこと。 「……駄目だなぁ、俺。なんとかしてやりたいんだけど」  岳が、慎一郎から「結婚することにした」という連絡がきたのは、夏頃だった。  久しぶりに会おうという話になって、岳は慎一郎が暮らしているというアパートへ行った。慎一郎は、どこか喫茶店でと言っていたが、噂の「有希ちゃん」と会ってみたかったのだ。  携帯電話に表示した住所を片手にたどりついたのは、駅から徒歩五分にあるアパートだった。築二十年は経っている、正直、慎一郎には似合わない安っぽいところだった。  疑わしい思いで二階へあがり、部屋番号を確認する。 「……ここか」  名前は出ていないため、本当の慎一郎が暮らしているのか、いまいち信用できない。インターフォンを押してから、別人が出てきたらどうしようと思った。  だが、心配は杞憂だった。  出てきたのはラフな半袖のシャツを着た、慎一郎だった。 「待ってました、どうぞ」 「おー」  アパートに上がると、正面にキッチンがついた部屋があった。ここがトイレです、と玄関横のドアを示して、慎一郎が説明をくれる。 「あ、こんにちは!」  キッチンにエプロン姿で立っていた女性が、玄関にいた岳へ駆け寄ってきた。 「有希です。初めまして、ですよね」 「お、おおう。美奈子さんの連れ子の有希ちゃんだよな。前に会っ……てないな。うん、初めまして」  手を差し出すと、有希はエプロンで手を拭いてから、岳と握手をした。綺麗な手なのに、律儀に拭くあたり、どことなく慎一郎と似ている。  有希への第一印象は、見た目はともかく、立ち振る舞いや性格は「美奈子に似ていない」だった。  ソファではなく食卓をすすめられて、椅子に座った。出されたお茶は、シンプルなガラスコップに入っていて、シロップとミルクも一緒だ。 「紅茶?」 「はい。コーヒーのほうがよかったですか?」 「ううん、俺紅茶のほうが好き。ありがと」  有希が嬉しそうに笑った。純粋無垢な笑顔に、不覚にも胸がきゅんとした。 「帰りますか?」 「え、なんで」 「今、有希を可愛いって思ったでしょう?」 「思ったけど……いやいや、待って。俺妻子いるから。嫁愛してるからっ」 「嫁がいようといなかろうと、有希が可愛いと知っているのは私だけでいいんです」 「お前も手毬みたいになってきたな⁉」  思わずそう言うと、ふふっ、と有希が笑う。有希はエプロンを外して、なぜか近くに置いてあった鞄を持った。 「すみません、あの、牛乳を切らしていたので買ってきます」 「牛乳? 何に使うんですか」  慎一郎が、顔をあげて聞いた。  有希は外出の支度をしながら答える。 「夕食にですよ」 「車を出します」 「すぐそこですから、慎一郎さんはお客様と待っていてください」  有希はそう言って、ぺこりと会釈をして出て行った。  ぽかん、としていた岳だったが、有希が気を利かせたのは明白で、なんていい子なんだろうと感激する。 (マジで似てねぇじゃん、美奈子さんと)  一人っ子を地で行くような美奈子を、愛嬌があって可愛いという人もいるけれど、どうも岳には、我儘な女性にしか思えないのだ。もっとも、岳の知る美奈子は、高校時代で止まっているのだが。 「俺、美奈子さんより有希ちゃん派だなぁ~」 「帰ってください」 「待てって、冗談だから睨むな……お、その指輪なに? 婚約指輪?」  ふと、慎一郎の指にシルバーのリングが見えて、そのことを問う。苦し紛れに誤魔化した言葉だったが、慎一郎ははっとして指を抑えると、思春期の少年のように耳を赤くして視線をそらした。 「……そうですけど、なにか」 「俺そういう萌え属性ないから、別にいいよ」 「これは、見ての通り、婚約指輪です」 「いやそれ、俺がさっき聞いたじゃん。んでそうですって答えたのに、なんで二度言うの、そんなに大事なの」 「大事ですよ、これは有希が私のために買ってくれたんですから」 「有希ちゃんが買ったの⁉」 「ええ……思い出しても、素敵な日でした。これを受け取った日、改めて有希を幸せにしようと誓ったんです」 「男前だね有希ちゃん! んでもってお前乙女っぽくなったな⁉」  心配をしていたが、どうやら慎一郎たちに心配は不要のようだ。うまくやっているらしい。あの女嫌いの慎一郎の心を掴む女性とはどんな人物かと思ったけれど、先ほどの有希ちゃんをみるに、納得できる。  有希が帰ってくるまで、二人で話した内容は、有希との馴れ初めや結婚式についてだった。あの母親嫌いの慎一郎が母親に会いに行ったとも聞いて、有希という女性の偉大さを改めて知った。  同じように、相手を愛してやまない姿勢でも、手毬と慎一郎は違う。だからこそ、余計に手毬が心配になった。  一時間ほどして有希が帰ってくると、当たり前のように慎一郎は玄関へ迎えに行って、有希の荷物を持つ。これまでの慎一郎からは考えられない行動だ。 「遅かったですね、迎えにいこうかと思っていました」 「ごめんなさい、駅向こうのスーパーへ行ってたんです」 「そんな遠くまで?」 「ええ。でも欲しかったものが買えました」  有希は岳を見ると、また、ぺこりと会釈をした。 (くっ、いい子だなぁ……慎、お前は彼女が気遣って出かけてくれたことに気づけ)  岳が「おかえり」というと、有希も「ただいまかえりました」と微笑んだ。 「あ、これ」  ふいに、慎一郎が声をあげた。有希が買ってきた袋のなかをガサガサと漁っている。  取り出したのは、車におく芳香剤だ。 「この前欲しいっていってたやつ、安くなってたから買って来たんです」 「ありがとうございます、ちょうど無くなったところなんです。忘れる前につけてきますね。……あ、岳、すぐに戻りますから大人しくしていてくださいね」 「俺は猛獣かよ」  慎一郎がうきうきと部屋を出て行くと、荷物を片した有希が「おかわりいかがですか?」と声をかけてきた。 「貰おうかな。美味しい紅茶だね」 「紙パックですよ?」 「うっそ、どこのメーカー?」  キッチンを見ると、普段、岳が手にとらないメーカーの紅茶だった。 (へぇ、今度買ってみよう)  頭のなかにメモをした。 「そうだ。岳さん……ってお呼びしてもいいですか?」 「もちろん」 「岳さんには、本当に、感謝しかありません」 「ええ、大袈裟だよ。おじさん照れちゃうなぁ」  半ば本気で照れていると、二杯目の紅茶を持ってきた有希は、椅子に座ってから、深々と頭をさげた。 「……有希ちゃん?」 「先日母と外食をしたときに、手毬さんから叱られたと言っていました。なんだか、そのことが少し引っかかってて。手毬さんは、母には甘い人なので珍しいなと」 「え、お、おうたしかに? でも、なんでそれを俺に」 「……なんとなく、でしょうか」  岳は、何か月か前に岳と会ったときのことを思い出したが、すぐに記憶からおいやった。 「引っかかる、って。手毬が美奈子さんを雑に扱ってるとか、そういう意味で?」 「い、いいえ! 反対です。手毬さんも、私も、母に甘くて、依存させるようなことばかりしていると思います。というか、私はずっとそうだったんですけど、手毬さんもそうなんだなぁって最近気づいたといいますか。だから、その、叱られたって言葉が、妙に気になってたんです」  岳は、はっと顔をあげる。 (有希ちゃんが、しっかりしてるのって……美奈子さんを、支えてきたからなんだ)  コトン、と謎が解けた気がした。  慎一郎は不愛想で到底美奈子を愛しそうもない。そんな慎一郎と一緒に美奈子が過ごせるか疑問だった。実際は何年も別れることなく同棲してたので、実は相性がいいのだろうと思っていたが、そこに有希の存在があったのならば、納得がいく。 「……暫くお会いしていませんが、私や母が、変わっていくみたいに、手毬さんも変わってしまうんですね。少しだけ寂しいです」 「あんなに酷いこと言われたのに?」 「そこが手毬さんの魅力でもあるんですよ?」  岳は首をかしげる。  手毬の魅力というものが岳にはわからないが、さすが有希だ。彼女には、手毬の良い部分も見えているらしい。  もしかしたら、岳が心配するようなことは、ないのかもしれない。 「そっか。慎も変わったしね。慎や美奈子さんを、きみが支えてくれていたおかげだよ」  有希が、驚いた顔をした。  真面目で素直な子だ、と思った。そんな素直さに、慎一郎は惚れたのだろうか。 「これからも、慎をよろしくね」 「はい」  迷いのない返事に、岳が目を細める。  有希の薬指に光るシルバーリングが、眩しかった。  
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