二、愛情サクリファイス

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 茅は自分が殴られたことよりも、警察沙汰になってしまったことのが余程恐怖であった。頭が真っ白になり呆然としていると、見慣れた顔の見慣れぬ制服姿が目に入る。 「東くん?」  思わず口から言葉が溢れた。  東は幾度か瞬きをすると目を細めて困ったような笑みを浮かべる。隣にいた制服姿の同僚と何か言葉を交わすと、まるで今初めて会ったかのように茅に話しかけた。 「すみません。被害を受けた職員の方でお間違いないですか? ちょっと通報がありましてね。お手数なんですけど、お話をお伺いしてもよろしいですか」 「えっ、あの、えっと……」 「警察が何の用ぞ。儂は何もしとらんわ」 「うんうん。お父さんね、まずお話をお聞きしますから、ちょっと一緒に来てもらっていいですか? ここだと人が多いでしょう。三階の方にね、会議室があるそうですから」 「儂を犯人扱いするんか! 警察は!」 「まずお話聞くだけですから。ね? ここは市民課に用事がある方がいらっしゃいますから、とりあえず移動しましょう。お父さんからも事情をお伺いしたいんですよ。我々にお話を聞かせていただけませんかね?」  東は茅が今まで見たことのないような演技臭い笑顔で何度も老人を説得した。老人も数十分ほどはごねていたが、やがて忌々しそうな顔で了承すると茅とは別の部屋に連れて行かれた。  東は同僚が老人を引き連れていく姿を見送ると茅の方へ向き直る。課の主幹がおずおずと茅たちに近付いて口を挟んだ。 「茅くん。三階の人事課の隣にある会議室ね、今空いてるらしいからそこに案内してもらえる? あとこれ保冷剤渡しておくから冷やすのに使ってね」 「あ、ありがとうございます……」  薄手のハンカチに包まれた保冷剤を受け取って、茅は急に頬が痛くなった気がした。気が緩んで涙が出そうになったが、ここが一階の最も目立つ場所であることを思い出してぐっと堪える。 「じゃあ、案内してもらっていいですか。お話しお聞きしますので」 「あ、はい……」  茅は東を連れ立ってエレベーターへと向かった。一階から三階に上昇する個室の中でそっと東の顔を盗み見たが、帽子の下に隠れた顔は何を考えているか読み取れず、知らない人間といるようで心細くなる。  軽いベルの音が鳴って三階に到着すると、東は扉が閉まらないように手で押さえて、茅から出るようにと目線で促した。茅は思わず会釈を返す。 「会議室はこちらです……」  茅は頼りない声量で目的地を指し示す。会議室を管轄している人事課に頭を下げ、部屋を借りることを告げると、向こうも事情をすでに承知しているようで「どうぞ」というように身振りで返された。  コの字型に並んだ机と椅子にホワイトボードが一つ置かれただけの殺風景な会議室で、茅は東と二人きりになる。おそるおそる東の顔を覗き込んでみれば、彼は見覚えのある困ったような笑顔で茅を見つめ返した。 「……東くん?」 「いや、災難だったなあ。大丈夫か?」  東は茅の持っていた保冷剤を手に取り、赤くなった頬にそっと当てた。  冷たさに一瞬身を竦めると、東はまずいと言わんばかりに顔を顰める。 「悪い。痛かったか?」 「ううん、冷たくてびっくりしただけ」  茅は首をふるふると振りながら、冷たいその塊を受け取って頬に押し当てた。  途端、抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出す。それは涙となって茅の目から零れ落ちた。 「おいおい、どうしたんだよ。そんなに痛かったのか?」  否定しようと口を開いたが、喉が焼けつくように痛くて声が出ない。睫毛に雫が絡みついて視界をぼんやりとさせる。茅にはもう東がどのような顔で自分を見ているかわからなかったが、きっと情けない姿なのだろうなと思った。 「怖かったのか?」  東の温かい指先が茅の頬に流れる涙を拭い去る。  茅はやっとの思いで首を横に振った。 「ごめん……ごめんね……」 「何も謝ることないだろ? どうしたんだ?」 「僕が、本当に愚図でどうしようもないから、いろんな人に迷惑かけて……。警察まで呼ばれちゃうし、東くんの仕事は増やしちゃうし……」 「おいおいおい。茅、お前は殴られた側だろ? というか別に俺のことはいいよ。たまたま来たのが俺ってだけだしさ。ここに来てなかったら別の現場に行かされるんだから、仕事量なんて変わらないって。茅、何かおかしいぞ。そんなに辛かったのか? 被害届出すか?」 「……出さない。僕が全部悪いし」 「何したんだ?」 「市民課で受付してない書類を受け取って、相当待たせた挙句に福祉課に提出する書類だから福祉課に行ってくださいって言っちゃった」 「なるほど」 「怒られたのにすぐ謝らなかったし、声小さかったし……」 「俺、今だけ警察官としてじゃなくて、お前の友人として喋るけどな。確かに茅もミスしたかもしれないけど、それで殴るのはおかしいと思わないか? 誰かが間違えるたびに暴力振るうこと許してたら世話ないぞ」 「でも……」 「やっぱ、茅、ちょっとおかしいぞ。最近、心配してたんだよ。連絡しても返事来ないし、返ってきても遅いし。それで今日会ってみたらこんな感じだろ。顔色悪いしさ。痩せてるというか窶れてるぞ、お前」 「……最近ちょっと忙しかったから。ごめん」  東は茅の目の下にある隈を手で擦った。視線を外そうとした茅の両頬を手で挟むと、顔を強引に自分の方へ向ける。東の射竦めるような視線が茅の揺蕩う瞳を捉えた。 「今日はひとまず仕事でここに来てるから、話聞いたら一旦帰る。明日って茅は休みだよな。俺、明日は日勤だから、仕事終わらせたら茅ん家行くわ。そこでいろいろ聞かせてもらうからな。家で待っといてくれ」  正直なところ家には誰にも来てほしくなかったのだが、東があまりに真剣な顔つきでこちらを見るものだから、茅は思わず頷いてしまった。  東は言葉通りさっさと事情聴取を終えてしまうと、そのまま現場を去って行った。  茅の大事にしたくないという要望に応えた結果、騒動は有耶無耶となり、老人には次から気をつけるようにと注意があったのみで事件は幕を閉じた。
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