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本音を言えば、病室から出て行きたくはない。それでも職場に戻らざるを得ないのが警察官という職業の辛いところだ。
目を覚ましたばかりの茅に仕事へ戻ることを告げて、東は病室を後にした。
どのみち茅はこれから検査される手筈であったから、彼が意識を取り戻した以上、自分にできることは何もない。
いや、彼が眠っている間も自分にはできることなどなかった。ただ彼が早く目を覚ますように祈っていただけだ。
茅が病院に運ばれたことを知ったのは昨晩のことであった。
始まりは一件の奇妙な通報であったらしい。
電話越しから聞こえてくるのは、激しい息遣いと足音だけ。しばらくそれが続いた後に、凄まじい衝撃音が聞こえて通話は切れた。
いたずら電話であることも考えられたが、通報があった以上動かないわけにもいかない。位置情報を特定すれば、葦野公園付近ということが判明したので、本署にいたパトカー勤務の警察官が現場へと急行した。
しばらく公園内を捜索していたが、園内は平和そのものといった具合で、利用者に声をかけてみたものの特に思い当たる節はないという。
やはりいたずらだったかとげんなりしていたところで、巡査の一人が城跡に続く道に設置されていた「イノシシに注意」という看板を目にした。彼は「猪に襲われたなんてことないですよね」と冗談まじりに言った。
当の本人はほんの冗談のつもりであったが、動物に襲われたという可能性も考慮して、城跡の方も確認するべきであるという結論に至り、彼らは城跡に続く山道を登ることになった。果たしてこれが茅の危機を救ったのである。
城跡まであと少しという山道の所で、ボロ雑巾のように打ち捨てられた人間を見つけた。
衣服はずたずたに引き裂かれ、その隙間から見える肌には、切り傷や打撲痕が瞬く星々のように散らばっている。一瞬死体なのではと思わせるほどに全身から血の気が失せており、身体は冷たかった。
救急車の到着を待つ間、身元を調べるために持ち物を確認していると、財布から運転免許証が見つかった。運転免許証に記載されている名前や住所を照合すれば、その住所が現職の警察官が住んでいる場所と一致する。
そうして東に連絡が入ったのは、日付が変わる少し前のことであった。
仕事でなかったらきっと病院に駆け込んでいただろう。命に別状はないと聞いたからどうにか仕事を続けられたのであって、内心気が気でなかった。
仮眠も十分に取れないまま夜が明けて、交番を次の勤務員に引き継ぎ終える。東はその足で茅のいる警察病院へと走った。事情を説明して彼の病室を訪ねれば、痛々しい姿の茅がベッドに横たわっていた。
一体、彼の身に何が起きたのかはわからない。しかしその白い肌には暴行の跡が刻みつけられていた。
ふつふつと怒りが湧いてくる。浅鍋で煮えられたようなほの暗い感情が。
どうして彼がこのような目に遭わなければいけないのだ。彼はもう十分過ぎるほどに傷つき、疲れ果てているというのに。
眠ったままの茅の隣で彼が目覚めるのを待っていると、上司から連絡が届いた。本来であれば今日は日勤の扱いだったが、市内で殺人事件が起きたので召集がかかったのだ。
上司も東の境遇を理解しているからか、同居人が目覚めるまでは病院にいてもよいと言うので、東は仮眠をとりながら茅が目覚めるのを待った。
目覚めた茅は混乱状態にあった。無理もないだろう。相当怖い思いをしたのかもしれない。落ち着くまでいてやりたい気持ちはあったが、仕事を蹴って彼に付いていたところで、余計な負担になるのが関の山である。
警察病院を出て署へと戻る。
灰色に燻んだ署内の二階に駆け上がると、上司である地域課の課長がデスクで書類を睨んでいた。
「お疲れ様です。すみません、遅くなって」
「ああ、北門。早速だが篠原巡査を連れて現場に行ってくれ」
葦野公園で死体が発見されたのは今朝方のことであった。普段は滅多に利用者のいない第三駐車場に車が一台駐車されており、市から清掃を委託されていた業者が不審に思っていると車内から異臭がしたため通報をしたという。
車はロックがかかっておらず、駆けつけた警察官が車内を確認したところ三名の変死体が発見された。
葦野公園は敷地内に山を含んでいるので、周囲を捜索するとなると刑事課だけでは人手が足りない。そうなると必然的に地域課の若い警察官たちが現場へ借り出されるのである。
未だ二十代の若手である東も、警察学校を卒業したばかりの篠原も、証拠品の捜索にあたることになっていた。
ショートカットの黒髪から覗くどんぐりのような目が特徴の篠原は、課員の中でも最も小柄な警察官である。
つい最近まで高校生であった彼女を死体のある現場へ引き連れて行って、山の中を捜索させるなんて随分酷な話だと東は思った。
「すみません、篠原さん。現場に行きましょうか」
「はい」
東は篠原を連れて現場へと向かう。
最近、実習のために解剖へ連れて行かれた篠原は、死体に相当なトラウマを抱いたようで、車中でも不安そうな面持ちで座っていた。
「やっぱり、やばい死体なんですかね」
「どうなんだろう。報告を聞く限り腐っているなんてことはなさそうでしたけど。でもまあ、我々は証拠品の捜索なんで大丈夫だと思いますよ。死体の搬出のときだけ近づかないようにしておけば」
「そばにいるとまずいんですか」
「俺は昔、川に浮かんでいた水死体を運ばされたことありました」
「うわあ」
「普通の死体ならいいんですけどね。腐っていると見た目がアレだし死臭がすごいし」
「ですよね! この間の実習でもやばかったんですよ。だから今日は見なくて済めばいいなと思って……」
取り留めのない会話をしていると公園に着く。
先に到着していた係長に声をかけ、証拠品の捜索班に合流しようとしていると、東はスーツ姿の男に声をかけられた。
「北門」
「ああ、お疲れ様です」
東が振り向いた先には同期である刑事課の後藤が立っている。同期と言っても大卒組である後藤は年上であるから、東にとっては気楽に接することのできる先輩のような人であった。
後藤が手招きするので、東は不思議に思いながらも彼に近寄った。
「どうしたんですか」
「昨晩山頂で発見された暴行事件のマル害が北門の知り合いって本当か?」
東は思っていたよりも話の広まりが早いことに辟易した。けれどそれを顔には出さないように、いつも通りの声色で返答をする。
「ええ、まあ。それがどうかしました」
「いや、近いうちに話を聞きに行くことになるだろうから確認しておこうと思って。まだ入院中だったよな」
「茅に話を? 後藤さんが事件の担当になったんですか」
「いや、殺人の方だよ。ただ同日に同じ場所、同じ時間帯で事件が起きてるから、そっちの事件とこっちの事件に何か関連性があるんじゃないかって。それにしても酷い仏さんだったよ。見られたもんじゃない。この辺でこんな事件が起きるなんてな」
「遺体、そんなに酷いんです?」
「見るか? これで殺人と暴行が同一犯だとしたら、お友達は本当に幸運だったよ」
後藤の後を追う。遠巻きに駐車場を眺める野次馬たちの横を通り過ぎれば、黄色い線で囲まれた事件現場が現れた。刑事や鑑識、初動活動に来ていた所轄の警察官たちが慌ただしそうに仕事をしている。
「ほら」
後藤が指し示す方向に目をやれば、黒いワゴン車が駐車されていた。扉は開け放たれており、中からは死臭とも獣臭ともわからぬ異臭が立ち込めている。
思わず東が顔を顰める。その隣で後藤はマスクを二重につけながら言った。
「すごい匂いだよ。マスクをいくらつけても貫通してくるんだから」
東も制服のポケットからマスクを取り出して着用するが、その言葉通り異臭が消えることはない。胸にこみ上げる吐き気を我慢しながら、東は車内を遠目に覗いた。
後部座席には二つの人影がもたれかかるようにして転がっていた。東は最初、その人影が暗がりにあるため顔が見えないのだと思った。
だが違った。顔が見えないのではなく、顔がないのだ。
「これは……」
「酷いもんだろ。余程身元を割られたくなかったのか、顔が綺麗に削ぎ落とされてる」
全身の至る部位が損傷している。刺し傷のような傷口が散見され、無傷の皮膚が残っているのを見つける方が難しい。何より奇妙なのは死体に纏わりついた黒い粘液のようなものであった。
「一体、何が起こったらこんな死に方に……」
「さてなあ。トランクにはもう一体仏さんが詰め込まれてたんだが、こっちは外傷がほとんどなかった。ほとんど……まあ、腰骨を折られて反対に畳まれてたがな」
後藤は手のひらを半分に折り曲げると半笑いで東に語りかける。
東は後藤のジェスチャーを横目に見ながら、病床の茅から聞いた話を思い返していた。
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