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間幕 美奈子
「どこの馬ともわからん女を嫁にするなんて、あの子も可哀そうに」
祖母が仏間に座って、ご先祖様がいるという仏壇に話しかけていた。
両親が共働きの美奈子は、祖父母の家で日中を過ごし、夜は離れにある両親の家に戻る。父の家はとても大きくて、田舎にあった。そんな家が誇らしかったし、祖父母のことも嫌いではない。
みなちゃん、おやつできたよ。
祖母は毎日、美奈子が昼寝を終えたころおやつをつくってくれる。
まだ美奈子が五歳だから、可愛がってくれるのだろうか。息子の血が流れているから、優しくしてくれるのだろうか。
けれど、ときおり。
「あんたのお母さんのせいで、息子は大変なのよ」と、祖母に正面から嫌味を言われることもあった。美奈子を恨んでいるわけではないふうだったので、あくまで祖母にとってはただの愚痴だったのだろう。
けれど、その言葉は美奈子のなかに残り続けた。
祖母は美奈子の母親に対して、とても厳しかった。
その日も、家で母が泣いているのを見ていた美奈子は、祖母の言葉に、心底腹が立ったのだ。
だから。
つい、思ってしまった。
おばあちゃんなんか、死んでしまえーーと。
翌週の日曜日、自宅が全焼した。
祖父母と両親が焼死体で発見されて、美奈子だけが、救急隊に助け出された。
気を失っていた美奈子が目覚めたのは、病院の真っ白い部屋。あやふやな記憶をたどっていくと、自分の身に起きたことを思い出した。
見舞いにきた幼馴染の手毬から、自分以外の全員が死んだと聞いたとき、愕然とした。
(わたしのせいだ。わたしが、恨んだから。だから、だから)
泣くこともできず、呆然とする美奈子に手毬が「大丈夫」という。
その言葉に、美奈子はカッとなって手毬を睨みつけた。
「何が大丈夫なの。ミナのせいで、みんな死んだの。ミナが生まれたから。ミナさえいなかったら、こんなことにはならなかったの。みんな、みんな、ミナが悪いの。悪い子なのっ」
手毬は、よくわからないというふうに首を傾げた。
「僕は、ミナちゃんが好きだよ」
「うそ。ミナの嫌なところ知ったら、嫌いになるもん。ミナ、嫌な子だもん」
「そうかな。僕にはそうは思えないよ」
「何も知らないからだよ!」
「僕は、どんなミナちゃんでも好きだよ。約束する。僕だけは、何があってもずっと、ミナちゃんのことだけが好きだから。どんなミナちゃんも、好きでいるよ」
そう言って、少し戸惑ったように俯く手毬に、美奈子は言った。
――うそつき、と。
*
中学生のころ、手毬の友人に恋をした。
誰にもなびかない氷の貴公子、と呼ばれたその青年は、見た目の美しさでもてはやされてきた美奈子にも、一切の関心を示さなかった。
あの手この手で、虜にしようとしたけれど、失敗した。
見込みなどないとわかっていたのに、諦めきれなかった。でもそれ以上に、フラれることが怖かった。だから、正面から好きだと言えずに、美奈子は間違った道を選んでしまう。
否定されるのが怖い。
フラれることも、約束を破棄されることも、「違う」と言われることすべてが、美奈子自身の否定につながる。
当時の美奈子は否定的な感情に敏感で、明るく振る舞う反面、心のなかはいつも怯えていた。
結婚してから、夫になった人との生活は、驚くほど順調だった。
絵に描いたような理想的な家族に、美奈子の卑屈な気持ちも溶けていった。人生でもっとも幸せな時間だったかもしれない。
――慎一郎が結婚する、と聞いたあの日までは。
慎一郎の結婚式には、行きたくなかった。
それでも、持ち前のプライドの高さもあって、逃げることは自分が許さなかった。
敵地へ赴くようにして出席した結婚式。途中で退出した美奈子の真っ青な顔を見て、大丈夫ですか、と声をかけてきたのが、克哉だった。
慎一郎の弟。
そう聞いたとき、魔がさした。
慎一郎のことは、もう、忘れていたつもりだった。諦めていたつもりだった。今の生活が幸せで、じゅうぶんだった。
なのに、花嫁と腕を組む姿を見たとき、美奈子のなかでどす黒い感情が弾けた。
お腹に子どもが出来るまで、克哉は特別な存在になった。慎一郎の弟、ということが、美奈子にある種の優越感を与えた。克哉は遊び人で、美奈子もそのなかの一人に過ぎないことは知っていたけれど、だからこそ、一緒にいて気楽でもあった。
お腹に子どもが出来たとき、おろせと言われるのがわかっていたから、克哉とは縁を切った。
騙せると思った。
美奈子の簡単な愛の嘘に引っかかった、単純な夫だから。
だが、現実はそうではなかった。
二人目の子ども――克哉の子どもが生まれて数年が経ったころ、夫が出て行った。
美奈子がもっとも傷つく言葉を並べて、美奈子のすべてを否定して、家を出て行った。
夫が出て行ったとき、美奈子は泣いた。
自分が愚かで、こんな自分が生きていることが許せなくて、愚かだとわかっているのに愚かな道しか選べない自分が嫌いで、生きていることが恥ずかしかった。
プライドばかりが高くて、人より優位にたつことで自分を保つことしか出来なくて、ちょっとした言葉で人格全てを否定されたような被害妄想に陥ってしまう。
滑稽で、愚かな、悲劇のヒロイン気取りの傲慢な自分。
「……違うよ」
崩壊したリビングで座り込んでいた美奈子に、幼い有希が近づいてきた。
その時初めて、有希がすべて見ていたのだと知った。
有希は、美奈子の頭に手を置いて、いいこいいこと撫でた。
「パパは、うそつきだよ」
「……ぇ」
「ママは、愛されるよ。片瀬って人に、愛される。だって、ママだもん。ママのこと、ゆき、大好きだよ」
「ゆき、ちゃん?」
そのときの有希の瞳は、じっと美奈子を見ているのに。
ガラス玉がはめこまれているように、空虚だった。
「大丈夫、愛されるよ。ゆきは、ママの味方だから」
そう言って、小さな両手で美奈子を抱きしめた有希は。
小さな声で、ぶつぶつと呟き続けた。
「片瀬さんを愛しているの。片瀬さんに、愛される。私が愛しているのは、片瀬さんだけだから」
娘が同じ言葉をずっと呟き続ける姿に、美奈子は愕然とした。
祖母の姿が過る。
祖母が美奈子に言った言葉と、美奈子が夫へ投げかけた言葉が重なる。
有希があの言葉をすべて聞いていたのなら、それは、有希にとって、呪いの言葉になるのではないか。
美奈子の奥深くに、今なお、祖母の言葉が根付いているように。
有希の幼い心の奥に、美奈子の言葉は棘となって血肉をえぐってしまう。
美奈子は、有希を抱きしめた。
有希はまだ、呟き続けている。
「大丈夫。私は、片瀬さんに愛されるから」
「有希ちゃん、いいの。もういいから」
「私が好きなのは、片瀬さんだけなんだから」
「有希ちゃん!」
「……ママ」
有希がそっと身体を離して、美奈子の顔を覗き込んだ。
その目はまだ、空虚なままだ。
「ゆきはずっと、ママの味方だからね」
それは美奈子が欲しかった言葉だった。
有希は美奈子を抱きしめて、「大丈夫だよ」と繰り返す。
言葉通り、次の日から、有希は美奈子をこれまで以上に気遣うようになった。
元々人の感情に敏感な子だったけれど、美奈子の役にたとうと懸命に動き回った。初めて作った料理が失敗したときは落ち込んでいたけれど、上手にできたときに「おいしい」と褒めると、有希は嬉しそうに微笑んだ。
有希にとって、美奈子の存在がとても重要なものになっていると気づいていた。
美奈子は美奈子が嫌いだったけれど、有希は美奈子を愛している。
そのことが、美奈子の生きていく理由に繋がった。
―――
――
―
手毬の家から出て行こうとする有希に、すがりつく。
有希は、悲しみと不安、申し訳なさを表情に浮かべて、そっと、美奈子を振りはらった。
初めての拒絶だった。
有希はいつだって、美奈子の味方だった。
慎一郎といい雰囲気になっているのは知っていたし、いつか慎一郎が、慎一郎自身が抱いている気持ちに気づいたとき、二人は恋人になるだろうとも、思っていた。
そのことを察したとき、驚くほど慎一郎へ未練がないことに、美奈子は気づいた。同時に、有希の感情を危惧した。
今の美奈子には、とっくに、慎一郎などより我が子である有希のほうが何倍も大切になっている。
有希が誰かに恋をしたときは、全力で応援しようと決めていた。たとえそれが慎一郎でも構わなかった。有希が笑っていてくれるのなら、それだけで。
けれど、有希が出て行ったこの日。
美奈子の脳裏にあるのは、夫が出て行ったあのときの有希の姿だった。
――私が好きなのは、片瀬さんだけなんだから
幼い有希が繰り返す言葉は、まるで、自己暗示のように思えた。
有希は、人の心に寄り添うことが出来る子だ。
俗にいうエンパスの一種で、人の心に寄り添えるが、人の感情に同調しすぎてしまうときがある。
有希自身の感情か、相手の感情か、わからなくなるくらい、有希は相手の心を感じ取ってしまうのだ。
電車で、バスで、歩道で。
すれ違う人たちに同調しては、泣いたり、笑ったり、幼い頃は他人の感情に振り回されていた。
年齢を重ねるにつれて、有希は無意識にコントロールできるようになってきたようだけれど。
美奈子は、有希が人の心に敏感な性質であることを、怖くなるほど知っていた。
「……いつから、なの」
いつから有希は、慎一郎が好きなのだろう。
それは本当に、有希の感情なのだろうか。有希自身が決めて、選んだ道なのだろうか。もしかして、美奈子が吐いてしまった呪いの言葉に縛られてはいないだろうか。
有希ちゃん。
そうつぶやく美奈子の肩を、手毬がそっと抱き寄せた。
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