二、愛情サクリファイス

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 東と別れた後、茅は腫れた頬のまま仕事を続けた。  時間休を取ることを主幹から勧められはしたが、課員が働いているのに自分一人だけ帰るのも気が引ける。結局、市役所を出たのは定時を過ぎた頃で、いそいそと帰り支度をすると未だに電気のついている庁舎を逃げるように去った。  東は明日の昼頃に家に来るというので、散らかった部屋に客人を上げるわけにもいかず、帰宅して早々掃除に取りかかった。  掃除する茅を不思議そうに見つめる祖母に「明日、東くんが来るからね」と告げたものの、返ってきたのは生返事で、東が誰のことだか思い出せないようであった。あれこれと説明していると、いまいち要領を得ないながらも祖母と会話をしている自分に気付く。  これまで祖母と向かい合って話そうとしたことはあっただろうか。大好きだったはずの祖母を得体の知れない生き物のように見ていた自分が急に恥ずかしく、情けなく思えて肩を震わせる。  静かに泣き始めた茅を見ると、祖母は慌てて立ち上がりティッシュ箱を手にして茅に差し出した。茅はそれが余計に辛くなって、子供のように声をあげて泣いた。  次の日、約束通りに東が訪ねてきた。仕事を終えてそのまま来たらしく制服姿のままであったので、東を見た祖母は大層目を丸くして、「まあ、事件でも起きたんですか」と言った。 「ばあちゃん。この人、僕の友達だから大丈夫だよ。ちょっと部屋で話してくるから、居間で待っててね」  茅は事態が飲み込めていない東を引きずって部屋に連れ込んだ。 「千鶴さん、もしかして俺のことわかってなかった?」 「二、三年前からあんな感じだよ」 「そんなに前から?」  東は難しそうな顔をして俯く。  服や日用品が壁際に積まれた部屋は確かに自室であるはずなのに、今の茅には居心地が悪く感じられた。 「なあ、茅。お前、最近、ちゃんと寝てるか?」 「……うん、まあ、ちょっと」 「寝てないんだろ。食事とかしてないんじゃないか」 「ううん、まあ」 「仕事でケアレスミスが増えたとか、気分が落ち込みやすいとかないか?」 「そんな矢継ぎ早に聞かれても……」 「あんまりこういうこと詳しくないんだけどさ、俺。何年も警察いると、一人や二人くらいは心が壊れて休む人を見るわけよ。この間もそれで同期が一人いなくなったんだけどな。うまく言えないけど、今の茅はそういう感じに見えるっていうか」 「僕が病気って言いたいの?」 「病気かどうか俺にはわからないけど、眠れなかったり食べられなかったりするのはちょっとおかしいって思うだろ? 職場にいたときは死にそうな顔してたしさ」 「別に少し疲れてるだけだよ……」 「でもしんどいんだろ? 一回病院に行ってみないか?」 「どこも悪くないのに、病院行くのなんておかしいでしょ。第一、精神科行ったの職場の人に知られると気まずいし」 「ストレスで身体壊す人間なんてこの世にごまんといるから大丈夫だって。行って何もないなら何もないでいいだろ。体調悪いままずるずる働いてると本当にどうにもならなくなるぞ」 「でも……」 「初診でも受け付けてくれる病院、一件だけ見つけたんだ。それで何もなかったらもう口挟まないから、俺を安心させると思って行ってくれ」  こうなると東は頑として譲らなかった。  前日、渋る老人を説得し続ける東の姿を見ているものだから、首を縦に振るまで彼は許してくれないのだろうと思い、茅は自分から折れることにした。病院に行って東が満足してくれるならそうしようと思ったのである。  一週間後、茅は午前中から病院を訪れていた。  東の運転する車に乗せられ病院まで連れて行かれている自分が、動物病院に嫌々引きずられていく愛玩動物のようで失笑してしまう。  東は茅を病院で降ろすと、「千鶴さんのことは俺が面倒見ておくから」と言って茅の家へと帰っていった。申し訳ないと感じながらも、友人の心配性に呆れる。    予約は東がしていたので、受付で事情を話すと待合室で待つように促された。  血液検査やカウンセリング、チェックシートの記入を終えてようやく診察室に案内されたときには、すでに三時間ほど経過していた。もしこんなに長時間拘束されることを知っていたら、病院を受診することを承諾しなかっただろう。  茅と一度も視線を合わせようとしない医師は俯いたまま告げた。 「中等度のうつ病ですね」 「鬱ですか」  茅の口からは乾いた笑いが漏れた。予想だにしていないことを言われて笑うしかない。 「それで……その、どうしろと言うのでしょう」  我ながら馬鹿らしい質問だと思うが、鬱だと言われたところで茅にはどうしようもなかった。言われていることに現実味がない。自身に告げられていることのはずなのにどこか他人事のようで笑ってしまいそうになる。 「仕事はしばらくお休みされた方がいいですね。一人暮らしですか」 「いえ、実家で家族と同居していますけど……」 「それならしばらくご家族のもとで療養してください。今日はお一人で来られました?」 「ええ、まあ、はい……」  あれよあれよという間に話は進み、気付いたときには薬を受け取って支払いを済ませていた。  仕事を休む? 家族のもとで療養する? どちらも到底現実的とは思えない。休職したら家計はどうなるのだろう。家では気が休まるときがない。ぐるぐると思考が脳内を駆け巡る。 「茅」  病院の入り口でスマートフォンを持ったまま突っ立っていると、東が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。 「どうだった?」 「ああ、うん、なんか鬱なんだって……」  ヘラヘラとした笑顔を浮かべて茶化すように告げると、東は困ったような悲しそうな表情で「とりあえず家に帰るか」と言った。  重々しい空気が流れる車内で東が口を開く。 「茅って今、付き合ってる人とかいるのか?」 「え、何、急に……いないけど」 「じゃあ、しばらく一緒に暮らさないか」  茅はしばらく閉口し、言われた言葉の意味をゆっくりと咀嚼して、それから首を捻った。 「どういうこと?」 「いや、そのままの意味だけど。ルームシェア? 同居? 何て言ったらいいんだろ」 「何で僕が東くんと一緒に暮らすの?」 「そう面と向かって聞かれると弱るなあ。心配だからっていうのが一番だけど。俺もお前もいざというとき頼れる家族いないだろ。今の千鶴さんにお前の面倒見させるわけにもいかないだろうし」 「心配だからってそこまでするの? だって東くんには何のメリットもないよ」 「別にメリットとかデメリットを考えて友達付き合いしてるわけじゃないしなあ。今の茅を放っておいて死なれる方が嫌だよ、俺は」 「でも……」 「無理強いするつもりはないから、嫌なら断ってくれていい」  茅は隣にいる東を見た。運転席に座る友人の横顔は至って真剣な面持ちで、茅を揶揄う気配など微塵もない。  どうして彼がここまで自分の心配をするのか茅にはわからなかった。仮に自分が彼の立場だとして、同じ台詞が言えるかと問われたら首を縦には振らないだろう。  けれど昔から東はこういう人間なのだ。優しい人間だと知っているからこそ、茅は東を慕っているのだから。 「嫌じゃないけど……」 「じゃあ、決まりだな」  相変わらず前を向いたままであったが、東はどことなく安堵したような表情で笑った。 「よかった。そろそろ独身寮出たかったんだけど、タイミング掴めなくてさ」 「何だ。やっぱりメリットとか考えてるじゃん」  寮を出たいという気持ちはきっと本心ではあるのだろう。しかしそう口に出したのは、自分に気を遣わせないための彼の優しさなのだろうとも思う。  東は茅の療養に骨身を惜しまず協力した。祖母の介護を外部に任せた方が良いと施設を探したのも彼であったし、体調を崩しがちな茅の代わりに休職や自立支援の手続きをしたのも彼であった。  茅が思う以上に、東は茅のことを大事に思っているようだった。茅はそれをありがたく思う反面、怖かった。  どうして東が自分なんかに優しくするのかわからない。優しくされれば優しくされるほど、いつか東がいなくなる日が怖くなる。  自分の病気が治る保障はどこにもないが、東が自分のもとから離れる未来は確実に訪れるのだ。東には東の世界がある。茅の知らない誰かと結婚するかもしれないし、遠くの署に異動する可能性だって十二分にある。  それに比べて茅の世界は閉じられている。外部と接触する機会などほとんどないし、薄暗い自室でいつも将来を悲観するばかりだ。  この苦しい状態のまま置いて行かれたら、自分は東のことを恨んでしまうかもしれない。彼の優しさも忘れて。それが怖い。  ——だから死ねて良かったんだ。
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