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そんな日々が終わったのは、すっかり秋も深まった日のことである。
小学校からの帰り道、茅は同級生からの嫌がらせに耐えながら下校していた。
彼らは茅の家がある住宅街に入るまでは、決まって茅を揶揄って遊んだ。住宅地に入ってしまうと大人の目につくので、彼らはパタリと遊ぶのをやめた。だから茅はいつも何をされても黙ったまま早足で家に帰るようにしていた。
この日も彼らは茅の背負ったランドセルを面白半分に引っ張ったり押したりして、いつものように遊んでいた。
やめて、と言ったところでやめてくれるような相手ではなかったが、かといって暴力に訴える気にもなれなかった。
相手を殴ってしまえば、おそらく殴り返されるだろう。そんなことを繰り返して負の連鎖に陥るくらいならば、相手が自分に飽きるまで我慢すればいいと思ったのだ。
加えて茅は身体も小さく力も弱かったので、喧嘩したところで一方的に殴られるだけだろうと諦めていたのもある。
住宅街まであと少しというところにある横断歩道で信号待ちをしていると、数人いたクラスメイトの誰かが茅の背中をドンと強く押した。茅もまさかそんな場面で押されるとは思っておらず、身体のバランスを崩して道路へと倒れ込んだ。
幸いにも車は反対車線を走っていたので轢かれることはなかったが、驚いて振り向いた茅の顔を見て彼らは愉快そうに笑っていた。自分たちがしでかした事の重大さをわかっておらず、ただただ茅の反応を楽しんでいるようだった。
呆気にとられて道路にへたり込んでいると、後ろから一人の少年が歩いてきた。
彼は茅を取り囲むようにして笑っていたクラスメイトたちの間に割って入ると、「危ないぞ」と一言、茅に手を差し出した。思わずその手を握り返せば、少年は茅を力強く引き上げて歩道側に引き寄せた。
少年はその場にいる誰よりも背が高く、逞しい体つきをしていた。案の定、名札に目をやれば「四年一組」と書かれていて、茅よりも二学年上の先輩であるようだった。
「誰だ。今、こいつを押した奴」
少年は帽子の下から鋭い三白眼を覗かせた。
良くも悪くも小学生には見えない体格と顔つきで、その場にいる誰もが黙り込んだ。
唯一の被害者である茅もあまりの展開に怪我した膝の痛みも忘れて傍観していた。
「道路に向かって人を押したらどうなるかわかるだろ」
少年は同級生の一人に鼻先が触れそうなほど近付くと、「わからないのなら教えてやるよ」と言った。
先ほどまでの笑顔は形を潜め、その場にいる全員が困惑と恐怖の色を浮かべていた。
少年はすくっと立ち上がり、茅を自分の前に立たせた。
「ほら、こいつに謝れよ。押した奴だけじゃなくて、笑った奴もな」
クラスメイトたちはしばらく互いの顔を見合わせていたが、やがてのこと「ごめんなさい」と口々に泣きそうな声で呟いて、蜘蛛の子を散らすようにその場から去っていった。
「こいつなんて呼んで悪かったな。名前がわからなくってさ」
少年は逃げていく子供たちを見送った後、照れ臭そうにはにかんだ。視線は茅の名札に向けられていて、おそらく名前の漢字が読めなかったのだろう。
「ちがや……」
「ん?」
「おにうだ、ちがや……」
「チガヤ? ああ、この漢字でそう読むんだ。茅かあ」
「あの、えっと……」
茅もまた少年の名札に目を向けた。学校で習った漢字が並んでいたので、茅は思わずその読みを呟いた。
「ひがし?」
「ん? 俺の名前? これ、アズマって読むんだよ」
「あずま……。あの、東くんはどうして助けてくれたの」
「いじめられてるやつがいたら誰だって助けるだろ。茅こそ何でいじめられてたんだ? あいつらに何かしたのか?」
「ううん。わからないけど、僕のことからかうのが楽しいみたい」
「何だよそれ。あんな奴ら殴り飛ばしてやればいいのに」
「でも僕、弱いし……。それに我慢してたら、そのうち飽きると思って」
「あんまり調子乗らせてると、さっきみたいに危ない目に遭うぞ。まあ、事故にならなくてよかったな。怪我は? 足から血出てるけど大丈夫か?」
ジンジンと痛みを主張する膝に目をやれば、血が垂れて白い靴下に赤い染みを作っていた。
茅が痛みに顔を顰めると、東はポケットからティッシュを取り出して垂れた血を拭い取った。
「あーあー、大変だなこれ」
「あの、ごめんなさい。でも大丈夫。家、もう少しだから……」
「家近くなんだ。じゃあ、俺の家とも近いな。送ってやるよ」
東は背負っていたランドセルを下ろすと、蹲み込んで茅に背を向けた。その様子に首を傾げていると、東は不思議そうな表情で茅を見た。
「早く乗れよ」
「乗る?」
数秒あって、茅はようやく東が自分を背負うつもりでいるのだと気付いた。
会ったばかりの少年におんぶされるのは気恥ずかしい。もう小学二年生なのだ。
茅が首が取れるのではないかと思うほど首を横に振った。
「いいよ。家、近いし」
「遠慮するなよ。別に一人ぐらい背負うのどうってことないぜ。多分、茅よりランドセルの方が重いだろ」
「そういうことじゃなくて……。誰かに見られたら恥ずかしいから、いい」
「恥ずかしい?」
東はキョトンと狐につままれたような顔をしていたが、少しの間があって納得したような面持ちで頷いた。
「悪かったな。妹が転んだらいつもこうしてたから、つい癖で」
「東くん、妹がいるの?」
「ああ、いたよ。茅と同じ年だったんだ」
「……今はいないの?」
「うん。事故でさ」
事故と聞いて茅はこの東という少年が急に近い存在のように感じた。あっけからんと答えたが、眉を下げて少し困ったような笑顔を浮かべるその顔が、行き場のない悲しみを内包しているような気がして、心を惹かれるものがあった。
「あの、やっぱり、送ってもらってもいい?」
「いいけど」
「知ってる人が来たら下ろして……」
「そんな難しいことできるかよ。知り合いが来る前に急いで送ってやるって」
東はランドセルを前に抱えると、茅を軽々と背負って走り出した。
「早い! 東くん、怖い!」
「落とさないから大丈夫だって」
東は弾むような声で答えた。
振り落とされないように彼の肩にしっかり捕まる。足の傷口はまだ痛んだが、何だか心は晴れやかで、茅はこの町に来て初めて笑えたような気がした。
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