二、愛情サクリファイス

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 東との出会い以降、茅の生活は一変した。  クラスメイトたちの気に障って苛烈に虐められるのではないかと心配していたが、どうやらそれは杞憂であったらしい。嫌がらせはぱったりと止んだ。彼らは茅を奇怪なものでも見るような目で遠巻きに見つめるだけで、茅などいなかったかのように振る舞うのだった。  何も解決したわけではなかったが、少なくとも静かな日々が帰ってきたことに茅は満足していた。  学年が離れていたこともあり、東と学校の中で会う機会はほとんどなかったが、時折一緒に帰る仲になった。彼は茅の住む住宅街の近くにある市営団地に住んでおり、学年が上がる頃にはお互いの家を行き来し始めた。  祖父母は孫が初めて家に連れてきた友人を歓迎した。茅もまた東の家に遊びに行ってはいたが、彼の家に大人の姿を見ることはついぞなかった。  こじんまりとした居間には小さな少女の写真が飾られていた。東は何も言及しなかったので、茅もとやかく聞くのは遠慮したが、おそらくあどけない笑顔を見せていた写真の少女こそが彼の妹だったのだろう。  東との縁は大人になってからも続いたが、結局彼が家族について話すことはほとんどなかった。  中学生になると、茅はますます東を慕うようになった。一人っ子の茅にはわからないが、もし自分に兄がいたらこんな関係だったのだろうかと思う。  趣味や嗜好が似ていることもあって、どちらかの家に転がり込んではゲームをしたり漫画を読んだりして過ごすのが常であった。この頃になると茅の祖父母もすっかり東を気に入って、親戚の子供が遊びに来たときのように彼を可愛がっていた。  最初こそ東は気恥ずかしそうであったが、そのうちに慣れたのか四人で食卓を囲む日も珍しくはなかった。  茅はそのような日々が続くのだと思っていた。年齢差はあれど東を親友だと思っていたし、同年代の友人たちといるより彼といる方が居心地が良かったのだ。そして東もまた茅を弟分のように思ってくれているという自負が心の中にあった。  だから東が警察官になると言ったとき、茅は初めて突き放されたような気持ちになった。  二人が出会ってから八度目の春を迎えた日のことである。 「東くん、何してるの」  その日も茅の家で何を話すわけでもなく、二人でゲームをして遊んでいた。数時間ほどプレイして休憩を挟んでいると、東が珍しく一枚の紙とにらめっこしていた。  東は正義感に溢れた心根の優しい男であったが、勉強にはとんと無頓着であった。スポーツ推薦で高校に入学した後も、熱心に勉学に励むこともせず、部活もほどほどに過ごしていたので、学校も違う茅が心配になるほどだった。  そんな東がペンを持ったまま難しい顔でプリントを睨んでいたのである。茅は身を乗り出して机を覗き込んだ。 「進路調査表?」 「ああ。明日提出だったの忘れてた」 「そっか。もう三年生だもんね。東くん、どこの大学行くの?」 「大学なんか行かないよ」 「……行かない?」 「行かないってか、行けない、だな。茅みたいに賢くないしさ」 「東くん、勉強できないわけじゃないじゃん。しないだけで。もったいないよ」 「いいんだよ。それに家にそんな金ないし」 「……じゃあ、卒業したらどうするの」 「警察官になろうと思ってる」 「警察官? 何でまた急に……」 「別に深い理由なんかないよ」  東は自分について深く話すような人間ではない。  ただ茅は東に全幅の信頼を置いていて、クラスにいた好きな子の名前以外はほとんど彼に喋っていたから、友人が進路を黙っていたことが少し不満に思えたのである。関係性がフェアではないような気がして、茅はしばらく不貞腐れた顔で黙り込んだ。 「そんな顔するなって。こっちで就職するわけだし」 「別に東くんがどこに就職しようと東くんの勝手だから気にしてないよ」 「そうか? ならいいんだけどさ。もし就職できたら何か奢ってやるよ」  その場は笑って聞き流したが、内心面白くはなかった。  それもあって茅は地元を一旦離れる決意をしたのである。茅が進路を決める頃には、東は警察学校に入校して忙しい日々を送っていたし、住まいも寮に移り住んでいたので、必然的に会う機会は少なくなっていった。  結局、茅が県外の大学に進学すると東に伝えたのは、合格発表を終えて入学が決まってからのことだった。  一ヶ月もしたら引っ越すことになっていたので、合格祝いと称し二人で焼肉屋に行ったのが最後だった。  警察学校を卒業した東はすっかり社会人になっていて、茅は再び置いていかれたような気持ちになった。東は茅が県外の大学に行くと聞いても、笑顔で祝いと賛辞の言葉を述べるばかりだったので、茅は自分ばかりが彼に執着していることに気付いて気落ちした。  友人といえども永遠に一緒にいるわけではない。東だってこれから仕事が忙しくなるだろうし、家庭を持つこともあるだろう。それは自分だって同じことだ。これからも彼と友人でいたいのなら節度をもって付き合うべきであり、執着は友情とは言えなかった。そういう意味では、進学は絶好の機会なのかもしれない。  茅は渦巻く感情に折り合いをつけ、新天地へと向かった。それから三年間は東と連絡を取ることもなかった。
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