二、愛情サクリファイス

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二、愛情サクリファイス

 八月の夏の盛りのことである。  その日は茅の七歳の誕生日で、父の故郷である昼子島で過ごす予定になっていた。  昼子島に行くには港から船に乗るしか交通手段がなく、生まれて初めて乗る船に茅は心を踊らせていたのを覚えている。  何故島へ行くことになったのかは定かではない。父方の祖父母はすでに鬼籍に入っていたようだが、墓参りに行くわけではないようだった。  「七歳になるまで、茅は神の子なんだよ」  父は特別何かを熱心に信仰していたわけではなかったが、そのようなことを度々言っていた。  何分子供であったからその言葉の真意はわからなかったが、父が言うのならばそうなのだろうとそのときはそう納得したのだ。  あるいは七歳の祝いに神社へお参りに行こうとしていたのかもしれない。両親が亡くなった今となっては、真相を確かめる手段などないのだが。  当時、茅は南海道(みなみかいどう)市という葦船市から車で一時間ほど離れた土地に住んでいた。  昼子島行きの船は葦船市にある港からしか出港していない。車は高速道路を渡り、船着き場へと向かう手筈となっていた。  しかし次に目を覚ましたとき、茅は病院のベッドの上にいた。  この頃の記憶は酷く曖昧だ。覚えていないというよりは、思い出したくないと言った方が正しいだろう。  祖父母との会話や当時の新聞記事、事件を担当した警察官から聞いた話を複合して、事故の内容は大方把握できた。  茅の乗っていた車は高速道路を走行中、スピード超過した大型トラックに後ろから追突されたのだ。両親もトラックの運転手も病院への搬送中に息を引き取り、凄惨な事故の中で生き残ったのは茅ただ一人だった。  どうして自分だけ生き残ってしまったのか今でもわからない。幸か不幸か怪我も軽傷で済んだ。  茅にかけられる言葉は決まって二つだった。 「お父さんとお母さんが守ってくれたんだね」 「お父さんとお母さんの分まで強く生きるんだよ」  茅は周りの大人からそう声をかけられるたび黙って頷いた。  決して納得していたわけではない。ただその方が都合が良いからそうしただけで、心のどこかでは自分も一緒に死ねたら良かったのにと思っていた。  茅の誕生日はこうして両親の命日になった。  しばらくして茅は母方の祖父母のもとに引き取られた。小学二年生の夏休みが終わる頃のことだ。  茅にとっては辛い夏休み明けとなった。  事故で両親を亡くして引っ越してきた転校生というのは良くも悪くも目立つ。物珍しげに見てくる者もいれば、好奇心を抑えきれずに色々と質問してくる者もいた。  何より傷ついたのは「死神」と渾名されたことであった。渾名をつけた子供たちとしてはほんの戯れのつもりだったのだろう。しかし茅が殻に閉じこもるには十分すぎる出来事であった。  茅は内気で大人しい少年で、人見知りが激しく、他人と深く関わるのを恐れた。  元々の性分もあるが、やはり両親を亡くしたことが彼をより消極的な性格に変えていったのだろう。  加えて運動が苦手であったので外で遊ぶこともせず、教室の隅で本を読んでいるような子供であった。当の本人はその生活に不満を持ち合わせていなかったが、面白くないのは周囲の人間であったらしい。  最初は軽くからかってやるつもりだったのだろう。茅があまりにも喋らず、いつでも澄まし顔だったので、どんな反応をするのか興味本位だったのかもしれない。  クラスメイトの幾人かが茅に遊びと称して嫌がらせを始めたのは、転校してから一ヶ月後のことであった。  教科書やノートを隠されるのは序の口で、彼らは焦る茅の顔を見てはニヤニヤと示し合わせて笑っていた。慌てる様子を一通り堪能すると、彼らはおかしさを堪えきれないといった顔をして、落とし物を入れる箱に茅の持ち物を返すのである。  そのうち茅も持ち物が失くなることに慣れてきて、何の反応も返さなくなった。彼らの遊びに付き合う体力も抵抗する気力も持ち合わせていなかったので、何もされていないかのように振る舞うのが一番楽だったのだ。  そうなると彼らは再び躍起になる。持ち物を隠すのではなく壊すことで、茅の反応を引き出そうとした。  果たして茅は酷く傷ついた。茅の持ち物の大半は両親が買い与えた物であったから、それを壊されるというのは両親との思い出を汚され、親の愛を貶められるのと同義であった。  ニタニタと茅の反応を待つ彼らの前で、茅は悔しさと悲しみに涙をこぼした。彼らはその様子を女々しいと揶揄い大いに楽しんだ。  それでも泣いたのは初めの一回きりだった。自分がいじめられていることを祖父母が知ったら心配すると思うと、誰にも悟られたくなかったのだ。
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