三、背徳アタナシア

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 首筋から流れる生温かい血がどくどくと冷たい土の上に溜まっていく。  開かれた瞳孔は光を失って久しい。呼吸も心臓も止まって身体中が冷たくなった頃、茅に被さっていた大きな影がようやく顔を上げた。  醜悪な顔から覗く鋭い歯からは絶え間なく赤い汁が滴り、彼の食欲が満たされたことを示している。全身を食い荒らされた茅の周囲には、肉片や衣服の切れ端がゴミのように散乱していて、血生臭い匂いだけが周辺に立ち込めていた。  彼らは残飯のような肉塊を放置したまま去るという下品な真似をする気はないようで、すでに先客のいるボストンバッグを手もとに置くと、身体のあちらこちらが血管や細い繊維でしか繋がっていない肉塊を詰め込もうと持ち上げて——その場に落とした。  獣とも人間ともつかぬ奇怪でくぐもった悲鳴が影から漏れる。鉤爪のついた手からはゆらゆらと煙が上がっており、肉の焼けつく嫌な匂いが充満した。  途端、地面に叩き落とされた茅の身体が、陸に釣り上げられた瀕死の魚のように痙攣し始めた。  相変わらず目は見開かれており、生気は微塵も感じられない。しかしその身体は古めかしい絡繰り人形のようにぎこちない動きで立ち上がった。  恐怖の色に染まって死に絶えた顔が、カクカクと動作を確認するように回り始める。その目が正面を見据えたかと思うと瞼が閉じた。幾度か瞬きをした後に、瞼がゆっくりと上がる。  先ほどまで白目であったはずの部分は黒く変色し、眼球を包み込むようにして眼孔からコールタール状の粘液が零れ落ちた。  それは最早眼孔からだけではない。鼻、口、耳、そして全身に散らばる無数の傷口。身体中に開いた穴という穴から混濁した粘り気のある液体が漏れ出している。  玉虫色のぬらぬらと艶めいたその粘液は、欠けた身体の部品を補うかのように集まっていくと、不完全ながらも身体の形へと変貌していく。  粘液の中には目玉が浮いていて影を捉えていた。それは一つや二つではない。粘液中に発生した無数の眼球が光のない瞳で影を見ていた。  グロテスクなその姿は、まさに怪物と形容するに相応しい。  おそらく茅であったその身体は、粘液を触手のようにうねらせた。その蠢く手は食屍鬼の顔面を捕らえると、顔を覆い尽くすように広がる。  影は触手を引き剥がそうと狂乱したが、その粘液に触れるたびに肉の溶ける匂いが漂うだけで、剥がれる気配はない。  もう一体の食屍鬼が四足歩行で駆けると怪物の身体に目がけて飛びついた。身体はあっさりと影に押し倒されたが、声を上げることも表情を変えることもなかった。  どろどろとした粘液は留まる所を知らず、全身にできた傷口から流れ出でる。それは意思を持った生き物のように揺蕩うと針のような形を成した。  影は二本の触手に絡みつかれ身動きがとれなくなる。四方八方から伸びた針のような触手は、鉄の処女の如く相手を処刑した。  黒く獣臭い血が怪物の身体に降り注ぐと、粘液はそれを歓迎するように自身の中に取り込んでいく。粘液から生み出された無数の触手は、容赦なく食屍鬼たちの全身を八つ裂きにしていった。  触手の大元にある茅の身体は引きちぎれんばかりに動き回り、奇怪な操り人形と化している。  一帯が惨状と呼ぶには生優しいほどに血肉で汚れきった頃、その動きが電池の切れた玩具のようにピタリと止まった。  息も絶え絶えな二つの影はボストンバッグを引きずって、這う這うの体で山道を転がり落ちるように逃げていく。  周囲に撒き散らされた血肉を貪るように粘液が包み込んでいく。やがてそれは満足したのかゆっくりと茅の身体に戻っていった。  立ち尽くしたままの茅の身体に、粘液が這い上がり絡みついていく。玉虫色の艶やかな液体がじわじわと骨や肉に変化し、それに被さった液体が色白の皮膚へと姿を変える。全身の肉体が形作られていき、ほんの数分前まで無残に食い殺された惨殺死体であった身体は、五体満足のそれへと化した。  茅は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。その胸は規則正しく上下している。心臓の鼓動が戻り、全身を血液が駆け巡っていく。  先ほどまでの喧騒が嘘だったかのように静かな夜が訪れた。辺り一面に滴っていたはずの血はすっかり消え失せ、散乱していたはずの肉片も欠片ですら見当たらない。  静寂の城跡に残ったのは、死んだように眠る茅の姿だけであった。
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