二、愛情サクリファイス

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 入庁してから三年目。茅の生活は崩壊の一途を辿っていた。  職場における人間関係の蟠りは大きくなっていく一方で、だんだんとコミュニケーションの取り方がわからなくなり、自分自身に自信がなくなっていく。  課の仕事にはようやく慣れてきたものの、人手不足故に新人職員の教育を任せられても教えることなどできず、上司にも後輩にも謝るばかりで辞めたい気持ちだけが積み重なっていった。  加えて、人事課の方針として勤続三年以内の職員の知見を広げることが目標に決まった。これにより新人職員は他部署の仕事を手伝いに行くように指示され、茅は休日出勤を余儀なくされた。  たまにある休みの日を茅は部屋の中に引きこもって過ごすようになった。  他人と会話するだけで息切れしそうなほどに疲労するので、誰にも会いたくなかったのだ。仕事に行くだけで毎日が精一杯で、食事も睡眠も全てが後回しになった。  自分のことすら面倒を見られなくなった茅に、祖母のことを気にかける余裕はなくなっていた。  祖母はまるで人が変わった。年齢を鑑みれば活動的な人であったはずなのに、日がな一日ぼんやりとしていることが増えた。  茅が職場から帰宅すると、祖母は大抵荒れ果てた居間でいつ録画したのかもわからない昔の番組をじっと見ている。台所には食材や調理器具が出しっ放しにされていて、おそらく夕食を作ろうとしてやめてしまったのであろう跡が残っていた。  それでも家にいてくれる分には良かった。食事は弁当をスーパーで買って帰って祖母に渡し、自分は栄養補助食品を買い込んでそれをひたすら口に詰めて食事としていた。  祖母は時折買い物に行くと言って出かけようとするので、仕方なく茅は祖母の単車の鍵を自室に隠した。祖母は鍵がないことに気付くと可哀想になるほど慌てて、荒れた家中をひっくり返しながら捜し回る。そうして一頻り捜し終えると、茅が鍵を持っているのではないかと疑い、悲しそうな顔をするのだ。  茅はそんな祖母を見て、こんなことしたいわけではないのにと後悔しながらも、祖母を守る方法がわからず途方に暮れた。  散らかった家の中で、もうずっと窓を閉め切った部屋に閉じこもる。万年床に潜り込んで眠れぬ夜を過ごし、油の切れたブリキのような身体で仕事に向かう生活が茅の全てになっていた。  仕事も少しずつミスが増えていく。心配してくれる上司はいたけれど、茅は決まって「大丈夫です」と返答し、自分の至らなさを謝罪した。誰にも迷惑をかけてはいけないと思うと、ますます仕事場が窮屈になっていった。    最終的に茅にトドメを刺したのは、いつもしているはずの窓口業務だった。  矍鑠とした老人が差し出した書類を何の疑問もなく受け取った茅は、差し出された書類が担当したことのない内容であることに気付いた。何てことはない。本来その書類は茅の所属する市民課ではなく福祉課に提出するべき書類だったのである。  三年も働いて見たことのない書類なのだから、わからないと思った時点で上司や同僚に尋ねればよかったのだ。けれども手の空いている上司は苦手な課長しかおらず、質問するのを避けたかった茅は自身で調べることに決めた。  結果的にそれは時間を要する作業となり、ようやくその書類が福祉課の管轄であると気付いたときには、長らく相手を待たせている状況であった。  茅はしどろもどろのまま老人に紙を返し、福祉課に行くように告げた。  長時間待たされた挙句に別の課に行くよう指示された老人は、たらい回しにするなと烈火の如く怒り出した。  ものすごい剣幕で捲し立てられたものの、大人に怒鳴り散らされる経験などしたことのなかった茅は恐怖と混乱に陥り、無言のまま立ち尽くすことしかできず、それが余計火に油を注いだ。  茅は胸ぐらを掴まれ謝るように求められたので、その状態のまま老人の目を見て蚊の鳴くような声で謝罪した。内心焦りでいっぱいだったのだが、油断すると泣いてしまいそうだったので、できるだけ冷静に謝った結果だった。  老人はそんな茅の様子に一層気分を害されたようで、年上の目を見て話すとは失礼な若造だと茅を殴りつけた。  昼過ぎの市役所には来庁している市民も多い。特に市民課の窓口の近くには受付を待つ来庁者が寄り集まっているものだから、職員が揉め事の最中に殴られたなんてことがあれば多くの市民が目撃することになる。  一部始終を見かけた一人の市民が警察に通報したらしい。庁舎に警察が駆けつけ、事態は一時騒然となった。
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