三、背徳アタナシア

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三、背徳アタナシア

 ——東くん、居眠りしてる。  幾度か瞬きしているうちに、視界のピントが合う。椅子に腰掛けた東が腕を組んだまま眉間に皺を寄せて眠りについていた。  上体を起こそうとするが、脳からの命令に身体がついていかない。仕方なく身体を横たえたまま周囲を見渡せば、左腕から一本の管が伸びていた。管を辿っていけば透明な液体の入った袋が吊るされており、自分が点滴を受けている最中であると気付いて——茅は違和感を覚える。  ——どうしてベッドで眠っているんだ?  見慣れない白い天井に、嗅ぎ慣れないシーツの匂い。点滴までされていることを考えれば、ここが病院であることに間違いはないだろう。  しかし自分は死んだはずなのだ。犬とも人間とも言いきれぬ醜悪で悍しい怪物に首を喰いちぎられたのは夢であったというのだろうか。  思わず右手で首元に触れてみるが、いつもと変わらない肌の感触があるのみで食い荒らされた痕跡などない。  やはり夢だったのか。怪物に襲われて殺されるなど現実にあるはずがない。けれど夢にしては、いやに現実的であった。仮に夢であるならば、どこからどこまでが夢だったのか。そもそも今は現実なのか。死んだ自分が見ている幻ということはないだろうか。 「茅?」  ふと意識が浮上する。声の聞こえた方に首を傾ければ、先ほどまで眠っていた東が目を覚ましたところであった。彼にしては珍しく動揺している様子で、揺らめく瞳が茅を捉える。 「良かった……」  東は起きぬけの掠れた声でそう呟くと安堵の表情を浮かべる。茅は東が何に対して安心しているのかわからず、不思議そうな顔で彼を見つめ返した。 「ちょっと待ってろ。今、先生を呼ぶからな」  ナースコールに伸ばされた東の手を、茅の細い手が弱々しく掴んだ。  咄嗟に茅の顔を見れば、不安そうな色を湛えた瞳が東に向けられている。東は一旦ナースコールから手を離し椅子に座り直すと、茅の右手を握って困ったような笑顔を浮かべた。 「どうした?」 「僕、どうしてここにいるの」 「葦野公園の展望台付近で倒れてたんだよ。自分で通報したらしいけど覚えてないか?」  そう言われて、通報した後に壊されてしまった自分の携帯電話が頭に過ぎる。 「スマホ……壊れたんじゃ……」 「通報したときに位置情報が取得されるから。スマホは壊れてたけどな。まあ、そろそろ買い替えの時期だったし。茅が無事で良かったよ」 「無事……」  駆け巡るように記憶が蘇る。  意識があった間だけでも首筋や腹部に致命傷に近い怪我を負ったはずだ。よしんば一命を取り留めたとしても、怪我の跡が残っていないはずがない。 「無事なの? どこも怪我してないの?」 「切り傷や打撲痕は残ったみたいだけど、傷跡になるような大きい怪我はないって先生が。でも一度検査してもらおうな」 「待って」  茅は性急に布団を剥ぎ取り、自身の入院着を捲った。鉤爪のような刃物で深々と刺されたはずのそこには、猫にでも引っ掻かれたかのような薄い蚯蚓腫れが走るばかりで、酷い刺し傷など残っていない。  突然服をめくり上げて真っ青な顔で傷跡を見つめる茅に、さすがに東も驚いた様子であった。 「どうして怪我が残ってないの?」  茅は縋り付くような目で東を見る。  東の顔からは笑顔が消えて、本当に困ったような表情だけが残った。 「……茅?」 「僕が昨日、公園に行って通報したところまでは事実なんだ。……じゃあ、展望台で首を吊っていたあの死体は? 犬みたいな顔をしたあいつらは? 僕はどうして死んでないの? 僕を発見したとき周囲に血痕はあった? あいつらがいた証拠は残ってないの?」 「どうしたんだ、茅。ちょっと落ち着けよ」  力が籠り前傾姿勢になっていた茅の両肩を掴むと、東は自分から引き離してゆっくりとベッドに身体を横たえさせた。  茅の瞳は激しく揺れていて、視線が定まっていない。譫言のように疑問を繰り返す茅の頬を両手で包むと、東は低く優しい声色で茅の名前を囁いた。 「もう大丈夫。もう怖い奴はいないから……」  揺れていた瞳が東の姿を捉える。茅はしばらく狼狽えたまま東を見つめていたが、やがて落ち着きを取り戻すと小さな声で呟いた。 「変なこと言ってるって思うかもしれないんだけど、僕、殺されたんだよ」  東が口を開く気配はなかった。代わりに小さな我が子の話を聞く親のような眼差しで茅の話を聞いていた。 「公園で景色を見ていたら、死体を見つけたんだ。展望台の螺旋階段で首を吊っている人がいて……。フードを被った黒い影が二つ、死体に近寄ってどこかに持って行こうとしたから……通報しようと思ったら捕まって……それから……」  茅は首筋に手をやり、噛みちぎられたはずのそこをなぞるように指を動かした。 「首を噛みちぎられて、すごく痛くて、それから……」  怯えた目が東を見る。 「僕はどうして生きているの」  恐怖の色に満たされた視線が東を捉えて離さない。一瞬面食らった顔をしたものの、東はすぐにいつものような笑みを浮かべると茅の髪を手櫛で優しく梳いた。 「怖かったな。もう大丈夫だから。少し休もう」  東は茅の言葉を肯定することも否定することもせずに、ナースコールを手に取る。茅は相変わらず虚ろな目で東を見つめていた。
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