第一章 二人きりの誕生日

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 ザー、と身体を流すシャワーを頭から浴びながら、慎一郎は先ほどの有希の表情を思い出して、唇を噛む。  初めて会ったときの彼女は僅か八歳だったが、すでに年齢にそぐわない大人びた少女だった。仕事で不在の母親に代わって家事を行っていたという有希は、美奈子が仕事をやめてからも、美奈子と一緒に家事を行っていた。  とりわけ、慎一郎の身の回りに関する洗濯や掃除、食事作りは、すべて有希がしていた。美奈子は関わってよいのかわからないようで常に怯えていたし、慎一郎本人に確認しようとも考えていなかったようで、予め言っていたように、慎一郎に関しては一切ノータッチを通していた。  それでいいと思った。  これまでのように、食事は買ってくればいいし、洗濯は休みの日にまとめてすればいい。子どもたちの分がなくなる分、遥かに楽だと喜んでさえいた。  だが、同じ家で暮らし始めた初日。  深夜に帰宅した慎一郎に、有希は「おかえりなさい」と言った。初めて言われた言葉に驚いたが、さらに慎一郎を驚かせたのは彼女が慎一郎の夕食を用意していたことだ。  八歳の少女が、料理が出来るとも思っていなかった。  それからも有希は夕食をつくり、朝食も部屋まで運んでくれるという気遣いをみせた。リビングではほかの家族が朝食をとっているため、慎一郎が敬遠すると思ってのことだった。  有難く朝食も受けることにした。  洗濯も、有希は当たり前のように慎一郎の分もした。帰宅すると、部屋のベッドに洗濯物が畳んで置いてあるのは、なんだか不思議な心地だった。  息子たちが家を出て行ってからは、夕食の時間がずれ込んだらしく、慎一郎と一緒に有希も夕食をとることが増えていった。  いつの間にかそれが当たり前になっていて、今日、有希が見せた笑顔を見て、気づいた。  彼女は、もう、二十歳なのだ。  一生忘れません、と彼女は言った。  まるで――そう、まるで、嫁にでも行くかのようだ、と慎一郎は思ったのだ。  そのとき、酷く不快な眩暈がした。  有希はいずれ、結婚してこの家を出て行くだろう。  就職しても家に残った彼女だが、結婚すればそうもいかない。  結婚相手によっては、美奈子を連れて家を出て行き、完全に慎一郎と関わることがなくなる可能性もある。 (結婚相手、ですか)  もう二十歳だというのに、今まで慎一郎が有希に異性の影を想像さえしなかったのは、有希がいつも家にいたからだ。  慎一郎の仕事が休みの日、息子たちは大抵理由をつけて外出したし、それは美奈子と琴葉も同じだった。だが、有希はいつも家にいて、慎一郎に昼食をつくり、ゆったりと家を掃除していた。  友達と出掛けないのか、とか、恋人がいないのか、など考えたこともなく、ただ、そういうものだと思っていた。  有希はほかのやつらと違い、慎一郎の傍にいるものなのだ、と。  だがそれも、美奈子がこの家で暮らしているという前提のもとだ。  頭を乱暴にタオルで拭きながら、湯舟に浸かり、深いため息をつく。 (寂しいんでしょうか)  物心ついたころから、慎一郎は自分の感情がよくわからないでいた。  周りからも何を考えているのかわからない人間だと思われていたが、見目の美しさから、言い寄ってくる女は大勢いて、それもまた鬱陶しいことこのうえなかった。  そう、鬱陶しい、という感情はよくわかる。  腹立たしい、不愉快、そういったこともわかる。  だが、その反対である喜びに対して、慎一郎は酷く疎かった。  風呂からあがると、リビングのソファに有希がいた。いつもならば、夕食のあと、部屋に戻っているのにどうしたのだろう。  乾かしたばかりの髪を軽く書き上げながら、「どうしたんですか」ときく。前髪はいつも頭に撫でつけているので、髪を下ろすと邪魔で仕方がなかった。切りにいけば済む話だが、その時間があれば仕事や資格の勉強をするほうが有意義だと、一種の惰性に等しい考えがある。  かきあげた前髪がぱさりと目にかかるのと、有希がゆっくり顔をあげたのは、ほとんど同時だった。 「え?」  呟いたのは有希だ。  驚いた顔で、慎一郎を見たあと、はっとしたように時計を見た。 「……ごめんなさい、ぼうっとしてました」 「仕事疲れでしょう。仕事に家事と、動きすぎですよ」 「そんなに動いてませんよ。……なんだか、寝ちゃうのが勿体ないなって思ってたら、ぼうっとしちゃって。ふわふわして、楽しいんです」 「もしかして、酔ってますか」  これまで有希はアルコールを摂取したことがなかったはずだ。  何気なく、近づいて有希の額に手を当てる。別に風邪ではないのだし、額に手を当てる必要もない。そう気づいたと同時に手を離すと、頬を赤くした有希がみえて、やはりアルコールが回ったのかと眉をひそめた。  少量とはいえ、彼女にはきつすぎたのだろう。  度数が低めのものを選んだとはいえ、ワインではなく、チューハイくらいにしておけばよかっただろうか。 「気分は悪くないですか」 「……え、あ、はい。大丈夫です」  有希はそう言って、慌てて立ち上がった。  途端にふらつく有希を、腰に腕を回して支える。自分の胸に凭れかかるように支えてやれば、有希はぴくりとも動かなくなった。  微かに見える頬は、先ほどよりも赤くなっている。 「水、飲みますか」 「……大丈夫です」  ふと。  抱き留めた有希の頭が、自分の胸のあたりにあることに驚いた。  女性にしては小柄なこともあって、まだ小さいと思っていた有希だが、実際はこんなに成長していたのだ。  身長だけではない。抱きかかえる腕のなかにある身体は柔らかく、女性らしい丸みを帯びている。香水などつけていないはずなのに、とてもよい香りがした。成熟した女性の、異性を惑わせる香りだった。  慎一郎はこの匂いが苦手で、女性に対して嫌悪さえ抱いているが、有希のそれは柔らかくて甘く、安心さえ覚える。  先ほど覚えた喪失感が、蘇る。  こんなにも美しく可愛く育った有希は、いずれ、嫁に行くのだ。 「あの、片瀬さん……?」  腕を離さない慎一郎を、おずおずと見上げてくる有希は、おのれの行動が男性の保護欲を煽っていることに気づいているのだろうか。  有希の目が潤んでいるのは、アルコールのせいだろう。なのに、まるで慎一郎に対する情欲に燃えているように錯覚させる。 「あなたが出て行くと、寂しくなりますね」 「え?」  咄嗟に口から出た言葉に、自分でも驚いた。  だが、有希はそれ以上に驚いた顔をしている。 (私が、寂しい、と思っている?)  物心ついたときから、感情などほとんどなかった。寂しいなどと考えたこともない。一人が当たり前の日々のなかで、机の上に無造作に置かれたお金だけが、唯一信じられるものだった。 「私、出て行かないといけないんですか?」 「え?」 「今、出て行くと、って。私、何かしましたか? 片瀬さんの気に障ること。何かしてしまったのなら謝ります。改めますから、どこがいけなかったのか教えてください。私、ここを出て行きたくないんです」  有希は一気に言うと、抱き寄せたときからわずかにおよび腰だった身体を、乗り出してきた。色気があるような密着ではなく、怒られた子どもが許しを乞うため、親に縋りつくようなものだ。  それでも有希は子どもではなく、女性らしい身体をしていることに変わりはない。  服越しに、有希の肌の熱さや柔らかさを感じた。身体の奥が、ジンジンとしびれるような感覚を覚える。  こんな感覚は、初めてだ。  そう思ったとき、下腹部にある男性の象徴が首をもたげ始めていることに気づいた。  その意味が理解できず、慎一郎の頭のなかはパニックになる。そこへさらに、返事のない慎一郎に不安を募らせた有希がくっついてくるので、思考がかき乱されて、ますます考えがまとまらない。  痛いほどに象徴が起立する頃に、やっとのこと、思考が追いついた。  有希の両肩を掴み、自分から引き離す。視線を己の下半身に向けると、夜着では到底隠しきれないほどに起立した膨らみを認めて、何度も目を瞬いた。 「……勃っている?」  自分の呟きが信じられなくて、スラックスのなかを覗き込む。やはり、そこの膨らみは間違いなく、興奮して膨張している自分自身だった。  吐き気を覚えて、口元を手で強く押さえた。  瞬間、脳裏をかすめたのは、物心つくころには当然のように見慣れていた、おぞましく抱き合う男女の裸だった。  縁を切った妖艶な母親は、数多の男を家に呼んでは身体を差し出し、カネを得ていた。狭い部屋に満ちる色の香り、裸で抱き合う男女。  うっとりとした目で身体をくねらせる母親に、浅黒く膨張した男のそれが挿し入れされる様子は、慎一郎に嫌悪を与えた。  母が連れ込んだ男たちと、自分は今、同じように下腹部を膨張させている。  これまで、こんなことはなかった。自分はほかの男と違い、あんなおぞましい行為を望んでいるわけではないと、自負していた。むしろ肌を重ねて欲を発散する者たちを軽蔑さえしていた。  なのに。  今。自分は。 ――気持ちが、悪い 「片瀬さん!」  慎一郎の意識を引き戻したのは、有希の声だった。  焦ったような、不安なような、今にも泣きそうな顔で、有希が慎一郎のシャツを、震える手で掴んでいる。 「大丈夫です!」  有希が言う。 「片瀬さんは片瀬さんですから!」  何を思って、有希がそんなことを言ったのかわからない。  けれど、その言葉は慎一郎の沈む気持ちをすくいあげ、自己嫌悪に吐きそうになっていた気分を宥めた。  気を抜いたとき、慎一郎は有希を抱きしめていた。  咄嗟のことだったが、当たり前のようでもあった。こうしなければならないような気さえした。  いつの間にか下腹部はもとの姿に戻っており、有希を抱きしめる己の腕が震えているのがわかった。このとき、有希が抱きしめ返してくれなかったら、慎一郎は過去に囚われて発狂していたかもしれない。  それほどに、いくつ歳を重ねても、幼いころ植え付けられた嫌悪は拭えないままだ。 「……有希」  義理の娘の名前を、呟いた。  その甘さと乞うような切実さを秘めた声音が、恋人を求める男のようであることに、慎一郎は気づかない。
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