一、肉食グランギニョール

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 立っていられない。視界がぐにゃりと歪んで、足が地面についていないような浮遊感に襲われる。乗り物酔いをしたときのようだ。喉元まで何かが込み上げてくる。思わず口を押さえた。吐き気がとまらない。  まただ。泣きそうな気持ちをぐっと堪える。恐怖、悲しみ、絶望——ありとあらゆる負の感情が脳から生まれて神経を駆け巡り、身体中をおかしくする。  これの対処法を知らない。自分が何に怯えているかもわからないのに、心臓が痛くて、動悸が止まらない。未だにこれを超える恐怖に出会ったことはないし、これから先も出会わないだろう。例え狭い個室に閉じ込められて火を放たれても、高層ビルが豆粒に見えるほどの高さから突き落とされても、これ以上の恐怖を味わえるかどうかわからない。  苦しくて、悲しくて、床に倒れて胎児のように身体を丸める。  ——怖い、怖い、怖い!  何が怖い。何も怖くない。言ってしまえば全てが怖い。  固い床も、ひんやりとした夜の空気も、外で鳴く虫の声も、嗅ぎ慣れたい草の匂いも、目に映る全てが心を苛む。  もう嫌だと心が叫ぶ。死んでしまいたい。消えてなくなりたい。この世から自分がいなくなれたらどんなに救われるか。  耐えられない気持ちは呻き声になって口から漏れる。叫んだら駄目なのに。また迷惑をかけてしまう。 「茅」  渦巻く思考に飲み込まれる寸前、鬼生田(おにうだ)(ちがや)は何度も自分を呼ぶその声に引き戻された。ゆっくりと顔を上げれば、すっかり見慣れた顔になった友人が心配そうにこちらを見つめている。 「東くん……」  消え入りそうな声で名前を呼ぶ。北門(きたかど)(あずま)は茅の背中を優しくさすった。Tシャツ越しに暖かい体温を感じて息を吐く。 「ごめん。明日仕事なのに。ごめんね」  茅が何度も謝れば、東は眉を寄せて困ったように笑って彼の頭を撫でた。もう随分と伸びっぱなしになっている髪を梳くように手櫛で整える。 「大丈夫。薬持ってくるからここで待ってて」  一人でも平気か、と心配そうに振り返ってきた東に頷いて返事をすると、茅は床に視線を落としてぼんやりと敷居を眺めた。  恐怖はまだそばでこちらの様子を覗いているが、無理矢理蓋をしたように押し込められている。これ以上迷惑をかけたら駄目だという気持ちがストッパーになって、感情の激流を留めていた。  キッチンから足音が近付いてきて茅は顔を上げる。水の入ったグラスとPTPシートをそれぞれ片手に持った東が廊下を軋ませながら歩いていた。 「お待たせ」  東は冷たい廊下に座り込むと包装を破り、錠剤を一粒、茅の細い手に置いた。  茅は東から受け取った水でそれを呑み込む。ごくりと白い喉が上下したのを見届け、東は足早にキッチンへ向かった。  遠ざかる背中に「ごめんね」と言葉を投げかけるが、いくら謝っても茅の中から罪悪感は消えない。東と暮らし始めてからずっとこの調子で、いつも彼の世話になっていることに申し訳なさを感じる。  後ろ暗い気持ちに一度火がつくと心が燃え尽きるまで止まらない。  いい歳した大人なのに。働くこともできず、かと言って家のことができるわけでもない。四六時中暗い部屋に閉じこもって無駄に日々を消費している。誰かの支えがないと生きていけないくせに、考えるのはいつも自分のことばかり。そばにいてくれる人がいるのに、死にたいと望んでしまう。どうしようもない。自分は役立たずで、無価値で——。 「茅、ほら部屋に戻ろう」 「東くん……」 「何だ、また泣いてたのか」  東は指で茅の頬を伝う雫を拭う。  茅はしゃくり上げながら、消え入りそうな声で謝り続けた。 「ごめん、ごめんなさい……」  小さな子供をあやすように、東は茅の背中に手を回してポン、ポンと優しく叩く。  茅はされるがままになりながらも、他人の優しさを素直に受け取れない自分がいることを苦々しく思っていた。暖かい腕の中にいるのに、鬱々とした気持ちが晴れない。   「ここは冷えるから部屋に戻ろう」  茅は抱きかかえられるように立たされた。糸の切れた人形のように不安定な身体を支えられ自室へと導かれる。  かつては茅の母親が使っていたという彼の自室には、ぐちゃぐちゃになった布団が一組床に敷かれていた。東は寝具を軽く整えると、酷く痩せた友人の身体を横たえる。 「頓服飲んだから、もう一人で大丈夫。ごめんね」  弱々しい声で茅は呟いた。  東が茅と知り合ってから二十年足らず、これほど辛そうな姿を見るのは初めてだった。元々、活発な性格ではない。けれど気を許した相手にはよく笑ってよく話す少年だった。もう随分と楽しそうに笑う彼の姿を見ていないと思う。  茅は黙ったままでいる東に居心地を悪くしたのか、「朝早いのにごめん。東くんももう寝なよ」と彼を促した。 「ああ、そうするよ」  心配そうな面持ちのまま東は部屋を後にした。  一人になった空間で、茅は頭まですっぽりと布団を被り目を閉じる。本音を言うとまったく大丈夫ではなかったが、これ以上東を引き止められなかった。  
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