第二章 初めてのデート

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 有希は、助手席の窓から外を眺めた。  随分と身勝手な振る舞いをしてしまったことを、激しく後悔している。  今日はいつもよりも、ふたりの距離が近かった。  そのせいだろうか、普段ならば決して言わない大口をたたいてしまった。  いくら慎一郎が、ストレートな質問で有希の心をかき乱したとしても、それは有希が勝手にかき乱されているだけで、彼は何も悪くない。  むしろ、「キスは嫌だったか」と正直に聞いてくる彼の姿勢は、ある意味で尊敬すべきだろう。これが「俺のキスはよかっただろ?」などの言葉ならドン引くところだが、慎一郎の言葉はどれも、有希を思いやってのことだとわかっているのに。  有希は視線を自分の膝にうつして、張り切ってお洒落をしてしまったスカートの裾を握り締めた。  高校時代の彼氏に、ちょっとはお洒落してみたら? と言われて、購入した服だった。結局そのあと半月ほどでその彼氏とは別れたので、この服を着たのは過去に一度しかない。  二度と着ることはないと思っていた、洒落た服。  これが有希の精一杯のお洒落だ。  今はこの服が、浮ついた自分の象徴のように思えて、ただただ恥ずかしい。 「さっきは、ごめんなさい」  有希は、絞り出すように言った。  運転席の慎一郎が、有希へ意識を向けたのを感じた。 「酷い言い方をしてしまいました。せっかく水族館に連れてきてくれたのに、こんなふうになっちゃって」 「いいえ。私に落ち度があったのでしょう」  慎一郎の声は淡々としている。  けれど、確実に含まれている優しい響きに、涙が溢れそうになった。 「私と、お話してくださる気になりましたか?」  慎一郎がそう聞いてくる。  有希はまだ顔を上げられずに、「はい」と頷いた。 「どうして、そんな泣きそうな顔をしているんです」 「後悔しているからです、片瀬さんに酷いことを言ってしまったので」 「その後悔は必要ありませんね。私は、酷いことを言われたとは思っていませんので。よく沸点が低く見られますが、私はこれでも、かなり寛容なのですよ。有希のことなら尚更です」  慎一郎は大人だ。彼のような気遣いは、きっと、有希にはできない。二十歳になったばかりの有希はまだ子どもで、すぐに感情的になってしまった。  水族館で並んで歩いた私たちは、周りからどう見えていただろう。  親子だろうか。親戚だろうか。  間違えても、恋人同士には見えないだろう。有希では慎一郎に、釣り合わない。 「さっきは、どうして怒ったのですか? 私は女性の感情に疎いので、すみません、お察しすることができませんでした。教えていただけますか?」 「それは……キスが嫌だったかなんて、聞くからです。私には、どうしてキスされたのかもわからないのに、理由がわからないことを聞かれても、返事に困ります」 「そういうものですか。……確かに、問題文を見せずに選択肢を選べと言われても困りますね」  よくわからない例えを出して、慎一郎は、なるほど、と繰り返した。  昨日の有希からすれば、贅沢な悩みだった。慎一郎とキスなど、生涯できないと思っていたのに。 (ずるいなぁ、私)  心のどこかで、もしかしたら慎一郎は「あなたが好きだから、キスをしてしまった」などと、有希が望むことを言ってくれるのではないかと考えていたのだ。  だからこそ、戻ってきた慎一郎が、キスをした理由の説明をすっ飛ばして、嫌かそうでないかという結論だけ聞いてきたことに、腹をたてた。  有希は、慎一郎は冗談でキスなどしないと思っている。  いや、そう思い込もうとしていた。  昨夜から今にかけて、これまで見たことのない慎一郎の姿を知ることになって。もしかしたら、有希の知らない慎一郎の暗部もあるのではないかと、無意識に考えてしまったのだ。  キスをした理由についても「試してみたくて」「揶揄っただけですよ」などと言われたら、しかも「嫌じゃなかったです」と答えたあとにそんな理由を言われたら、あの家に帰れなくなってしまう。  そんなふうに、保身に走る自分が、とてつもなく嫌だった。  慎一郎を信じていると思いながらも、心の奥底では、信じられないでいる。 (本当に、私はずるい)  車がゆっくりと停車して、カチャリとシートベルトが外れる音がした。  顔をあげた有希は、身を乗り出してくる慎一郎と目が合って、思わず身体を強張らせた。 「説明します。あのとき、キスをしたのはあなたがとても可愛かったからです」  慎一郎の目は、真っ直ぐに有希を見ている。  力強い視線に囚われて、視線が外せない。 「なので、理由と言いましても、つい、としか言えません」 「……つい」 「はい、つい、です」  ふざけた理由だったが、慎一郎の真剣な視線に気圧された有希は、わかりました、と頷いた。  慎一郎は益々運転席から身体を乗り出してくると、両腕それぞれを突っ張るようにして、有希の身体を檻のように閉じ込めてしまう。 「片瀬さん!?」 「有希。あなたに惹かれています」 「はい!?」 「昨夜から」 「昨夜から!?」 「ああ、いえ、昨夜気づいたというだけで、おそらく、ずっと以前から」  いつの間にか、助手席に押し付けられるようにして、慎一郎が覆いかぶさっていた。顔を近づけてきた慎一郎は、有希の頭に優しく口づけをする。 「柔らかい髪ですね。それに、とてもいい香りです」 「かっ」  片瀬さん、と呼ぶ声は、途中で消える。  頭のてっぺんから髪を撫でるように下りた唇が、耳元をかすめたのだ。  これは本当に現実だろうか。  欲しかった言葉を、慎一郎はくれた。  いつもの淡々とした言葉に含まれる、切実に求める響き。甘く蕩けそうな優しさ。そういったものを、彼の声を通して受け取った有希は、全身に熱が灯るのを感じた。  耳朶へキスをした慎一郎は、そのまま甘噛みして、また、キスをする。唇が触れるたびに、ぴくりと身体を震わせてしまうのは、緊張からだ。 「有希」  甘く絡めとるような慎一郎の声。  彼の唇が、耳のすぐ下に降りたかと思うと、ぬるりとしたものが首筋を下方へたどっていく。 「っ」  ざらりとした感触に、舐められたのだと察して、有希は益々身体を強張らせた。スカートを握り締めたままの両手に力が入ってしまう。  ふと顔をあげた慎一郎が、有希の手に、彼の手を重ねた。大きな男性の手に覆われて、甲のうえからぎゅっと握られると、不思議と手に入っていた力が抜ける。  慎一郎が薄く微笑んだのがわかった。  彼はまた、首筋にキスをした。何度も、何度も。ときには舌で舐めて、甘噛みし、そしてまたキスをして。  ちゅ、と音をたててキスをされたときは、耳まで真っ赤になるほど恥ずかしかった。 「あ、あの、片瀬さんっ」 「……ん?」  慎一郎の返事の仕方は、やたらと色っぽい。それは、硬派で無感情、人を寄せ付けない研ぎ澄まされた刃物のような、そんな印象の慎一郎とは、まったく違うもの。  慎一郎が顔をあげて、有希をみた。  彼の瞳は潤んでいて、明らかな情欲が見て取れる。  有希は息を呑む。  慎一郎は、今、有希を見ているのだ。ほかの誰でもない、有希を。 「そんな目で、見ないでください」  慎一郎は苦笑する。 「え?」 「無自覚ですか」  顔が近づいてきて、唇が合わさった。  押しつけるだけの、優しいものだ。上唇をはむようにして、すぐに顔は離れた。 「これは、あなたが愛しいので、キスをしています」 「え、あ、は、はい」 「……嫌ではないですか?」  有希は、はっと目を見張った。  先ほどの有希が言ったことを、慎一郎は気にしていて、今度は理由を言ってから聞いてくれたのだ。彼の几帳面さに、思わず微笑んだ。 「嫌じゃないです」 「それはよかった。では」  慎一郎は、今度は先ほどと反対の耳朶に唇を落として、甘噛みを始める。首筋へキスを落とし、舐めて、ちゅ、と音を立ててキスをして。   慎一郎の唇が首筋から頬へ移動したと思うと、二人の視線が絡まった。 まるでそれが合図のように、唇同士が合わさる。  今度は少しだけ、深いキスだ。  柔らかくて優しいキスなのに、それがとても淫靡なものに思えて身体が火照ってしまう。  慎一郎の唇がひらいて、舌が有希の唇を舐める。有希が咄嗟に開いた口の隙間へ、舌が差し入れられた。  ちゅ、と音をたてながら、キスをする。  決して濃厚とは言えないが、少し舌を触れさせて唇をはむキスは、じれったいほど優しくて、物足りないと感じてしまう。   もっと、と望む自分が酷くいやらしく思えて、有希は益々全身を熱くさせた。 「……ぁ、どう、ですか?」  僅かに、息を乱した慎一郎がきく。  どう、とはどういう意味だろう。蕩けてしまう寸前の思考に、有希は返事に迷った。先ほど、嫌ではないと答えたのだから、キスが嫌か、と問われているわけではないだろう。  だから、思ったままを、口にした。 「きもち、いいです、よ?」 「――っ」  眼鏡の奥の、慎一郎の目が驚いたように揺れた。次の瞬間、有希は強引に唇を奪われていた。キスは先ほどから何度もしているのに、それらがママゴトであったみたいに、ディープなものだ。慎一郎の舌が有希の口内を犯し、舌を捉えて絡めては、有希の唾液を飲み込むように吸いついてくる。  有希の手を握り締めていた慎一郎の手が離れて、有希の頬を包み込んだ。  有希が逃げられないように顔を固定した慎一郎は、さらに深く口づける。息さえつかせない強引で淫靡なキスを、有希はされるがまま、受け入れた。  断る理由などないし、相手が慎一郎だと思うと怖くない。  むしろ、ずっと、望んでいた。  流されるまま、両手を慎一郎の背中に回そうとしたとき、ふいに、慎一郎が離れた。唇を濡らす唾液を袖で乱暴に拭う姿は、いつも穏やかな慎一郎からは想像もできないほど、余裕がないように見えた。 「……帰りましょう」  慎一郎が身体を起こして、運転席に戻る。  夢見心地だった有希は、はっと外を確認する。そこは、大通りから逸れた住宅街だった。今は人通りがないとはいえ、車の中で、しかも外で、こんなことをするなんて。  頬を真っ赤にした有希は、恥ずかしさを誤魔化すように言った。 「そ、そうですね。ママが帰ってるかもしれませんし」 「ああ、確かに。それは頂けませんね」 「え?」 「では、他へ行きましょう」 「ほか、ですか?」  驚いて聞き返すと、慎一郎もまた、驚いて振り返った。 「……もっと二人きりでいたいのですが。有希は、帰りたいのですか」 「っ」  まるで拗ねたように、慎一郎は言う。  二人きりでいたい、だなんて、そんな嬉しいことを言ってくれる慎一郎を見つめ返して、小さく首を横にふった。 「片瀬さんと、一緒にいたいです」  ふわり、と慎一郎が微笑む。 「よかった。……ああ、すみません。少しだけ待っていてくださいね」  そう言うと、慎一郎はコートの内ポケットから携帯電話を取り出して、運転席を下りた。寒いだろうに、わざわざ電話を外でしてくれるマナーに、有希はほっこりと胸を暖めた。  有希は、唇に手を当てる。  先ほどのキスを思い出すだけで、身体が火照ってしまう。もっと沢山触れてほしいと欲を覚える自分がいた。  唇だけではなく、首筋から、もっと下の方へ――。 「有希」  運転席のドアが開くと同時に、慎一郎が声をかけた。  はしたないことを考えていた有希はびくりと身体を震わせて、慎一郎をみる。 「は、はい」 「あなたは、セックスが嫌いですか?」 「……はい?」 「ああ、すみません。あなたと肌を合わせたいと思うのですが、あなたはセックスがお嫌いですか?」 「えっ、あ、……嫌い、では」 「私とは、嫌ですか?」 「い、いいえ!」 「それはよかっ……もう、なんですか。今聞いてるところです」  突然の質問にただ驚く有希の耳に、電話相手の声が飛び込んできた。 『おまっ、直接聞いてねぇ!? 待て待て待てってえええええ』  といった叫び声だった、ような。  慎一郎はドアを閉めて、また通話を再開する。  有希は、慎一郎の会話を否応なしに聞いてしまう。 「なぜそんなに焦っているのですか。……ですが、私の一存では決められません。え? ……そういったことは苦手です。岳だって知っているでしょう。……はい? それは。しかし。ええ、年下の方ですが。……わかりました。なんです? 彼女を待たせているので、そろそろ……はい? はぁ、なるほど。それは盲点でした。ありがとうございます」  慎一郎が運転席に戻ってきた。  有希は、ちらっと慎一郎を見ながら、きく。 「あの、お友達、ですか?」  プライベートには干渉しない。  その契約を、大きく逸脱した質問である自覚はある。けれど、先ほどの会話からしても、そのまま流してしまうには、気になりすぎる。 「ええ、高校時代からの友人です。彼に、あなたに引かれたんじゃないかと言われてしまいました。直接聞くものではないと。やはり、有希も引きましたか?」 「え?」  少し考えてから、思ったままを言う。 「驚きましたし、恥ずかしいですけど。嫌だとか、嫌悪とか、そういったことはないです。これまで知れなかった片瀬さんを知れて、嬉しいです、よ?」  彼の質問の返事になっただろうか、と訝りながら首をかしげて慎一郎の目を見た。彼は瞠目したまま、ふいに右手で顔を覆った。 「有希が可愛い」 「はい⁉」 「なんでこんなに愛しいんでしょう。女性なんて、ヒルのような気持ち悪い生き物だとばかり思っていたのに」  随分なことを言いながら、慎一郎は手早くシートベルトをつけた。 「さて、行きましょうか」 「はい。あの、どこへ?」  家には美奈子がいるかもしれないから、宜しくないと慎一郎は言った。さらに、セックスは嫌いかと聞いてきた――と、いうことは。 「ホテルですよ」 「ホテ……ル」 「はい」  とても嬉しそうに微笑む慎一郎からは、いつもの無表情が消えていた。 (片瀬さん、表情を崩して笑うことがあるんだ)  今から、ずっと想いを寄せていた、法的には他人である義父とホテルへ行く。そんな大胆な行動をしようとしていることに身体が火照ると同時に、初めてみる慎一郎の心から嬉しそうな笑顔は、有希の心を昂らせた。 (もっと、知りたい)  有希は、狭い世界で育った自覚がある。  友人はほとんどおらず、付き合おうと言われた男と何度か付き合ったけれど、結局はいつも駄目になる。  有希の生活の中心は、家。  その家のなかで会う慎一郎が、有希の知る慎一郎のすべてだ。  彼と二人で話ができるだけで満足だったのに、今は、もっとたくさんの姿を知りたくなっている。  ゆったりと動き出す車のなかで、慎一郎の横顔をみた。 「結構、時間がかかるんですか?」 「いえ、近くにします。車で十分ほどのところに、ホテルがあるようですよ。海の眺めが綺麗だとか。せっかくなので、一泊していきましょう」 「はいっ」  慎一郎にとって、有希といくホテルはただ肌を合わせるだけの場所ではなく、楽しむ場所でもある、そう彼の言葉からは読み取ることができた。 (……本当に、夢みたい)  一泊するということは、まだ二人きりで過ごせるということだ。  後悔で落ち込んだ気分は霧散していた。  有希は、慎一郎と過ごす時間が終わらないことに、ただただ、喜んだ。
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