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茅の意識を現実に引き戻したのは誰かの足音だった。土を踏みしめ枝を折る音が聞こえて、茅は思わず石碑の後ろに身を隠した。
後ろめたいことは何もないが、死んでいる人間より生きている人間の方が苦手なのだ。死体を発見して通報したとなれば、発見者としていくらか話を聞かれるだろう。他人と関わりを持つのは今の自分には荷が重い。他の人が発見して通報してくれるならばそれがいい。
そう思って少しの間、石碑を後ろに背負ってみるものの人の話し声が聞こえることはなかった。
人間の足音だと思っていたが、動物の足音だったのだろうか。猪ぐらいならばいてもおかしくはない。茅は石碑から少しだけ顔を覗かせると辺りを見回した。
ふと展望台の奥にある木々の隙間から、男の話し声のようなものが聞こえる。声の主は整備された山道ではなく、獣道から頂上まで登ってきたようであった。
声は次第に鮮明になっていったが、何を話しているかはまったくもって不明瞭で聞き取れない。異国の言語を聞いている感覚とも違う。未知の言語を聞かされているような不安に襲われる。
石のように身体が固まったまま、声の方向から目を離すことができない。暗がりから二メートル超の影が二つ見えた。フードを目深に被った二つの影は吊るされた死体を指しながら、低く唸るような話し声で言葉を交わす。
茅はますます血の気を失って、顔色は青味を帯びた白になっていた。身体を引いて石碑の後ろにもう一度隠れることも恐怖で叶わず、目を見開いたままその影の動向を見つめる。
一つの影が金属音を鳴らしながら螺旋階段を上り、手すりに括りつけられた縄をナイフで切って外す。宙ぶらりんになっていた死体が重い音を立てて階段に転がった。
影は横たわった死体を担ぎ上げると、荷物を放るように地面へと投げ捨てた。死体は子供に飽きられて打ち捨てられたおもちゃのように四肢を放り投げる。
もう一つの影は死体をうつぶせに転がすと足蹴にする。影は足で腰を固定するように踏んだまま死体の両腕を持ち上げ、到底人間の力とは思えない強さで両腕を足の方へと引っ張っていく。
硬いものが砕け散る音が聞こえて、死体は頭と足がくっつくように谷折りにされた。半分ほどの大きさになった死体に、影はボンレスハムのようにぐるぐると紐を巻いていく。そのそばには子供ならばすっぽりと入ってしまいそうなボストンバッグが控えていた。
茅はその残酷な光景を眺めて、一つの結論に辿り着いた。彼らは死体をどこかに運ぼうとしている。何故そのような凶行を思いついたのか理由はわからないが、目の前で繰り広げられている犯罪をどうするべきか決めあぐねていた。
幸いにも彼らはこちらに気がついていないようだった。このまま息を潜めていればそのうちに立ち去るだろう。しかし死体は持ち去られることになる。どこの誰かも知らない死体だが、彼にもまた家族や友人がいるのではないかと考えると遺された人々が不憫に思えた。
死体がなければその人間の死と向き合うのが難しい。肉体があっても身内の死は受け入れがたいのだから。
千萱は震える手でポケットに入れた携帯電話を掴んだ。一刻も早く通報してこの場を離れた方がいい。痙攣する指先をどうにか押し留めて、茅はキーパッドの画面を開いた。心臓が早鐘のように鼓動を打つ。
数字の一を二回押して、最後の数字を押そうとしたところで、スマートフォンを握っていた手が滑った。あっ、と思ったときにはもう遅く、プラスチックのカバーは手のひらを滑り落ちて地面に叩きつけられた。
雑踏ではおそらく聞こえないほどの小さな音だっただろう。しかしその場は水を打ったように静まり返った。
茅の頬を汗が伝った。目を固く閉じ、唇を強く噛みしめて、茅はどうしようもない現実を受け入れた。そして彼はゆっくりとスマートフォンを拾い上げると、最後の数字を押した。
画面の向こうからコール音が聞こえる。茅は立ち上がって無我夢中に走り出した。山道へ一目散に飛び込めば、背後からこちらへ向かって走り出す足音が聞こえる。
最早振り向くこともできず、がむしゃらに山道を駆け抜けていく。永遠にも感じたコール音が途切れたとき、茅は自身の足下に埋まっていた石に躓いた。勢いを殺しきれなかった身体は地面に叩きつけられ転がり落ちていく。
全身を打つ鈍い痛みに顔を顰めながら立ち上がろうとするも、それは覆い被さった黒い影によって阻まれた。痛みと恐怖で揺れる視界がフードの奥にある顔を捉える。
逢魔時の空を背負った影の顔は人間と呼ぶにはあまりに奇怪であった。落ち窪んだ眼球からは白目のない無機質な瞳が覗く。前に突き出た鼻先の皮膚は黒く変色していた。顔を一文字に切り裂いたような口からは尖った歯が幾つも見え隠れしており、獣臭が辺りに満ち満ちていた。
人間と犬のような獣が混じり合ったキメラのような怪物は、茅の持っていたスマートフォンを叩き壊す。そうして獣じみた唸り声をあげると舌舐めずりをした。
ソレは肉と骨の露出した今にも腐り落ちそうな色の手についた鉤爪で茅の頬をつっとなぞる。鋭い痛みが走って熱くなった傷口から血が垂れた。下で震える茅をよそに、ソレは長い舌で滴る血を舐めとった。深く味わうかのように血を口中に含ませて、喉を鳴らしながら飲み込む。
茅は叫ぶことすらできず、息をするだけで精一杯だった。
引き裂かれた口から覗く牙がゆっくりと茅の首に突き刺さった。痛みに思わず呻き声を上げるが、そんなことには関心もくれず、影は茅の首の肉をぶちりと噛みちぎった。
声にならない叫び声が茅の口から漏れる。全身から汗が吹き出て身体が跳ねるが、馬乗りになられているので抵抗もできない。身体を押さえつける鉤爪が腹に深く突き刺さり、迸るような痛みが脳から全身を駆け巡った。
痛みに耐えきれず駄々っ子のように首を振ろうにも、そんな力すら残っていない。ただ口からは意味のない呻きと喘ぎが漏れ出るだけで、後は反射的に身体が痙攣するだけだった。
全身の肉が千切れていく。視界は生理的に流れ出た涙でいっぱいになり、頰にはいくつもの涙の筋が光る。徐々に感覚が遠のいていき、痛みも鈍くなっていった。
心のどこかで待ち望んでいた死を迎えているのだと茅は感じた。得体の知れないモノに食い殺されている恐怖はあったが、死そのものへの恐怖は見当たらなかった。
同居している友人や施設に入居した祖母のことが頭を駆け巡る。
自分が死んだら誰が祖母の面倒を見てくれるだろう。警察官なのに同居人が死んだら迷惑だろうな。どうしよう。ごめんなさい。
思考がぐるぐると回転するが、砂のようにこぼれ落ちていく。
肉の咀嚼される音を子守唄に、茅はようやく眠りについた。
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