ずっと、これからも。

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ずっと、これからも。

 ふっ、と目が覚めた。  有希はベッドから降りて、机に置いておいた水差しから、ガラスコップに水を入れた。つい先ほどまで、多忙だった時間を埋めるように、何度も肌を合わせていたために、喉がからからだ。  水を一杯一気飲みしてから、有希は窓側の椅子に座った。  ベッドでは、慎一郎が心地よさそうに眠っている。  美しい見た目は、夜の闇のなかではぼんやりとしか見えないけれど、静かな寝息が、彼を眠っているのだと教えていた。  有希は、カーテンを少しひらいて、眼下に広がる夜の海原を見つめる。真っ暗で、果てがみえない海は、ただの闇だ。まるで、有希自身のようだと思った。  ハネムーン、というには近場だが、有希たちは今、二人で旅行にきていた。海が見えるホテルで夕食に美味しい海鮮を食べて、そのあとは一緒に風呂に入って。  愛する人からこれでもかというほどに求められて、全力で応えたあと、二人で眠りに落ちた。  指に光る二対の指輪が、星明りできらりと光る。  一つは、有希が買った婚約指輪。  もう一つは、慎一郎と選びにいった結婚指輪。  先月、めでたく結婚し、入籍をした有希と慎一郎は今、一戸建ての住宅で暮らしている。生憎と新築ではないが、二人で暮らすには立地もよく、子ども部屋に使える部屋もあるうえにキッチンが綺麗なので、とても気に入っていた。  理想的な、結婚生活だ。  絵に描いたように、幸福な。  有希は、静かな夜の海を眺めたまま、ただじっとしていた。  まるで夢のなかにいるように、現実感がない。  ふと時計をみると、もう朝方近かった。どうりで、目覚めたときから、眠気が去っているはずだ。 「……有希?」  もぞ、と布団が動いて、慎一郎が顔をあげた。  窓際に有希の姿を見つけると、目をこすりながら起き上がって、ベッドから降りる。そのまま有希のほうへ来ると、有希を立たせて椅子に座り、有希を膝に座らせた。 「慎一郎さん、向かい側の椅子が空いてますよ」 「んー、そうですか」 「寝ぼけてますね」 「そうかもしれません。なんだか、とても幸せで」  後ろから有希を抱きしめた慎一郎は、下着一枚だ。有希はバスローブを羽織っているけれど、さすがにこのままでは慎一郎が風邪をひいてしまう。 「布団に戻りましょう、冷えますよ」 「大丈夫ですよ、部屋は暖房が聞いてますから」  季節は流れて、冬になっていた。  好きな人と過ごす時間はあっという間で、ずっと胸に残っている言葉があっても、忘れさせてくれるほどに、幸せだ。  けれど、ふとしたときに、思い出す。 ――私はいつから、慎一郎さんを好きなんだろう  恋とは、どんなふうに落ちるものなのか。  世の中の人々は、それを説明できるのだろうか。  有希が慎一郎と出会ったのは、まだ小学生のころだ。あのときは、慎一郎を恋愛対象と見ていなかった……のだろうか。いや、すでに慎一郎は「男」だった。なぜならば、慎一郎の前にいるときの美奈子は、「女」だったからだ。 「……いつから、慎一郎さんのことが、好きになったんだろ」  大したことじゃない、と笑う人がいるかもしれない。いつだっていいじゃないか、と。  けれど、有希にはどうしても、そのことが引っかかって仕方がない。あんなに美奈子を守ると誓ったのに、慎一郎と両想いになれて、美奈子を裏切った。  幸せな日々のなか、眠るたびに見る過去の夢。  そして脳裏に残る、父親の言葉。 ――お前みてぇな女、一生、片瀬ってやつに、愛されるわけねぇだろ!  その言葉に、有希は無意識のなかで笑って言い返すのだ。  見てみろ、私は今、愛されている、と。 「それは、知りたいですねぇ」 「わっ、起きてたんですか」  慎一郎の手が、有希のバスローブのなかに入ってきた。やわやわと胸に触れる手をそのままに、有希はそっと視線をカーテンにやる。 「いつ頃からですか?」 「わからないんです。気づけば、好きでしたから」 「そうですか。思えば、あなたは最初から、私に優しくしてくれましたね」  何気ない慎一郎の言葉に、身体が大きく跳ねた。 ――最初から  はっ、と有希は顔をあげる。  もしかして有希は、幼いころのように、美奈子の感情に同調してしまっていたのではないか。だから、父親が美奈子の言った言葉を、まるで自分が言われたかのように感じてしまっているのでは。 「……小さいころ、母が慎一郎さんの話をしているのを聞いてしまったんです。母は、慎一郎さんのことをとても愛していて。それを聞いた幼い私は、もしかしたら」 「そのことから、気にかけてくださっていたんですか?」  慎一郎の言葉に、有希は唇を噛んで黙り込んだ。  ふふ、と慎一郎が笑う。 「それは、嬉しいですね」 「嬉しい? どうしてですか。私は、母の感情に流されただけかもしれないのに」 「ああ、あなたは感受性が豊かですからねぇ」 「……かなり」 「私としては、気にかけてくださったことが嬉しいのですが。有希は、何か気になっているのですか」 「……私は、本当に慎一郎さんを」 「愛しているかわからない?」  有希の言葉を引き継いで、慎一郎が言った。バスローブのなかに忍び込んでいた手が止まる。 「有希」 「……はい」 「私が、ほかの女性を愛しても何も感じませんか?」 「え?」 「私が、有希ではないほかの誰かと肌を合わせて、愛を囁いて、それから――」 「嫌です!」  肩越しに振り返って身体をひねると、慎一郎の首に両手を回した。慎一郎が、低く笑う。大人の余裕といった、穏やか声だった。 「きっかけなんて、些細なことです。どんな始まりでも、どんな経緯でも、今、私とあなたはここに、夫婦としているんです。それが、すべてではありませんか」  慎一郎が有希の顔を覗き込む。  穏やかな瞳に見据えられて、有希は生唾を飲み込んだ。 「ほかに、不安なことは?」 「……えっと」 「なんでも構いません。話してください。あなたは聡いですから、自分で解決しようとするでしょう? けれど、こうして聞いたら話してくださる。私はそれが、とても嬉しいんです」  慎一郎の言葉は、有希の全身に染みて、暖かく、胸の奥へ奥へと広がっていく。  胸の奥底に刺さっていた棘のようなものが、暖かい波にさらわれて、遠くへ行くのを感じた。  どんな始まりでも、どんな経緯でも、今、私とあなたは、ここに夫婦としている。それがすべて。  慎一郎の言葉は、魔法のようだ。  不安だった気持ちが、消えていくのを感じた。単純な自分に笑ってしまう。けれど、それが嫌ではなかった。 「不安といえば、あの」 「なんです?」 「し、幸せすぎて、怖いです」  言ってから急に恥ずかしくなって、慎一郎の首筋に顔を押しあてた。  慎一郎がまた、笑う気配がする。 「私もです。……マリッジブルーは、終わりましたか?」 「まり……これが?」  ふと、慎一郎は考える素振りをみせた。  僅かな沈黙が、少しだけ胸を圧迫する。 「もし、あなたが美奈子さんの感情に流されて、今があるのだとしたら。今後行うことは、確実にあなたの意志によるものですね」 「え……今後?」 「まさか、結婚がゴールなんて思っていないでしょう?」  穏やかに問われて、ぽかんとした有希は、少しだけ首を傾げた。慎一郎に愛される、恋人になる、結婚する。そのあとは――。 「穏やかな結婚生活を送る、んですよね」 「それは大前提です。具体的に決めましょうか。まず、子どもは何人ほしいですか?」 「ふぁ⁉」  子ども、というと、有希が産むということだろう。 (自分が母親になる?)  この歳になっても、一度として想像したことがなかった。有希は美奈子の娘、そういった立場だからだ。  けれど、慎一郎に言われて初めて思い描く自分の母親像は、ぬくもりに溢れていた。  傍には慎一郎が穏やかに微笑んでいて、すがってくる子どもをあやしている。有希は朝食の準備をしていて、傍の赤子のベッドには幼い娘が眠っていた。場所は、新しく構えた新居だ。  ふいに、涙があふれてきた。  何を悩んでいたのだろう。  これまでの自分は、あくまでこれまでの自分でしかない。今、ここにいることを選んだのも、今後を歩んでいくのも、有希自身なのに。 「ふ、ふたり。男の子と、女の子が、いいです」 「いいですね、私も同じ意見です。……子どもには、なんて呼んでもらいましょうか」 「呼び方、ですか?」 「ええ。いろいろとありますからね。私は、今でこそ母を、母さん、と呼んでいますが、以前はちゃんと、お母さん、と呼んでいたんですよ」 「そうなんですね。私は、ママ、ですね。母がそう呼ぶようにと言ったので。周りもママと呼ぶ子が多かったですし」 「お父さん、パパ……どちらも甲乙つけがたい嬉しさですねぇ」  思わず、笑ってしまう。  まだ生まれていない子どもから、なんて呼ばれようかと考えている自分たちの、甘ったるさに。この甘さが心地よくて、有希は慎一郎の胸に凭れた。 「私は、お母さん、って、呼ばれたいです」 「おや、どうして」 「……たぶん、昔見たドラマか何かで、幸せそうな家族があって。そこで、そういうふうに呼ばれていたと思います。ああ、でも、名前で呼ばれるのも嬉しいかも」 「名前ですか?」 「はい。有希ちゃん、とか、有希さん、とか」 「それはいけません。有希のことは私が名前で呼ぶのですから、子どもたちにまでその特権は差し上げたくありませんし」 「……特権」 「はい。ですから有希も。私のことは、できるだけ、名前で呼んでくださいね。子どもが出来て、傍にいて当たり前のような存在になっても。家族として暮らしていくなかでも、私を私の名前で、呼んでください」  想像する。  十年、二十年、そしてその先も。  ずっと、慎一郎から「有希」と呼ばれる未来は、あっさりと想像できてしまう。しかもやはり、その想像はぬくもりに溢れているのだ。 「……はい」  微笑んで頷くと、頭を撫でられた。 「もう少し眠ってはどうですか。まだ時間はありますから」 「そうですね。急に、眠くなってきました」  不思議と、慎一郎に抱きしめられると安心した。この腕のなかが、まるで、有希の居場所のようだ。  名残惜しかったけれど、慎一郎の腕から離れてベッドに戻った。  慎一郎を見ると、カーテンの隙間から海を見ている。果ても、底も見えない、ただの闇が広がっている海を。 「……海、怖くないですか」 「とても綺麗ですよ。朝日が反射して、きらきらと輝いて」  慎一郎はそう言う頃には、カーテンがぼんやりと明るくなり始めた。 「ここから朝日がみえないのが残念ですが。海ってこんなに広いんですね。本当に、美しい」  慎一郎の声は、まるで、子守歌だった。  いつだって有希を安心させてくれる。  有希は、うとうととし始めてすぐに、眠りについた。  幸せな未来がくることを、実感しながら。
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