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水族館は、車を四十分ほど走らせた場所にある。
駐車場に車を止めて助手席から降りた有希は、潮の香りに敏感に反応した。
水族館へ来たことは、過去に一度だけ。
有希が五歳になった誕生日のお祝いに、父が連れていってくれたのだ。はしゃぐ有希と琴葉、穏やかに微笑む美奈子。ほとんど水族館の記憶はないけれど、四人そろって外出したときの、それぞれの笑顔は胸に焼きついたようにはっきりと覚えていた。
懐かしさに記憶を沈めなければ、有希は自分の甘い考えに暴走してしまいそうだった。
自宅から出発するとき、慎一郎は有希の髪に触れた。指でくるりと巻く触り方は、まるで肌触りを楽しむかのようだった。
(あんなこと、元彼にだってされたことないのに)
いや問題はそこではない。
慎一郎が、あのように有希に触れることが稀有なのだ。思えば昨夜から、触れ合う機会が増えている。
運転席から降りた慎一郎を見た。
慎一郎は、有希が女性らしくなることが、嫌ではないのだろうか。子どものままでいてほしいとは思わないのだろうか。
顔をあげた慎一郎が、微笑んだ。
微かな表情の変化だが、有希にはそれが満面の笑みにみえて、自然と微笑み返す。
「行きましょうか」
「はい!」
「水族館なんて、修学旅行ぶりです。今は時代も変わって、水族館そのものも変化しているのでしょうね」
一緒に券売機に向かって歩きながら、慎一郎は辺りを見回して言った。
「外からも、少し見えるんですね。……あれは、ペリカンですか。水族館なのに」
「最近の水族館は、カピバラもいるらしいですよ。この水族館にいるかは知りませんが」
「よくご存じですね。水族館はよくこられるのですか?」
有希は、苦笑をした。
「残念ながら、五歳のときに一度いったきりです」
「そうなんですね」
「あのときも、この水族館だったんですよ。家族で来たんです。水族館へ行って、そのあと海岸を散歩したと思うんですけど、ほとんど覚えてないんですよ。記憶にないのに、行った場所は覚えているって、変ですよね」
「誰かから聞いたのではないでしょうか。幼いころの記憶は、他者から聞くことで自分のなかに作り上げてしまうことがあるそうです。自分の記憶なのに、自分自身が記憶に映っていることがありませんか?」
「あります! デパートへ行ったとき、おもちゃが欲しくて泣きじゃくったことがあるんです。私が覚えている記憶なのに、床に寝転がって駄々をこねる私が映ってるんですよ。まるで眺めてるみたいに」
そうだ、琴葉に聞いたのだ。あんた小さいころ、デパートに行くたびに玩具を欲しがって泣きじゃくってたのよ、と。
美奈子の前では、有希も琴葉も父が居たころの話をしなかったが、二人でいるときは、たまに思い出話をしていた。
四歳差の姉妹にしては喧嘩もせずに、仲良く育ったのは、二人の性格が大きく違ったためだろう。琴葉は社交的で明るく、友達も多い。部活にも熱心で、高校のバレー部では二年でレギュラーになり、地区大会準々決勝まで行った。
姉は元気にやっているだろうか、とぼんやりと考えていると、ふいに慎一郎に肩を引かれた。慎一郎の胸に軽くぶつかる。
「すみません」
慎一郎が、有希ではない誰かに、会釈しながら言う。
どうやら有希が通行の邪魔になっていたらしい。
「す、すみません」
慌てて離れて謝罪する。
嫌でも昨夜のことを思い出してしまう有希だが、慎一郎の表情は穏やかなままだ。
「いいえ。ああ、そろそろですね」
有希は、券売機でチケットを購入する慎一郎を見た。
今日はやけに饒舌だ。
家にいるときは、話題もなく話す必要性もないので、黙っているが、普段の慎一郎はよく喋るのだろうか。
ふと、慎一郎がチケットをまとめて二枚購入したのが見えて、すぐに財布を取り出した。子どもの頃ならいざ知らず、今、有希は社会人なのだ。家賃も光熱費も、あげくに食費まで払ってもらっているのに、休日まで出費させるわけにはいかない。
「自分の分は自分で払いますから」
「結構ですよ」
「えいっ」
慎一郎が自分の財布を閉める前に、彼の財布に千円札をつっこんだ。
驚く慎一郎に、
「お言葉に甘えて、残りの三百円はおごってもらいます」
と、笑ってみせる。
本当は全額払いたいが、慎一郎が気遣ってくれているのだ。お言葉に甘えてもいいだろう。慎一郎は苦笑して、そうですか、とそれ以上の拒否はしなかった。
チケットを持って入館すると、その暖かさにほっと息をついた。有希も慎一郎も車を降りるときにコートを着たが、やはり外は寒い。
館内は、思ったより広々としていて、天井が高かった。ぼうっと天井を見上げながら歩いていると、ぼんやりと淡い光が正面に見えて、つられるように視線を下ろす。
視界一面に、巨大な水槽があった。
多種多様な魚が、群れをなし、または単独で、泳いでいる。深海にきたような錯覚さえ覚える水槽は、海底の岩やサンゴまで再現してあった。
「圧巻ですね」
呟いたのは、慎一郎だ。
「私が水族館へ行ったときは、こんな水槽はありませんでしたよ。もっとも、ここではない別の水族館でしたが」
圧巻、という彼の言葉はやはり淡々としていて、事務的にさえ聞こえる。事実、彼はさほど感動していないように思えた。
そのあとも、いくつもの水槽を見て回ったが、交わす会話は、やはりというか、淡々としたものだ。この魚が通常より大きいのはなぜでしょう、とか、食用として販売しているものとの違いはなんでしょうか、とか。
感動からこぼれる言葉ではなくて、単純に疑問に思ったから口にした、言葉だろう。
一つの水槽をじっくり見ることもなく、足を止めたのは最初の巨大水槽くらいで、その他は、歩きながら流しみた。
果たしてこれがデートなのか。
館内にあるカフェで休憩することになり、それぞれ紅茶とコーヒーを注文してから、すぐに出されたカップをもって席についた。
店内はすいており、窓側――海を向いたカウンター席に座る。
「そういえば、有希は修学旅行へはどこへ行ったんですか?」
左隣に座った慎一郎が言った。
有希は紅茶に砂糖を入れながら、答える。
「行ってませんよ。体調不良で休みました」
「おや、勿体ない。それは小学校の修学旅行ですか? それとも、中学、高校?」
「全部です」
ミルクもたっぷりいれて、温かい紅茶をひとくち飲む。
喉が渇いてきたこともあって、甘さと温かさにほっとした。
ふと、黙り込んだ慎一郎に気づいて、自分が簡素な返事の仕方をしてしまったことに気づいた。
「えっと。お姉ちゃんは、京都に行ったって言ってましたよ。あと長野とか。高校では、沖縄へ行ったらしいです……片瀬さん?」
慎一郎が机に肘をついて、両手で額を支えるように俯いてしまった。
具合が悪いのだろうか。それとも、有希の返事に機嫌を悪くしたとか。
「有希」
「は、はいっ」
沈黙のあと名前を呼ばれて、つい、意気込んで返事をしてしまう。つと視線だけを有希に向けた慎一郎と目があった。
眼鏡の奥から有希をみる流し目は、とても色っぽくて、妖艶でもある。慎一郎は、本当に綺麗な見目をしている、と今更ながら、有希は思った。
「これからは、有希の行きたいところへ沢山行きましょう」
「はい?」
「京都でも、北海道でも」
「……どうしたんですか、突然」
「あなたを色々なところへ連れて行ってあげたいと思ったんです。恩着せがましい言い方でしょうか」
「い、いえっ、そんな、こと」
有希は首を横にふる。
慎一郎が、嬉しそうに微笑んだ。
その、とてつもなく艶やかで扇情的な笑みに、有希は頬を染める。こうして慎一郎と二人で出かけている今が、夢のようだ。ずっと好きだった人と、デートしているのだから。
例えこれが練習だとしても、有希のなかでは永遠の思い出になるだろう。
ふと。
慎一郎が近づいてきて、有希の肩を抱き寄せた。身体が傾いた先で、唇が柔らかいものに触れる。目の前に長いまつ毛があって、うっすらと開かれた慎一郎の瞳と視線が交わった。
唇はすぐに離れた。
慎一郎は席をたつと「手洗いへ行ってきますね」と言って、姿を消してしまう。
ひとり残された有希は、呆然とした。
隣の椅子に慎一郎の荷物が置いてあるのを見て、これが現実であることを確認する。自分を落ち着かせるために紅茶を飲もうとして、カップに唇がつく寸前でやめた。
勿体ない、などという言葉が過る。
慎一郎が触れた感触が、まだ唇に残っていた。
紅茶などで消したりしたくない。
有希は、ある予感を覚えた。
そんなはずはないと否定しながらも。
もしかして慎一郎は、誰かの代わりではなくて、有希自身をデートに誘ってくれたんじゃないか、と。
慎一郎は、冗談とか遊びで、有希にこんなことはしない。ほかの誰かにしたとしても、有希にはしないと言い切れる。
ふと、自嘲した。
慎一郎が有希をどう思おうと、有希は慎一郎が好きだ。女性と見まがう美しい外見は勿論だが、超がつく真面目なところや、意外に感情表現豊かなところも。長い男性らしい手も、長い前髪も、そして――柔らかい唇も。
たとえ、慎一郎が有希に好意を抱いてキスしたのではないとしても、有希の気持ちは変わらない。
昨夜から、これまで秘めてきた気持ちが、あふれんばかりに大きくなっている。
「……言ってみよう、かな」
思わず口に出して呟いてしまう。
言ってみようかな、とは、有希が抱いている感情のことを、だ。
気持ちを告げたら、慎一郎はどう思うだろう。これまでのように、淡々と返事をするだろうか。答えられないと悲しく言ってくれるのならばいい。
もし、軽蔑の視線を向けられたら――。
有希は紅茶カップを両手でもつと、一気に飲み干した。
有希はもう、二十歳だ。
いつまでも、今の家族のかたちが続くとは限らない。
昨夜から続く、慎一郎との関わりをいいきっかけにしよう。
よし、と大きく深呼吸をした。
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