第二章 初めてのデート

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第二章 初めてのデート

 まだ夜が明けないうちに、慎一郎の部屋に入るのは初めてだった。  有希は、ベッドで静かに寝息をたてる慎一郎の顔を見ていた。ほんの少し前の有希ならば、彼の寝顔を見て微笑んだり胸を焦がしたりしただろう。  つい先ほど、これまでになかったことが幾つも起きて、有希は戸惑っていた。  慎一郎は、有希を甘い声で呼び、抱きしめたまま動かなくなった。気だるげに項垂れた様子の慎一郎に、有希は、部屋に行くように促した。  慎一郎は促されるまま自室へ向かったが、有希が離れるのをよしとせず、部屋まで連れて行った。  そして、有希の腕を離さないままベッドへ入った瞬間、ぷつりと糸が切れたように、慎一郎は眠りについたのだ。  尋常ではなかった。  慎一郎のこんな不安定な姿は、これまでに見たことがない。  穏やかな表情で眠る慎一郎を眺めながら、有希は考える。  抱きしめられた腕の強さは体に残っているし、有希を抱きしめた慎一郎が男性器を主張させていたところも見てしまった。  どれも衝撃で、戸惑い以上に嬉しさが胸を占めた。  ありえない出来事に舞い上がりすぎて、固まってしまったといってもいい。  けれど、それ以上に衝撃だったのは、そのあとだった。  慎一郎が顔を真っ青にして口を押えたときだ。  この世の終わりのように絶望的な顔を、有希は初めてみた。慎一郎の、という表現では足りない。これまで出会ったどの人間においても、あのように恐怖に慄く表情を、有希は見たことがなかった。 (ごめんなさい)  心のなかで、謝った。  何が起きたのかわからないけれど、慎一郎にとてつもない負担をかけたことは確かだ。彼が女性を愛せないことと関係があると想像は出来たが、起きたものは仕方がないと割り切れるほど、有希の神経は図太くない。  誕生日を祝ってもらって、舞い上がってしまった。  普段なら、夕食の食器を片付けるとすぐに部屋に戻るのに、今日はそれをしなかった。浮遊感にも似た興奮が身体を占めていて、今日を終わらせたくなくて、眠ってしまったら何もかもが過去になってしまう気がして、まだ部屋にいたかったのだ。  結果として、慎一郎に負担をかけてしまうことになるなど、誰が想像できただろう。  有希は自分の身体を見下ろした。  幼いころと違い、有希の身体は随分と女らしくなった。小柄な体躯だが、それなりに成熟した女性のそれになっている。  慎一郎は女性を愛せない。避けていると言ってもいい。  先ほど慎一郎は、興奮した己を見て、顔を青くした。突き放すように有希を押しやった力は強く、痛みが走ったほどだ。  男性の興奮は生理現象で、いわゆる三大欲のひとつだ。完全に断ち切ることは難しいだろう。慎一郎もそれはきっと、同じはず。だからこそ、彼は女性を近寄らせないのかもしれない。  興奮する自分自身に嫌悪するような姿を見て、有希はそう察した。  理由はわからないが、彼は性欲に溺れたくないのだ。  有希は自分の身体を抱きしめた。 (子どものままなら、よかったのかな)  慎一郎が「出て行ったら」と言った理由も、有希が大人になったことと関係があるのだろう。そうとは知らず、有希は大胆にも慎一郎にしがみついて、子どものように問い詰めてしまった。  有希は慎一郎の部屋を出ると、リビングを片付けて、自室に戻った。  ベッドに入ってもなかなか寝付けないまま時間だけが過ぎていく。明日の朝いちばんに、出て行ってくれ、と言われるかもしれないという恐怖もあった。  浅い眠りを繰り返して、はっと目が覚めたのは午前六時頃だ。  いつもならば寝過ごしている時間だが、今日は土曜日なので、ゆっくりと家事ができることが救いだ。  疲れが残るだるい身体を無理矢理動かして、着替えを済ませると、ダイニングキッチンへ行く。寒さに震えながら暖房をつけて、朝ご飯の準備を始めた。  味噌汁をつくり、ハムと卵焼きを焼いて、付け合わせのサラダを皿に盛る。主食は昨夜の残りが炊飯器にあるので、それをよそうことにした。  七時を過ぎた頃、慎一郎が起きてきた。まだ夜着のままだが、しっかりと目は覚めているようで、有希を見ると「おはようございます」と言った。 「おはようございます!」  あえて、明るく返事をした。  慎一郎は変わらずの無表情で眼鏡を押し上げて、前髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、食卓の椅子についた。  それを見て、用意していた朝食をだした。  ご飯をよそい、箸とコップ、茶も机に並べる。  準備を終えると、有希も椅子に座って、自分の分を食べ始めた。 「有希」 (きた)  きっと、昨夜のことだ。  さっと血の気が引く思いで顔をあげると、僅かに緊張した面持ちの慎一郎と目が合った。 「今日は、何か予定がありますか?」  慎一郎がいう。  予想外の言葉に、有希は目を見張ったあと、首を横にふった。 「いえ、とくには」 「なら、どこかへ出かけませんか」 「それは、あの、部屋探しとか、そういうことですか」  遠回しに、出かけてこいお前やることがあるだろ、と言われているのでは、と勘ぐってしまった有希に、慎一郎が首を傾げた。 「なんのことでしょう」 「いえ、すみません。なんでもないです」  さすがに被害妄想が進みすぎだ。  慎一郎は、そんな回りくどい言い方はしない。出て行ってほしいときは、出て行けとはっきり言うだろう。おそらく。  慎一郎は、ふと口元に笑みを浮かべた。  本当に微かなものだが、彼はたまに、こうして笑う。不機嫌な表情ばかりだと思われがちだが、そんなことはない。無表情が普段の表情ゆえに、不機嫌さが際立って見えるだけなのだ。  久しぶりに見た笑顔に、有希は嬉しさを押し隠して、平常心を装ってきく。 「出かけるというと、どこにですか?」 「どこがいいでしょうか。この時期は冷えますから、室内がいいですね」  有希は、益々驚いた。  慎一郎は行き先を決めていないのだ。行く場所があるから付き合え、ではなく、出かけることそのものに付き合え、という意味だと、有希は今頃になって理解した。 (なんだか、デートみたい)  緩みそうになる表情を引き締めて、自分を叱咤した。都合のいい妄想はやめよう。何がきっかけで慎一郎に負担をかけてしまうかわからないのだ。常に現実を見ていなければ。  安易に、理由もなく、大丈夫だと思い込むことは辞めると決めた。父が出て行ったとき、取り返しのつかないほどの後悔をしたから。  有希は慎一郎を見て、小首を傾げて問う。 「片瀬さんは、行きたいところはありますか?」  問うと、慎一郎は考える素振りをみせた。  長考に入ったようで、有希は味噌汁に口をつけた。 「私はこれまで、デートというものをしたことがないので、思い浮かびませんね」 「ぶふうぅ」  味噌汁を見事に拭いた有希は、激しい咳をした。味噌汁で咽るなど何年振りだろうとどうでもいいことを考えながら、「大丈夫ですか?」と聞いてくる慎一郎に軽く手をあげて、大丈夫だと示した。 「ごめんなさい。聞き間違えてしまったみたいで、驚いてしまって」 「そうでしたか。てっきり、私がおかしなことを言ったのかと」 「とんでもない!」  焦りから勢いよく否定して、口元をぬぐう。  慎一郎がまた笑みを浮かべた。 「有希は、行きたいところはありますか」 「え、っと」  行きたいところ。具体的にいうと食料の買出しだろうか。二日分はまとめて購入しておきたいが、それは明日でもいいだろう。ほかに思い浮かぶのは、掃除用の消耗品を購入に、ホームセンターに行くことか。 (……片瀬さんとなら、どこでも嬉しいけど)  これまで、慎一郎と出掛けるなどなかったため、彼がどういった方面に「おでかけ」を望んでいるのかわからない。 「あのう、ちなみに、どういった趣旨の外出でしょう? 気分転換とかですか」  だったら、ゆったりするか、身体を動かすか、などにも分かれる。  慎一郎は一体何が好きなのだろう。思えば彼の好みについて、有希は何もしらない。食事を食べる姿から、なんとなく食べ物の好き嫌いは察しているけれど。 「男女のなかを深めるものがよいと考えています」 「……ほ?」 「私は、その方に異性だと自覚されていないようなので、それを理解していただけるようなプランが好ましいですが」  いつもの淡々とした声だが、それは、まるっきり、デートだ。  先ほどの言葉は聞き間違いではなかったのか。 (それよりも、それって、つまり)  慎一郎には、意中の女性がいるということだ。  その模擬デートに、有希を誘っているのだろう。これは想像だが、慎一郎には、こんなことを頼める女性が有希しかいないのかもしれない。  昨夜の一件で、有希は自分がしてしまった愚かさを嘆いて、自分の今後に恐れていたが、慎一郎は有希が到底思いもよらない方向への決意を固めたようだ。  きっと、慎一郎には想いを寄せる人がいる。  その人を口説こうと決意したのではないか、と有希は思った。  無性に悔しくて、胸の奥がざわつく。  不快感に飲み込まれそうになりながらも、誤魔化すように曖昧に微笑んでみせた。 「水族館とか美術館などいかがでしょう。個展などもいいですね」  ここで嫉妬をみせるのは、間違っている。  自分は最初から慎一郎にとっては、論外の存在だ。そもそも内縁の義娘だし、歳だって二十五歳も離れているのだから。  せめて、彼の幸せを願えるようになりたい。子どもじみた独占欲で困らせるのではなく、手放して、応援できたら。  そう思うのに、現実は感情がついていかない。  慎一郎は、その人と出掛けるところを想像しているのか、黙ったまま何度か頷いている。 「では、水族館にしましょう」 「はい。いつ頃出かけますか?」 「開館に合わせて、すぐにでも」 「じゃあ、朝食を食べて洗濯機を回したら、すぐに出ましょう。準備をしておきますね」 「お願いします」  ふたりでの外出が嬉しいはずなのに、ずんと腹の底が重い。  有希は、せっかく二人で出かけることができるんだから前向きに考えよう、と目玉焼きをつついた。
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