第一章 二人きりの誕生日

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 有希より二十五歳年上の慎一郎は、今年で四十五になる。  文字通り親子ほど歳が離れており、事実、義理の父娘という立場だ。  有希は、慎一郎への気持ちが恋だと自覚した瞬間に、失恋した。慎一郎は、女性に興味がないのだ。だから男性に興味がある、のかどうかは、知らない。  ただ、慎一郎が女性を愛することはないという。  だからこそ、一度目の結婚も、偽装結婚だった。  そのことに、ほっとする厚かましい自分がいることを、有希は知っている。慎一郎が女性を愛することのできる立場なら、端正な顔立ちの彼のことだ、モテるままに女性に手を出していたかもしれない。  怖さが際立つ彼だが、その顔はとても整っている。  野性的というよりも、繊細な女性を思わせる儚ささえ見て取れるほど、中性的な美しさがあった。長身のために女性には見えないが、スーツや銀縁眼鏡の奥で怜悧に光る目がなければ、とてつもない美人である。 「グラスをふたつ、頂けませんか」  食事も終わろうかというとき、慎一郎が言った。  有希は軽く首を傾げたが、頷いて、食器棚へ向かった。 「ビールですね」  秋から冬へ変わるこの季節、慎一郎はあまり冷たいものを呑まない。夏場はビールを好むが、冬は日本酒がおもだ。  珍しいと思いながらビール用のガラスコップを手にとったとき。 「いえ、ワイングラスを……ふたつ」  ふたつ?  いや、それもだけれど、我が家にワインなど置いていない。  焦った有希が、「あの」と言うと、慎一郎は「早くしてください」と有希を急かした。  言われるままにワイングラスを持っていくと、慎一郎の手にはワインボトルがあった。驚く有希に苦笑して、慎一郎は慣れた手つきでワインのコルクを抜く。  ぽん、と心地よい音がした。 「初めてのお酒なので、少しだけにしますね」  そう言って、慎一郎は二つのワイングラスに少しのワインを注いだ。 「あの、片瀬さん。それって、もしかして私の分ですか」 「ええ」 「でも私、未成年で」 「未成年でいられる時間は、あと一分もないですよ」  有希は、こぼれんばかりに目を見張った。  部屋の時計は、零時をさしている。いや、あと数秒で零時になる。あの秒針が、上までいったら。  いつから、美奈子は子どもたちの誕生日を祝うのを辞めただろう。  有希は小さいころから、誕生日がすきだった。祝ってもらえることが嬉しくて、大人になれることが嬉しかった。 「二十歳の誕生日、おめでとうございます」  慎一郎はそう言って、グラスを近づけてきた。ゆったりと揺れる赤いワインから、芳醇な香りがして、匂いだけで酔ってしまったのか、有希はくらりと眩暈を覚えた。  雰囲気のままグラスを手にとると、慎一郎が軽く乾杯をして、ワイングラスに口をつげる。真似るように、有希もワイングラスに口をつけた。  初めてのお酒は、赤ワイン。  渋みのなかに、惹きつけるような濃くがあって、ついまた飲みたくなってしまう。ふたくちめ、ともう一度ワインを飲んだ頃。  やっと、状況に頭がおいついてきた。  美奈子の好きな魚の煮付は、作るのに時間がかかる。それでも頑張って仕事終わりに作ったのは、祝ってほしかったから。  美味しいわ、と言いながら食べてくれる美奈子の姿は、今日はない。  いや、今日も、というべきだろうか。  けれど、もう、どうでもよかった。  有希の誕生日を覚えてくれる人がいたのなら、それは美奈子だけだと思っていた。だが、ここに美奈子はおらず、慎一郎がいる。  祝いのワインまで持参して。  それだけで、胸がいっぱいだった。  慎一郎は始終笑みもなく淡々としているけれど、彼もまた、今を楽しんでいるのが感じられた。 「……ありがとうございます。私、今を一生忘れません」  そう言ったとき、慎一郎が微かに目を見張った。  その意味を知ることのない有希は、初めて口にしたワインと、誕生日を恋する男性に祝ってもらったことに浮かれた。  だから、慎一郎の表情が険しくなったことに、気づかなかった。
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